2022.5.8 の週報掲載の説教

2022.5.8 の週報掲載の説教

<2022年4月24日の説教から>

ルカによる福音書24章1-12節

『あなたがたに平和があるように』

牧師 鈴木美津子

復活の主の手と脇腹には、十字架の時に受けられた傷跡がある。この傷跡は主イエスの私たちへの確かな愛を示す印である。私たちの罪を担って受けられた主の十字架の象徴であるからだ。

十字架の出来事以来、ユダヤ人たちの迫害を恐れて、息をひそめるように部屋に閉じこもっていた弟子たちの前に、復活の主イエスは忽然と現われ、「あなたがたに平和がありますように(19節)」、と言われた。その手と脇腹には、十字架で受けた傷跡があった。弟子たちは、驚愕したが、その姿と言葉で主の復活を信じた。

ところが、弟子のトマス一人だけが不在であった。「主イエスと自分も一緒に死ぬ覚悟だ」と大層な発言をしていた自分が、主の十字架を前に、逃げ出したことをずっと後悔していたトマスにとって、衝撃的な出来事でした。おそらく、「自分だけが取り残されてしまった。自分は主イエスに見捨てられてしまった」と思ったのだろう。傷心のトマスが言い放った「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」という言葉で、後々まで「疑い深いトマス」と言い伝えられるようになってしまった。しかし、本当にそうなのか。トマスの言葉は、彼の心の悲痛な叫びではなかったのか。

さて、復活の主は一週間後の日曜日に、トマスを含む弟子たちの前に再び現れた。トマスに自分が十字架で受けられた傷跡を示し、それを触って見るように言われた(27節)。もちろん、これはトマスが自分からそれを確かめなければ決して信じないと言ったことを受けた主イエスの行為である。しかし、私たちは、この示された傷跡こそが愛の印であることを忘れてはならない。主イエスは、トマスにご自身の愛を示されたのである。「自分はイエス様に見捨てられてしまったに違いない」と、苦しむトマスに主は「決してあなたを見捨ててはいない。そしてこれがあなたを愛している証拠だ」と傷跡を示されたのだ。

ところで、トマスは、主の傷跡に触れたのだろうか。聖書は彼が傷跡に直接触れたとは記していない。むしろ、トマスは主の愛に押し出されて、「わたしの主、わたしの神よ」(28節)と信仰を告白したである。

私たちは、弟子たちのように復活の主の姿をこの目で見ることはできない。しかし、主イエスは言われる。「見ないで信じるものは、幸いである」。