NEW! 2021.10.31 主日礼拝の案内

2021.10.31 主日礼拝の案内
週 報  76 巻  44 号 2021.10.31
エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。

(ルカによる福音書19章41節~42節)
主 日 礼 拝  午前10:30
<宗教改革記念日礼拝>
奏楽 板 垣 玲 子

<神の招き>
招 詞 ヨエル書 3章1節

*讃 詠  546

罪の告白と赦し 交読詩編119編137節~144節

*讃美歌 58 〔1-2〕

<神の言葉>
聖 書 創世記3章17節~19節    (旧約P. 4)

ルカによる福音書19章37節~48節(新約P.147)

祈 り          増 田 裕 子

*讃美歌 537〔1-2〕                                                                  説  教 「この人たちが黙れば、石が叫びだす」

三 輪  地 塩

<神への応答>
*讃美歌 243〔1-2〕

公 告

*主の祈り

*頌 栄 540

*後 奏

礼拝当番(今週)安井 国雄

(次週)三浦 勇二

ライブ配信当番
(今週)小出 勝

(次週)小出 勝

2021.10.31~11.6 の集会案内

2021.10.31~11.6 の集会案内
      集 会
〇「教会員の生活」による学びの会   休 会

〇朝カフェ              休 会

〇入門の会              休 会

〇クワイア練習            中 止

〇コイノニア             中 止

〇礼拝堂・1階の消毒(有志)     礼 拝 後

〇墓前礼拝(青葉園)           13:30

今 週 の 集 会 
◎祈祷題

「会堂改修のため」

「日本軍『慰安婦』問題と取り組む会主催 映画会のため」

〇聖書の学びと祈りの会

11月4日(木)10:00

ネヘミヤ記4章(担当 三輪地塩)司会 安 井 英 子

※ラインで行います。

次 週 礼 拝
説教

「キリストの権威」    三 輪 地 塩

イザヤ書22章12節~14節

ルカによる福音書20章1節~8節

讃美歌

545A、61 (1-2)、Ⅱ195(1-2)、502 (1-2)、541

岩 本 道 子

2021.10.31 週報 教会からのお知らせ

2021.10.31 週報 教会からのお知らせ
◇本日、墓前礼拝のための配車は致しませんので、ご了承

ください。

 
◇次週11月7日(日) 9:00~9:30地域の清掃に有志が参加

いたします。

 
会堂改修工事についてお知らせ
①1階の床・壁の張替が終了しました。

②11月からは2階の工事をいたします。1階会堂で礼拝を

することがありますので、ご了承ください。

 
日本軍『慰安婦問題』と取り組む会主催映画会

11月3日(休・水) 14:00~16:30 *予約は前日20:00まで

『アリランのうた-沖縄からの証言-』をzoomで上映します。

全員協議会公告
日時:11月14日(日)礼拝後12:00~13:30

内容:「浦和教会の今後について」

参加:浦和教会の会員

*昼食をとる方は開始までにお済ませください。

2021.10.31 の週報掲載の説教

2021.10.31 の週報掲載の説教
<2020年5月17日の説教から>

ルカによる福音書6章20節~26節

『貧しい人々は幸いである』
牧師 三輪地塩

平地の説教と言われるこの箇所、イエスは開口一番、「貧しい人々は」と語られる。この言葉は重要である。それは、マタイ福音書の「山上の説教(5~7章)」と比べると良くわかる。マタイでは「心の貧しい人々」とあり、貧しさを「心」に限定しているのに対し、ルカでは、「貧しい人々」と呼び掛け、「現実の貧しさ」にスポットを当てている。

ギリシャ語の「貧しい人」は「プトーコス」という単語が使われる。プトーコスは「謙遜」「卑下」の意味を含まない「本当の貧しさ」を表す言葉である。プトーコスは「普通の生活ができる貧乏ぶり」や、「借金返済のため何とか遣り繰りしている状態」を含まない、「極めて貧困な状態」「本当の窮乏」を示す言葉である。現在は差別用語であるが、かつてはこれを「乞食」と訳すことも出来た言葉こそが「プトーコス」であった。この言葉で言い換えることが許されるならば、「乞食たちは幸いだ」と言っている。これは非常にインパクトのある言葉となる。「乞食」は差別・侮蔑の意味を含んでいる。その人たちは「幸いだ」という。嫌味で言っているのではない。イエスはこれを真実として語るのである。

すなわち、社会的に差別され、肉体的に飢え、生きることすらままならない、世間的には価値のない者たち、と思われている「プトーコス」「乞食」「貧しい人々」こそが、まさに神の祝福の対象者だと聖書は述べている。神の福音はこれらの者のために与えられていると断言される。貧しいヨセフとマリアのもとで主イエスがお生まれになったのも、ガリラヤの片田舎にいた者たちを弟子として呼び集めたのも、「貧しい者」が「幸いなる者」であることを示している。それは、財産における貧しさのみならず、病気、差別や、徴税人、娼婦、罪人などに至るまで、福音が貧しい者のために語られることを示している。我々は、自らの身に「罪」というどうしようもない「貧しさ」を帯びている。この貧しさを贖われるのが、自ら貧しさの極致を歩まれたキリストに他ならない。