2022.5.8 主日礼拝の案内
週 報 77 巻 19 号 2022.5.8
わたしはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。(ローマの信徒への手紙1章5節)
主 日 礼 拝 午前 10:30
奏楽 三 輪 志 都
<神の招き>
招 詞
ヨエル書3章1節
1その後
わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。
あなたたちの息子や娘は預言し
老人は夢を見、若者は幻を見る。
*讃 詠 545B
*聖 書 マルコによる福音書16章14節~18節(新約P.98)
14その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。
15それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
16信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。
17信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
18手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
日曜学校説教「全世界に出て行って」加 藤 純 子
讃美歌 454(1-2)
<神の言葉>
聖 書
エレミヤ書23章5~6節 (旧約P.1219)
5見よ、このような日が来る、と主は言われる。
わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。
王は治め、栄え
この国に正義と恵みの業を行う。
6彼の代にユダは救われ
イスラエルは安らかに住む。
彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。
ローマの信徒への手紙1章1節~7節(新約P.273)
1キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――
2この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、
3御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
4聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。
5わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。
6この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。――
7神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
祈 り 安 井 国 雄
*讃美歌 213(1-2) 説 教 「主イエス・キリストの福音」 鈴木 美津子
<神への応答>
*讃美歌 Ⅱ195(1-2)
*使徒信条
公 告
*献金感謝
*主の祈り
*頌 栄 542
*派遣と祝福
*後 奏
2022.5.9~2022.5.15の集会案内
本 日 の 集 会
〇朝カフェ 休 会
〇入門の会 休 会
〇クワイア練習 中 止
〇コイノニア 中 止
〇礼拝堂・1階の消毒(有志) 礼 拝 後
〇5月定期小会 礼 拝 後
今 週 の 集 会
◎祈祷題「日本キリスト教会の教師のため」
〇聖書の学びと祈りの会 5月12日(木)10:00
ヨブ記6章(担当 鈴木 美津子) 司会 板 垣 玲 子
※対面とラインの両方で行います。
次 週 礼 拝
説教 「信仰によって励まし合う」 鈴木 美津子
申命記23章2節~9節
ローマの信徒への手紙1章8節~12節
讃美歌 岩 本 道 子
546、 58(1-2)、537(1-2)、453(1-2)、543
日曜学校礼拝「わたしを愛しているか」 安 井 国 雄
ヨハネによる福音書21章15節~17節
2022.5.8 週報 教会からのお知らせ
◇日曜学校礼拝についてのお知らせ
日曜学校礼拝は、月2回おとなの礼拝の中で行われて
いましたが、次週15日から毎週1階で9時から行います。
どうぞ、お間違いの無いようにお願いします。
◇5月3日(火) 司式 藤井和弘牧師、勧告 高松牧人牧師に
より、鈴木美津子牧師就職式が行われました。引き続き
行われた感謝会では、藤井和弘牧師、三好明牧師、村松
惠美牧師から祝辞をいただきました。
教会員36名、浦和教会以外38名、合計74名の出席
【訃報】
5月1日(日) 冨岡富士子さんが天に召されました。(97歳)
5月4日(水) 牧師鈴木美津子司式により、浦和教会にて
葬儀式を行いました。ご遺族の上に主の慰めを祈ります。
2022.5.8 の週報掲載の説教
<2022年4月24日の説教から>
ルカによる福音書24章1-12節
『あなたがたに平和があるように』
牧師 鈴木美津子
復活の主の手と脇腹には、十字架の時に受けられた傷跡がある。この傷跡は主イエスの私たちへの確かな愛を示す印である。私たちの罪を担って受けられた主の十字架の象徴であるからだ。
十字架の出来事以来、ユダヤ人たちの迫害を恐れて、息をひそめるように部屋に閉じこもっていた弟子たちの前に、復活の主イエスは忽然と現われ、「あなたがたに平和がありますように(19節)」、と言われた。その手と脇腹には、十字架で受けた傷跡があった。弟子たちは、驚愕したが、その姿と言葉で主の復活を信じた。
ところが、弟子のトマス一人だけが不在であった。「主イエスと自分も一緒に死ぬ覚悟だ」と大層な発言をしていた自分が、主の十字架を前に、逃げ出したことをずっと後悔していたトマスにとって、衝撃的な出来事でした。おそらく、「自分だけが取り残されてしまった。自分は主イエスに見捨てられてしまった」と思ったのだろう。傷心のトマスが言い放った「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」という言葉で、後々まで「疑い深いトマス」と言い伝えられるようになってしまった。しかし、本当にそうなのか。トマスの言葉は、彼の心の悲痛な叫びではなかったのか。
さて、復活の主は一週間後の日曜日に、トマスを含む弟子たちの前に再び現れた。トマスに自分が十字架で受けられた傷跡を示し、それを触って見るように言われた(27節)。もちろん、これはトマスが自分からそれを確かめなければ決して信じないと言ったことを受けた主イエスの行為である。しかし、私たちは、この示された傷跡こそが愛の印であることを忘れてはならない。主イエスは、トマスにご自身の愛を示されたのである。「自分はイエス様に見捨てられてしまったに違いない」と、苦しむトマスに主は「決してあなたを見捨ててはいない。そしてこれがあなたを愛している証拠だ」と傷跡を示されたのだ。
ところで、トマスは、主の傷跡に触れたのだろうか。聖書は彼が傷跡に直接触れたとは記していない。むしろ、トマスは主の愛に押し出されて、「わたしの主、わたしの神よ」(28節)と信仰を告白したである。
私たちは、弟子たちのように復活の主の姿をこの目で見ることはできない。しかし、主イエスは言われる。「見ないで信じるものは、幸いである」。