2026.7.26 週報掲載の説教

2026.7.26 週報掲載の説教

【2026年5月10日の説教から】

成し遂げられた救い

ヨハネによる福音書19章17節〜30節

鈴木美津子

本日の御言葉は、十字架の上で主イエスが語られた「成し遂げられた」という言葉を中心に示している。この言葉は単なる終わりではない。力尽きて終わったという意味ではなく、神の救いの御業が完成したことを告げる言葉である。

主イエスは人々に引き渡されたが、ただ人の手に委ねられたままではない。「自ら十字架を背負い」とあるように、父なる神の御心の中で、この道を主体的に引き受けておられる。人に委ねられながらも、その歩みは神に向かって貫かれている。

十字架の上には「ユダヤ人の王」と記された罪状書きが掲げられる。本来は処刑理由を示すものであるが、人々はこれを書き換えようとした。しかしその言葉は書き換えられることなく残される。人が否定しようとしても、このお方が王であることは覆されない。王は玉座ではなく、十字架の上におられる。しかしその同じ場所で、人々は無関心の中にある。兵士たちは衣を分け合い、目の前の出来事の意味に心を向けない。一方で、十字架のそばに立つ者たちはその場にとどまり、主の言葉を受け取る。主は苦しみの中にあっても他者に向かい、新しい関係を与えられる。

さらに「渇く」という言葉において、詩編の祈りが重なる。主イエスはただ苦しんでいるのではなく、神に向かって叫びながら、なお神に向かっておられる。聖書の語ってきた祈りの道を、実際に歩まれているのである。

そして「成し遂げられた」と語られる。この出来事は偶然ではなく、これまで語られてきた神の約束がここで実現したことを意味する。救いは可能性ではなく、すでに成った事実である。

礼拝とは、この完成された救いの前に立つことである。私たちは何かを成し遂げるために集められるのではなく、すでに成し遂げられた御業によって立たされている。なお整えられている途上にあるまま、それぞれの歩みへと遣わされていくが、その土台は揺らがない。この御言葉に支えられて歩む一週間へと導かれていく。