2026.8.23 週報掲載の説教
<2026年5月31日の説教から>
『マリアの名を呼ばれる復活の主』
ヨハネによる福音書20章1節〜18
牧師 鈴木美津子
主イエスは十字架にかけられ、死んで、墓に葬られた。弟子たちは深い悲しみと戸惑いの中にあった。そのあとに迎えた朝、マグダラのマリアは、まだ暗いうちに墓へ向かった。墓に着くと、入り口をふさいでいた大きな石が取りのけられていた。マリアは驚く。しかし、何が起こったのかは、まだ分からない。マリアは弟子たちのもとへ走り、「主が墓から取り去られた」と告げる。
ペトロともう一人の弟子も墓へ向かい、中を見る。体を包んでいた布は残されていた。しかし、それでもなお、彼らには復活が分からない。ヨハネ福音書は、「二人はまだ理解していなかった」と語る。見ているのに分からない。そこにあっても気づかない。この復活の記事は、そのようなところから始まっている。
弟子たちは帰っていくが、マリアはその場にとどまり、泣き続ける。振り向くと、一人の人が立っている。しかし、それが主イエスであるとは分からない。主イエスは死んでしまった、そのように思い込んでいるからである。主を求めているのに、その主に気づくことができない。
そのとき、主イエスは「マリア」と名を呼ばれる。ただその一言で、すべてが変わる。マリアは、「ラボニ」と応える。自分で見いだしたのではない。主が先に呼ばれ、その呼びかけによって気づかされたのである。
さらに主イエスは、マリアを弟子たちのもとへ遣わされる。「わたしは主を見ました」と語る者とされたのである。ここから、一人に語られた主の言葉が、人から人へと広がっていく。教会の歩みは、この出来事から始まっている。
私たちもまた、自分でたどり着いたのではない。主に呼ばれてここに立たされている。どのような時にも、主は私たちの名を知り、呼びかけておられるのである。
