聖なる神

2009.7.19  イザヤ書 6:1-8  牧師 中家 誠

 預言者イザヤ(今から2750年前の人)が、神から召命(神に用いられるために呼ばれること)を受けた時、彼は神殿の中で、聖なる神の栄光が満ちるのを覚えた。それは高く天にそびえ立ち、また全地に満ちる神の栄光であった。

 そのとき、彼が聞いた天来の響きは、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」という讃美の声であった。「聖なる」とは、この世と「異なる」「はるかに超えた」との意であり、神が天地の創造者として持ちたもう尊厳と栄光である。

 彼は、その圧倒される力に打たれて、「災いだ、わたしは滅びるばかりだ。汚れた民の中に住む者であるのに、王なる万軍の主を仰ぎ見たのだから」と、心の内に叫んだとある。

 わたしたち日本人は、「神の聖」の観念がうすいと言われる。創造者と被造物が地続きとなっているのである。しかし両者には、絶対的な相違がある。一方は造り主であり、他方は造られたもの。一方は無限であり、他方は有限である。この高き無限の神が低き者となり、愛のゆえに人となって来られたのがイエス・キリストである。ここにキリスト教の基があるのである。

わたしは世の光である

2009.7.12  ヨハネ 8:12-20  牧師 中家 誠

 仮庵の祭りは、イスラエルにとって秋の収穫感謝祭であり、出エジプトの荒野の生活を想起する時である。この祭りはまた、「水の祭り」「光の祭り」とも呼ばれた。シロアムの池から水を汲んできて祭壇に注ぐ。また燈火を明るくともして人々が歌い踊るのである。

 この祭りの終わりに、主イエスは「わたしは世の光である。わたしに従う者は闇の中を歩くことがない」と言われた。主イエスこそ、神のもとから来られた「真の光、命の光」である。これはキリストの自己宣言であり、わたしたちはそれを信じ、教会の信仰告白ともなっている。

 さて、光は闇の中に輝く。闇とは、①わたしたちの死と隣り合わせの苦しみや不安であり、②人の心の中にある憎しみや敵意の闇である。また③「自分が何処から来て、どこへ行く者であるか」を知らないことである。このような心の闇を照らし、いのちの根源者である父なる神のもとに導いてくださるのが、御子イエス・キリストの使命なのである。

 このキリストの証言を信じ受入れ、キリストと命の交わりを持つ時に、人は闇の中を歩くことがない。これは事実である。この証言を信じ受入れた人たちは、死の恐れから解放され、憎しみや敵意から解き放たれ、愛の人として生きたのである。コルベ神父の勇気、マザーテレサの愛は、これを物語る。そこに至ることは容易ではないが、そこに正しい真の生き方があることをわたしたちは知っている。これらは「世の光」であるキリストから来るのである。

わたしを顧みられる神

2009.6.28  創世記 16:1-16  牧師 中家 誠

 神がアブラハムに、「わたしが示す地に行きなさい」と命じた後、10年の歳月が流れた。その時、彼にはまだ子がなかった。妻サラはアブラハムに言う、「わたしの女奴隷のところに入り、わたしに子を与えてください」と。これは神の意に添う道ではなかった。

 やがて女奴隷ハガルは子を宿し、そこに思いがけない亀裂が生じてくる。女奴隷は女主人を軽んじ、女主人は彼女につらく当たるようになった。そこでハガルは、自分の故郷エジプトを目指して逃れようとする。しかしそれは死を意味したのである。

 その時である。主なる神がハガルに出会って問いたもうたのは。「ハガルよ、あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」。主はすべてをご承知でありつつ、そう問いたもう。そして「あなたはわたしのもとに来なさい。そして生きよ!」と。こうして神は信仰の道、従順の道へと導きたもう。地位も身分もない女奴隷に対してである。

 わたしたちも、人生のただ中で、ただひとり、行くあてのない道を歩いて行く時がある。その途上で、神はわたしたちに出会ってこう言われる。「あなたは何処に行こうとしているのか」と。神はすべての者を顧みたもう神である。それゆえに、わたしたちは天涯の孤児ではなく、永遠の父を持つ者であり、宿なしではなく、来るべき永遠の御国を持つ者たちなのである。

恩寵と召命

2009.6.21  詩編 139:1-18  牧師 中家 誠

 恩寵とは、広辞苑によれば、「罪深い人間が、神から与えられる無償の賜物」とあり、「超自然的な宗教の世界を『恩寵の国』という」とある。

 わたしたち、取るに足りない者が、神の特別な恵の中に遇されることである。昔から、神の恵により、キリストによって贖われた者は皆、この恩寵の世界に生きてきたのである。

 神の恩寵に与かる者は、まず、神の「知遇」(神に知られることの幸い)を受けるのである。創世記のヤコブが(創28:16)、預言者エレミヤが(エレミヤ1:5)、キリストの弟子となったナタナエルが(ヨハネ1:48)、徴税人のザアカイが(ルカ19:5)、そして使徒パウロが(使徒9:4)、皆、自分の名を呼ばれて、神の知遇を受けた。それは、自分が神を知る前に、神に知られていることの不思議な経験である。
 「神を知る」とは、「自分が神に知られている」ことの経験である。詩編139編には、そのことがつぶさに語られている。驚きと喜びをもって。

 そして「召命」とは、その神に知られている自分が、神に捕えられ、神のご栄光を現す者となって行く、その光栄のことである。恩寵に捕えられた人は、必ず、神に応答し、召命(呼ばれること、Calling)に生きる者となって行くのである。聖書はその「証しの書」なのである。

生きた水が川となって

2009.6.14  ヨハネ 7:32-39  牧師 中家 誠

 ユダヤでの仮庵の祭は、秋(9~10月頃)に行われる収穫感謝祭と出エジプトの記念日を兼ねた祭りである。その祭りの最も盛大に祝われる日に、主イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と。

 水は、パレスチナや荒野で生活する人々にとって、真に切実なものである。そこには、出エジプトの際の苦しみが反映している。

 また、わたしたち人間には、常に「渇き」というものがある。今日、経済不況のゆえに、多くの人々が生活上の苦しみを味わっている。そのような生活苦からくる「渇き」。更に、もっと奥深い人間の内奥から来る「心の渇き」がある。しかしこの後者の渇きは、神の御言葉(神のご人格)に触れなければ、知ることのできない渇きであり、この「永遠のいのちの水」に対する渇きこそ、キリストはうながしておられるものである。

 神の御子キリストは、人となってこの世に来られ、父なる神のもとから流れ来る永遠のいのちの水を、わたしたちに注ぐために来られた。このいのちに至らぬとき、人は不完全燃焼となり、欲求不満や時には犯罪となって現われ出るのである。

 キリストは十字架の死をもって、わたしたちの罪を背負い、復活によって永遠のいのちに至る道を開いてくださった。「わたしは道であり、真理であり、いのちである」。

 この尽きない「いのちの水」に与かるよう、御言葉を求め続けて生きたいものである。

聖霊の働き――祈り・宣教・和解

2009.5.31  使徒言行録 2:1-13  牧師 中家 誠

 上記の聖書箇所を通して、3つのことを示される。それは祈りと宣教と和解である。

 ①祈りこそ、教会が主イエス・キリストにあって一つとなれる重要な鍵である。祈りは、神からの霊(いのちの水)を受ける「水道」にたとえられる。キリストという、神とわたしたちをつなぐ「水道」を通して、神の霊が注がれてくるのである。

 ②その霊は、宣教の霊でもある。弟子たちは神の霊を受けた時、神の大きな救いの業をほめたたえて語り出す人々となって行った。

 今年は、日本プロテスタント宣教150年の年と言われる。それで、プロテスタント発祥の地である横浜において、2回の講演会があり、宣教師たちの努力によって、今日のわたしたちの信仰があることを再び学んだ。わたしたちも、次の世代に伝える者とならねばならない。

 ③和解。キリストは神と人との和解者(仲保者)であり、この和解こそが人と人との和解の源なのである。神の霊、御子の霊が人の中に注がれる時、その人は神の子たちとされ、互いに兄弟姉妹とされるのである。

 今日ほど、神と人、人と人とが和解を必要としている時はない。和解の霊が豊かに注がれるよう、祈り求めたい。