2022.10.30 の週報掲載の説教

2022.10.30 の週報掲載の説教
2022918日の説教から>
『神の約束』
ローマの信徒への手紙4章13節~17節

牧 師 鈴木美津子

 
信仰義認とは、簡潔に言えばキリストを信じる信仰によって義と認められることで、神の法廷での無罪宣告に他ならない。しかし、それだけではない。信仰義認は、この世の論理の中に閉じ込められるような小さなものではないからだ。キリスト者には、信仰によって義と認められた以上、神の子とされ、永遠の命が約束される。それどころか神の国のあらゆる特権と富とが約束されているのである。その恵みは満ち溢れ続け、尽きることがない。

そのことが、「世界を受け継がせる」、という約束に要約されている。この「受け継がせる」、という約束は私たち人間が自分たちの意志や決意で受け継ぐ、という意味ではない。人間の意志とは無関係に下される神の決定である。だから、「世界を受け継がせることを約束された」、とは聖書的には、「世界を受け継がせることを命じられた」、ということである。神は、私たちにその素晴らしいご自身の御国を、全ての財産を、そして永遠の命を「受けよ」と命じられている。なんと、身に余る言葉、恩恵ではないか。「この私のような愚かな罪人が、どうして、そのようなものをいただけましょうか」、と額ずくのが精一杯である。しかし、その私たちに恵みの世継ぎが命じられる。「受けよ」。このことが、イエス・キリストの十字架で確かに真実であると示されたのである。神の御子イエス・キリストが十字架で死なれるほどに、罪にまみれ、汚れたこの私を愛してくださった、そうである以上、神が私たちにくださらないものは、もはや何も残っていない。ここに神の恩恵の全てがある。

ローマの信徒への手紙は、すでに3章で、その中心的真理である信仰義認の真理が示されたが、実はそこからが重要なのだ。信仰義認の真理から流れ出る恩恵と愛とが、あちらこちらに散りばめられているからである。この手紙は、まさにキリスト者である私たちへの「愛の手紙」ではないのか。その神の恩恵と愛は、今まだ序章にすぎない。これからが本編である。このことがこの手紙がルターを始め多くの人々に愛されてきた所以である。

自分の愚かさを嘆いたり、救いに不安を感じたりする時、実は私たちはまだキリストの愛をよくわかっていない。主なる神は、罪人である私たちに、救われよ、神の国を受けよ、と命じておられる。