2022.1.30 主日礼拝の案内
週 報 77 巻 5 号 2022.1.30
しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。(ルカによる福音書22章3節)
主 日 礼 拝 午前 10:30
奏楽 加 藤 純 子
<神の招き>
招 詞 イザヤ書42章1 節a
*讃 詠 545A
*罪の告白と赦し 交読詩編131編1節~3節
*讃美歌 11〔1-3〕
<神の言葉>
聖 書
創世記1章26節~27節(旧約P.2 )
26 神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
27 神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男と女に創造された。
ルカによる福音書22章1節~6節(新約P.153)
1 さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。
2 祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。
3 しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。
4 ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。
5 彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。
6 ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。
祈 り 松 谷 信 司
*讃美歌 537〔1-2〕
説 教 「人間の不遜な罪から」 三 輪 地 塩
<神への応答>
*讃美歌 239〔1-2〕
*使徒信条
公 告
*献金感謝
*主の祈り
*頌 栄 540
*派遣と祝福
*後 奏
[*] の箇所は起立して行いますが、立つのが困難な方は
お座りのままでどうぞ。
礼拝当番
(今週)増田裕子 (次週)伊木美穂子
献金当番
(今週)岩本道子 青木節子
(次週)松谷信司 安井英子
ライブ配信当番
(今週)小出 勝
(次週)新畑 信
2022.1.30~2022.2.5の集会案内
本 日 の 集 会
〇『教会員の生活』による学びの会
1階会議室 9:30
(P.8聖餐~P.11日曜学校礼拝の前まで)
〇朝カフェ 休 会
〇入門の会 休 会
〇クワイア練習 中 止
〇コイノニア 中 止
〇礼拝堂・1階の消毒(有志) 礼 拝 後
〇日曜学校教師会 礼 拝 後
今 週 の 集 会
◎祈祷題
「神学生が与えられるため」
「日本キリスト教会の教師のため」
〇聖書の学びと祈りの会 2月3日(木)10:00
エステル記2章 司会 安 井 英 子
※ラインで行います。
次 週 礼 拝
説教
「イエス様御一行 旅のはじまり」 神学生 安 彦 晴 樹
エレミヤ書16章16節
マルコによる福音書1章16節~20節
讃美歌 545B、12 (1-2)、270(1-2)、502(1-2)、541
板 垣 玲 子
2022.1.30 週報 教会からのお知らせ
*1月23日(日) に総会が開催されました。
① 長老・執事は以下のように決まりました。
長老:増田裕子、松谷信司、安井国雄の3名(50音順)
(任期中の長老:伊木美穂子、三浦勇二、森﨑千恵)
執事:岩本道子、加藤純子、菊地晴子、小出 勝、新畑 信、
薄田東正、野田昭子、済陽高志の8名(50音順)
② 教師三輪地塩の浦和教会牧師辞職の件、可決。
教師試補鈴木美津子の浦和教会牧師招聘の件、可決。
③ 大中会の負担金がこれまで4500円でしたが、今総会
において、5000円に変更することが決まりました。
*総会が終わり新しい年度が始まりました。
維持献金、大中会負担金(5000円)をお願いします。
また、共助金庫、会堂改修の献金は自由献金ですので、
受付の封筒でこちらも宜しくお願いします。
2022.1.1.30 の週報掲載の説教
<2020年8月9日の説教から>
『光が見えるように』(平和記念礼拝)
ルカによる福音書8章16節~18節
牧師 三輪地塩
イエスは「種蒔きの譬え」を語った後、18節で「だから、どう聞くべきかに注意しなさい」と述べる。
例えば、テレビで落語や漫才などを観て、ただ笑っているだけなら簡単なのだが、「同じ事をやってみなさい」と言われたら、一語一句聞き漏らさないように、そのタイミング、話の間など、細かな事まで一生懸命に聞き逃さないようにしなければ、同じことなど出来ないだろう。ただ単純に笑って聞いていた聞き方ではない、「全く違った聞き方」になるはずである。
かくいう筆者も、神学生時代に初めて説教演習を行う際、何をどうやって話せば良いのか分からず、稚拙で深みのない説教原稿を書いたことを思い出す。「聞く」とは完全な受動であるが、「語る」という能動的な「聞く」であるべきだ、とイエスは言っているのだろうと思う。「どう聞くべきか注意しなさい」の言葉は、まさに説教を聞く礼拝者・聴衆たちへの問い掛けである。
ルカ福音書は次に「持っている人は更に与えられる」というイエスの言葉を伝えている。フィリピ書3章12節の使徒パウロの言葉が共鳴する。「私は既に、それを得たというわけではなく、既に完全なものとなっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟達、私自身は既に捕らえたと思っていません。成すべき事はただ一つ、後ろのものを忘れ、前にものに全身を向けつつ、~~目標を目指してひたすら走ることです」。
我々の信仰は「これで終わり」ということはない。いつまでも聞き続け、求め続けていく信仰である。御言葉をどう聞き、どう公に表していくか。それが重要である。また御言葉は、ひとたび聞かれると、それが心の内に密かに留まっている事はありえないとも述べられている(「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」)。
平和記念礼拝において、我々は「平和」を願う。平和とは、形而上学的で概念的な理想論ではない。具体的に行動として表われる最善の結果である。そのために我々は、御言葉をどう聞き、どう公にするのか。信仰者の重要な務めである。