2021.10.24 の週報掲載の説教

2021.10.24 の週報掲載の説教
<2020年5月10日の説教から>

ルカによる福音書6章17節~19節

『何とかしてイエスに触れようとした』
牧師 三輪地塩

「おびただしい群衆」がイエスを囲んでいた。「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした」からだ。この言葉は印象的である。「何とかして」という語は、ギリシャ語原文にはない。直訳では「イエスに触れようと求め続けていた」となる。しかしこの「何とかして」という言葉は、実にしっくりくる良い翻訳である。「触れようと努めた」というのではなく「何とかしてイエスに触れようとした」という方が、群衆の思いがよく表われているからだ。

「おびただしい群衆」「混み合った群衆たち」はルカ8章の12年間の長血の女性の話を思い起こさせる。群衆をかき分け、イエスの服の房にでも触れる事が出来れば、この長血が癒やされるに違いないと信じ、「何とかしてイエスに触れようとして」こっそり後ろから近寄ったのだった。イエスはこの事に目を留め、「あなたの信仰があなたを救った」、と宣言し、彼女は癒された。また、徴税人ザアカイ(19章)も同じく「群衆にさえぎられて」イエスが見えなかったと言われているが、木に登ってイエスに相まみえた。

長血の女性もザアカイも、当時のユダヤ人社会においては、両者とも「罪人」であったということが重要である。ユダヤ人から税金を多く取り立てていた文字通りの罪人ザアカイと、ユダヤ法によって「罪人」という「レッテルを貼られた、長血の女性である。彼等の側から近づき、何とかしてイエスに触れよう、御言葉に聞こうとしたのは、大変に意義深いことである。「神に近づく」のはユダヤ教の宗教性から言うと、あり得ないことだった。神に近づく(神殿の中に入る)ことが出来るのは大祭司のみであった。特に、エルサレム神殿の中には奥に「至聖所」という特別室があり、ここに神の律法の石板(十戒)が安置されていたという。ユダヤ法で特別に認められた者だけであり、ライセンスが必要だった。神は遠い方だった。だが我々は、この神への近づきが「イエス・キリスト」において許されている。受肉されたキリストは、「われらと共にいまし給う神」

インマヌエルであり給うのだ。