2023.6.11 の週報掲載の説教

2023.6.11 の週報掲載の説教
<2023年4月23日の説教から>

『選びの民のために祈る』
ローマの信徒への手紙9章1節~5節

 
牧 師 鈴木美津子

 
パウロにとって、肉による同胞のユダヤ人たちがイエス・キリストを信じないことは、深い悲しみであり、絶え間ない心の痛みであった。パウロは、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ願ったほどである。なぜなら、ユダヤ人たちの多くは、イエス・キリストを拒んで、神から見捨てられた者となっていたからだ。

神は、アブラハムを召し出し、イサク、ヤコブと契約を結び、ヤコブをイスラエルと呼び、約束のとおりその子孫を天の星のように増やされた。そして、イスラエルを御自分の民として、栄光、契約、律法、礼拝、約束を与えられた。神はそのようにして、イスラエルが約束のメシアであるイエス・キリストを受け入れるようにと計画され、準備をして来られたのである。

しかし、実際にイエス・キリストが生まれると、イスラエルはイエス・キリストを拒んだ。拒んで、十字架につけて殺してしまったのだ。それだけでなく、復活して、万物の上におられるイエス・キリストを今も拒み続けている。なぜ、神の民であるイスラエルが約束の救い主であるイエス・キリストを今も拒み続けているのか?そのことを思うとき、パウロは深い悲しみと絶え間ない心の痛みを覚えずにおれなかったのである。

この御言葉を読むとき、私たちが問われる一つのことは、私たちもイエス・キリストを拒み続ける肉による同胞である日本人のために、深く悲しみ、絶え間ない痛みを覚えているか?ということである。パウロの肉による同胞は神の民イスラエルであり、私たちの肉による同胞である日本人は真の神を知らない異邦人である。状況は同じであるとは言えない。しかし、もし、私たちがイエス・キリストを拒み続ける同胞に対して悲しみと心の痛みを覚えないというのなら、それはキリスト者として不健全ではないだろうか。なぜなら、その悲しみ、心の痛みこそ、イエス・キリストの悲しみであり、心の痛みだからである。イエス・キリストは、すべての人を救うために、神から見捨てられるという十字架の死を死んでくださった。そのイエス・キリストの愛を知った者として、私たちもまた、同胞である日本人に、イエス・キリストの福音を忍耐強く宣べ伝えてゆきたいと願うのである。