2023.12.3 の週報掲載の説教

2023.12.3 の週報掲載の説教

<2023年9月24日説教から>

『主イエスのために』

ローマの信徒への手紙14章1節~6節

牧 師 鈴木美津子

 
特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです(6)」。ローマの教会には、何でも食べる信仰の強い人と、野菜だけを食べる信仰の弱い人がいた。信仰の強い人が多数派であり、信仰の弱い人が少数派であった。この両者の間で争いが起こっていたのである。

これに対して、パウロは6節で、自分の心の確信が、「主イエスのため」であるという確信であることを教えている。何でも食べる人は、何でも食べることが主イエスのためであると自分の心に確信して、何でも食べる。他方、野菜だけを食べる人も、肉を食べないことが主イエスのためであると自分の心に確信して、野菜だけを食べる。ですから、彼らは食べる物が違っていても、その確信、その動機は同じ、「主イエスのために」ということであるのだ。ここに主イエスの僕である者の一致がある。

「食べる人は主のために食べる」、「食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝している」とパウロが語るとき、食べない人は、食べない物に対して、感謝をささげているのではない。食べる野菜のことで神に感謝をささげているのである。

それぞれの食卓を想像してほしい。強い人の食卓には、肉も酒も並んでいる。そして、強い人は神に感謝の祈りをささげて、何でも食べるのである。他方、弱い人の食卓には、野菜とおそらく水が並んでいる。そして、弱い人も神に感謝の祈りをささげて野菜だけを食べる。強い人は主イエスのために何でも食べ、神に感謝をささげる。弱い人も主イエスのために野菜だけを食べ、神に感謝をささげるのだ。「主イエスのために」「神に感謝をささげる」、互いがこの一致に気づくとき、彼らは、主の食卓を共に囲むことができるのである。初代教会では、聖餐式は、食事と一緒に行われていた。私たちは礼拝において、ひとかけらのパンを食べ、少量のぶどう液を飲む。けれども、初代教会においては、聖餐式と食卓の交わりが一つであったのだ。そのことを考えるとき、食べ物のことで互いを裁き合うことが、どれほど、愚かで、教会の一致を損なうことであったかが分かる。しかし、主イエスは、御自分の食卓に、何でも食べる人と野菜だけを食べる人を招いてくださる。それゆえに、私たちも様々な違いを認めつつ、「主イエスのために」互いに受け入れ合うのである。