聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記27章46節-28章22節 2011年1月13日

 創世記27章46節-28章22節 2011年1月13日
 41節~45節の内容によって、エサウの怒りの様子が分かります。45節’「1日のうちにお前たち二人を失うなどどうしてできましょう」とは、殺された者は当然のこととして、殺した者が死罪にあたる、という当時の風習に習っています。
 そのためリベカは、ヤコブを守るために、46節のようにイサクに言って、ヤコブを逃亡させる口実を作ります。あるいは、26章34節-35節にあるように、本当にリベカはエサウの妻のことで、嫌な思いをしていたのかもしれません。いずれにしても、このような逃亡が成立するということは、神様の計らい、ということになるのかもしれません。
 聖書はエサウが選んだ事柄が、すべて軽率であったことを暗に示しております。つまり祝福を弟にレンズマメの煮物で譲ってしまったことも、異教の女性を結婚相手としてさっさと決めてしまったことも、それはエサウの軽率な行動が招いた間違いである、という意味であるのでしょう。
 28章に入り、イサクはヤコブを呼び寄せて、結婚相手をカナンの地で見つけてはならない、ということを伝えます。そしてパダン・アラムに住んでいる、べトエル(リベカの父)のところに行き、その息子ラバン(リベカの兄)の娘の中から結婚相手を探しなさい、ということを命じたわけです。
 そしてヤコブは旅立に出るわけです。これによってエサウの怒りの手から免れることができ、またヤコブの人生は、新しい局面に向かって進んでいくことになります。
 しかしここで面白いのは、エサウのとった6節以下の行為であります。つまり、イサクがヤコブに対して命じたことに関して、エサウはそれを気にしているということです。8節「エサウは、カナンの娘たちが父イサクの気に入らないことを知って、イシュマエルのところへ行き、既にいる妻のほかに、もう一人、アブラハムの息子イシュマエルの娘で、ネバヨトの妹にあたるマハラトを妻とした」とあります。大した意味を持たずに書かれたのであろうと思いますが、しかしこのようにしてまで父ヤコブの意向に沿って生きようとするエサウの姿を見ますとき、何とも言えない健気さを感じてしまいます。
 これに対して小泉達人氏は、次のように言います。「いかにも単純率直で、物事を簡単に考えるエサウらしい対応です~しかしこれに対して聖書は厳しいのです。~何とか父親の好意を得ようとする~いじらしい努力に対して、聖書は一顧も与えようとしません。むしろいまさら無駄なことを、という嘲笑しているかのようです。~(それは)聖書は~神の恵みに対する軽率さに我慢ならないのです。~エサウは神の恵みを、バーゲンセールの買い物のように簡単に考えています。(それに対して)聖書は批判を止めません」(「創世記講解説教」224ページ抜粋)
 このように厳しい論調で語っています。
 しかし私は、そう簡単にこのエサウの好意を簡単に批判してよいものかと感じます。
 エサウは、ヤコブに対しては怒りと憎しみに駆られて殺そうとまでしていたわけですが、しかし一方で彼は、自分の人生を悔いて、新しい命に向かって歩み始めていた、ということがここで言われているのだと思うのです。そもそも人間とは、決して罪を犯さない者ではなく、罪を犯した後に、どうそれを悔い改め自分を見つめ直して、如何に再出発することが出来るか、ということにかかってくるのではないかと思うのです。
 間違いは犯す。しかしやり直せない人生はない。軽率な行動によって、祝福が自分の手からすり抜けて行ってしまった。しかしそれですべてが終わったわけではない。もう一度再スタートを切ることが出来るのだ。そう聖書は言っているように思います。
 さて、ヤコブは、ラバンのところに向かう道の途中にあったわけですが、この旅の途中で夜を明かします。「石を枕に夢を見る」というのは、大変印象的な一場面であります。多くの画家がこの場面を描いています。ここでヤコブが見た夢は、ヤコブの祈りが天に届いていることを示しています。彼はこのとき、孤独でした。ベエル・シェバからハランまでの道のりは、直線距離にして750キロもありました。東京から下関までの長距離です。もちろん徒歩であったでしょう。しかも彼は全てに別れを告げて、いま孤独の中を歩んでいるのです。
 何度もご紹介していますが、日曜学校誌にはこの時のヤコブの心がうまく表現されています。低学年用の説教例です。
「~この時のヤコブさんの心の中は、寂しさや、悲しみでいっぱいでした。お父さんとお兄さんを騙してしまってごめんなさい、という思い、やさしいお母さんに会えない寂しさ、自分はこれからどうなるんだろう、というふあんなで思い出、泣きそうになっていたのです。そうこうしているうちに日が暮れてしまい~ました。旅館もホテルもありませんから野宿です。寒かったことでしょう。」
 このように書かれています。また、小泉達人さんは、次のように語ります。
「これは恐らく、ヤコブノ祈りの象徴でしょう。天地にただ一人、孤独と不安の中で、生まれて初めて真剣に神に祈ったヤコブ。その祈りが神に達し、また神のかえりみがヤコブに届くことを、天に届く階段と、それを上り下りする天使の姿でイメージしています。祈りの象徴として、これほど深く、これほど美しく、またこれほど壮大な象徴はないと思います。」
 このように語られているとおり、ヤコブの祈りは聞き上げられ、彼に一つの約束の言葉が与えられます。13節~15節の言葉です。特に15節には、「見よ。わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」
 このように、神はヤコブに語りかけます。逆境と孤独の只中で神と出会う様子が示されています。これは私たちに与えられた祝福の言葉であります。私たちの人生においても、まことの神と出会うのは、幸せの真っ只中ではなく、むしろ逆境であり、困難であるときの方が多くあります。順境のとき、私たちは、自分の力と知恵とを信じ、それが自分を立たせる最善の力であると、自信にみなぎります。しかしそのようなとき、神は私たちの前にその存在を現されることはありません。し
かし、挫折と痛みと、弱さの中で、自らの力を過信していた自分に気づいたとき、初めて神さまは、私たちと出会ってくださるのです。
 そこには真剣な祈りがあります。「わたしはあなたと共にいる」とお語りになる「インマヌエルの神」は、まさに私たちと共にいまし給う方でおられます。この世と共におられ、私たちの弱さと、また強さの裏にある傲慢と共にいて下さいます。
 ヤコブは神の祝福を兄弟エサウから奪い取りました。それは彼と彼の参謀であり助言者であった母リベカの知恵と力の為した成果であったと言えるかもしれません。けれども彼が本当の意味で祝福を受けるのは、自分への過信を通り超え、肉親である兄からの殺意から逃げ、親からも離れ、初めての場所に行く、不安の只中にいることそれ自体が、神の祝福の場面であったのです。
 アブラハムとイサクの神が、自分の神であることが宣言された。それは、帰る場所が定められた、ということに他なりません。今ヤコブは、行き場を失っています。ハランに行く道すがらですが、しかしそれは一過性の、一時しのぎ的なものであることは、ヤコブの目にも明らかです。それが彼の不安となっていたのです。帰る場所がない。それはあの放蕩息子が、どこにも帰る場所を持たなくて、町中を一文無しでウロウロしているあの孤独にも似ています。自分の撒いた種であることは分かっていても、帰る場所を、つまり希望を喪失していたのです。
 しかし今やアブラハム、イサクの神が、私の神であることが明らかとなった。喪失と失望が、希望と歓喜へと変えられた。それが神との出会いに示されているのであります。
渡辺信夫著「イサクの神、ヤコブの神」では次のように語られます。
「ヤコブに与えられたのは、単に神が共にいます、という安らかさや気強さではありません。将来が与えられ、したがって希望が与えられたということであります。ですから、ヤコブはどんな所へ行っても大丈夫だという自信ではなく、将来があるという希望を持ちました。この地を離れて去って行くのではなく、また帰って来る将来が希望によって見えて来たのです」(同書101ページ)
 私たちの希望はここにあります。いつでも主のもとに帰ってくる安心。いつでも主の下に帰ってきても良い、と許可されている確信。それが私たちへの祝福なのであります。

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記26章1節-35節

 創世記26章1節-35節 2010年12月16日
 ここでは、既に見られた物語がもう一度出てきます。「自分の妻を妹であると偽る話」は、12章と20章にありました。そして26章では、20章のそれと同じように、アビメレクの名前やゲラルという地名においても重複する内容と言えると思います。多くの旧約学者は20章と26章は同じ文献の枝分かれしたものとして考えられる、と言います。しかも20章が先にあるのではなく、26章がオリジナルで20章はそこから出来た、と言います。
 しかしだからと言って、この26章が無意味な重複文章であると言って片付けることは出来ません。むしろ、わざわざ同じ物語をもう一度使っていることの中に、著者の意図を読むことが出来ると思います。
ここで語られている「イサク」という人物は、皆さんにはどのようなイメージで映るでしょうか。そもそも私たちは「族長物語」として12章のアブラハムの旅立ちから、創世記を読み進めていますけれども、アブラハム、イサク、ヤコブと続きますが、中でも一番影の薄い人物がこのイサクであると言ってよいと思います。先週の箇所25章に関しても、イサク物語でありながら、内容を占めていたのは、ヤコブとエサウのやり取りでありました。イサクは脇役に過ぎません。

 しかしこのようなイサクですけれども、多くの聖書学者や、注解者たちは「平和の人イサク」と彼をそう呼ぶのです。確かに事を荒立てないところなどを見ると、彼の平和主義的な性格を読み取ることが出来ると思います。
 この箇所で、イサクは一切逆らっていません。神に対しても、アビメレクに対しても、彼の人生に対しても、全く逆らわずに、神の命ずるままに生きているのです。それが彼を平和の人、と言わせるゆえんであるのかもしれません。
 しかし見方を変えてみると、イサクは優しい平和主義者であると同時に、非常に頼りない人物であると言うこともできます。たとえば、井戸の話なんかはそれが強調されます。中東という場所は、ご承知の通り水が命です。しかしイサクたちは15節以下にあるように、ペリシテ人たちの妨害を受けて、アブラハムから受け継いだ井戸を悉く塞がれてしまいます。しかしイサクは一切憤慨することなく、淡々としています。そしてペリシテの王アビメレクから「どうか、ここから出て行っていただきたい」と、追放勧告を受けるわけです。それに対して17節で、また淡々と「イサクはそこを去って~」と、何事もなかったかのように、アビメレクに従います。
 そして移動した場所で、もう一度井戸を掘って水が豊かに出始めると、またゲラル(ペリシテ)の羊飼いから妨害を受けて、井戸を占領されてしまいます。聖書には、その井戸を「エセク」とか「シトナ」と名づけた、とだけ書かれていますが、つまりその井戸は奪い取られたということを意味します。しかし最終的に「レホボト」という井戸が掘られてから、妨害されることなく、ようやく自分の水を確保することが出来るわけです。この間、イサクは一切怒りませんでした。これは大変に穏やかな人である、という評価と共に、イサクの家の人たちからすれば「何と頼りない主人だろう」という思いをもたれても仕方ないようにも感じます。水の確保は生きるか死ぬかの生死の分かれ目ですから、それをいとも簡単に奪い取られて「取られたから次の井戸を掘りましょう」と言うことでは、あまりにも頼りなさ過ぎです。
 さらにイサクの頼りなさは続きます。26節以下の、アビメレクとの条約の締結であります。ここではアビメレクが突然イサクのところにやってきて「主があなた共におられることが良くわかったので、あなた方とお互いの不可侵条約を結びましょう」という、自分勝手な条約締結を要求したわけです。しかも29節でアビメレクは「以前我々は、あなたに何ら危害を加えず、むしろあなたのためになるよう計り、あなたを無事に送り出しました」と言っています。普通ならばこんな勝手な話はないと思います。イサクを妬んだペリシテ人たちが、主の祝福を受けているイサクに嫉妬して「ここから出て行ってくれ」と言ったのに、29節では「あなたがたには迷惑をかけていません」と言ってのけるわけです。
 普通なら「とっとと帰ってくれ」と、そんな条約を結ぶはずもないと思いますが、イサクは違います。これまでのケジメをつけることなく、あっさりと友好条約を結んで、一緒に食事をして、帰らせてしますのです。こんな頼りない主人はいません。こんな上司、こんな夫についていく、とするなら、少々戸惑ってしまうかもしれません。
 けれども、この人の良さと穏やかさをもっても、イサクは約束が成就されていくのです。それが26章全体を通して書かれている内容であります。26節以下のアビメレクの提案は、なんとも図々しく、自分たちが優位に立っている、という前提で提案されております。しかしイサクは徹底して争わず、従っています。穏やかであると同時に頼りない。あまり物事を考えているとは言い難い。それがイサクです。しかし聖書は「これもまた信仰者である」と言うのです。それがここに書かれている重要なメッセージであるのです。
 私たちはこれまでアブラハムの信仰についてみてまいりました。そして今後ヤコブとヨセフについても見ていきます。それらの族長たちと比べると、没個性であり、力がなく、弱々しく、しかし徹底した平和主義者であり、悪く言えばあまり深く考えていないこの人物。これが神に守られ、祝福された信仰者の一つの姿であると聖書は言うのです。
 今日の箇所26章全体を貫いて語られていることがあります。それが「神の祝福」であります。2節で飢饉が起こったとき、イサクは「そこに留まるように」と主に命ぜられ、「祝福を得る」と約束されます。12節以下では、イサクがそこの土地に種を蒔くと100倍の収穫を得、主の祝福を受けた、と書かれています。井戸を掘ったときも、何度も奪われながらも、イサクは豊かな水を掘り当て続けます。これもまた主の祝福の徴です。24節でも、29節でも「祝福されている」という言葉がイサクに告げられます。つまりこの26章は、神の祝福を受けた者は、どう生きるのか、について示しているとも言えるのです。神の祝福とは、人間の判断を超えたところに生きるということを意味します。飢饉が起きたとき、人間の考え
では、肥沃な土地エジプトに行くことが最善であります。しかし主はそこに留まりなさいと命ぜられ、それを守ります。それが祝福を確保するのです。井戸を取られたとき、人間の考えでは、戦うことが最善であるように感じます。武力でなくとも何とか交渉してその場所の権利を奪い返すのです。それが自分の命の担保となるからです。しかしイサクは、神が必ず井戸を掘り当てさせてくださる、という確信を持つゆえに、奪われたままにされ、もう一度掘り続けます。そしてそれによって神の祝福は確保されるのです。アビメレクの横暴な条約締結の申し出に対して、人間の考えでは断ります。それが過去の苦しみを受けてきた事への報復であると感じるからです。しかしイサクはその横暴さを意に介さず、あっさりと締結します。これが神の祝福を確保するのです。
 このように、神の祝福を受けて生きる者は、人間の考えによってのみ生きるのではなく、神に身を任せて生きること、神のなさることに逆らわずに生きることの中に、自分の人生を重ね合わせて生き得る者となるのです。
 身を任せるとは、努力をしないこととは違います。人間の意志や努力を越える神の意図を汲み取り、それに身を従わせることであります。
 「こんな主のはしためから神の御子が生まれるなんて信じられません」と言っていたマリアは神に身を任せました。不貞の罪によって律法に違反したという疑いを払拭しきれないヨセフは、神の御言葉に身を委ねました。ヘロデの横暴により2歳以下の幼子が惨殺されたとき、二人はエジプトに下ることに身を委ねました。それは神の祝福だったのです。
 イサクは確かに頼りない人物として映ります。アブラハムの冒険する心や信頼する強い心、ヨセフの向上心や、何としてでも奪ってやろうという野心は、イサクにありません。しかしこのような没個性的で地味で、目立たない彼もまた、アブラハムやヤコブと同じく神に祝福された一人の信仰者であるのです。
 私たちには、それぞれの生き方があり、それぞれの性格があります。個性的な人も、そうでない地味な人もいます。教会の中でも、目立つ人もいれば、そうでない人もいます。けれども重要なことは、どれだけ目立つかではなく、どれだけ主を信頼し、主の祝福の中に自分の身を投じて生き続けることが出来るのか、ではないでしょうか。
 イサクは人柄も良く、確かに平和主義者です。しかし彼が神の祝福を受けたのは、そのようなパーソナリティによってではありません。むしろどのようなパーソナリティであっても、神は選びの民を選び、自らの祝福の中に、一方的に入れてくださる方なのです。その祝福に自分もまた入れられている、ということを自覚してどのように生きるのか。そのことが重要なのであります。このような私でも、ということはありません。そのようなあなたこそが、神の祝福を受けるべき信仰者なのです。

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記25章19節-34節 2010年12月9日

 創世記25章19節-34節  2010年12月9日
 アブラハムの子イサクがリベカと結婚したことは、24章の出来事によって伝えられております。彼らが結婚したのが40歳のころであったと報告されます。しかし彼らには子ができなかったのでありました。アブラハムたちも同じように子ができないことで悩みの日々を過ごしてきたのですが、イサクたちも同じでありました。
 そこでイサクは祈りました。ここで注目したいのは「妻に子どもが出来なかったので、妻のために主に祈った」、つまり「妻のために」祈ったということです。ここにはおそらく、子ができないということによって、周囲からの目や、彼女自身悩みと苦しみを背負ってきたことが伺えます。子が出来ないから、単に子を授けてください、という単純な祈りではなく、このように苦しむ妻への慰めと平安を与えてください、という祈りではなかったかと思うのです。そしてこの祈りは主に聞き入れられるわけです。
 少し飛んで26節を見てみますと、彼らに子どもが生まれたのは、イサク60歳のときであった、と書かれています。つまり彼ら夫婦は20年間も主の約束を待ち続けていたことになります。父アブラハムが75歳の時から100歳まで、25年間待ち続けていたのと、殆ど変わりのないほど、長い間彼らは待ち続けてきたのです。
 
 さて、この祈りは聞き届けられましたが、お腹の子達は双子であることが分かります。お腹の子たちが押し合うので、リベカは「これでは私はどうなるのでしょう」と言った、と記されております。この言葉には、今後の兄弟の争いが示唆されています。ここには、今後のヤコブの人生が示されていると言えるでしょう。ヤコブは争いの人生でありました。今日の箇所のように、兄弟エサウとの争いがあり、また彼の妻たちの争いがあり、そこ妻たちのそれぞれの子どもたちが揉めて争いが起こります。ヤコブの争いと諍いの人生を象徴するかのような「これでは、私はどうなるのでしょう」というリベカの悩みの言葉ではないかと思います。
 彼女は「主の御心を尋ねるために出かけた」とありますが、どこに出かけたのでしょうか。場所が明記されていません。イサクが住んでいるとされている「ベエル・ラハイ、ロイ」なのか「マクペラの洞穴」近くの先祖の墓の前か、それは分かりませんけれども、彼女は彼女自身の思いを主に打ち明けるための静かな時を持ったということでありましょう。これは密室の祈りであった、私たちにはとても必要なことであります。自分の思いを確かめるために、主に問い続ける姿勢は、私たちの信仰を吟味し、また客観性をもたらします。独りよがりに、主観的に、自分の思いの中に閉じこもるのではなく、私は何者なのでしょう、と問い続けて祈ることこそが、神からの答えを聞く最良の時間なのではないでしょうか。
 そして、リベカの双子の子は、「エサウ」と「ヤコブ」であったことが24節以下に記されます。兄エサウの踵をつかんでいた「アケブ」ので、「ヤコブ」と名づけられたと言います。
 さて、この双子は大きく成長し「エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で、天幕の周りで働くのを常とした」と書かれております。イサクはエサウを愛し、リベカはヤコブを愛した、と言われていますが、これは親の偏愛であり、ここからリベカの入れ知恵などが後の問題になってきます。しかしイサクがエサウを愛した理由が、その獲物が好物であったから、というのは、あまり説得力がありませんが、とにかくイサクは狩をして好戦的で男らしく力強いエサウを愛した、ということなのでしょう。
 それに対して、ヤコブは「穏やかな人」という書き方がされています。ですから読者は、この対照的な二人に対して、自分の好みこそあったとしても、それほどの違和感もなく、この聖書の文言を受け入れることが出来るのではないか、そのような書かれ方であるように感じます。
 しかし、このヤコブ物語を読み解くとき、彼らがどのような人であったかが大変重要になってくると思います。
 この箇所を解釈した色々な読み物を見てみると、どうしてもヤコブの人格を正統的に扱うものが多いように感じます。イスラエルの父祖となったヤコブは、神様の約束を受け継ぐ正統者として考えられ、イサクからの家督を軽んじたエサウは、神の祝福をも軽んじる者として悪者的に描かれることが多いのです。
 けれども、色々な本の中で彼らは次のように紹介されます。
「エサウは山野を駆け巡る勇敢な狩猟者に成長しました。イサクは、この頼もしい長男に望みをかけていました。」(林嗣夫著「青少年のための聖書の学び『創世記』」p155)
「~しかしヤコブの欠点が、彼の徳と共に語られている。彼は若くして詐欺の共謀者であり、嘘つきでもあった。後半生においても、神との不思議な出会いを通して性格を変えられ、名前もそれに合わせて改められたが、そこでも彼は模範的とは言えない。彼は子育てでも良い親とは言えず、特定の子を贔屓にして、兄弟間に反目と殺意を含んだ争いを引き起こした。聖書がこの人物をイスラエルの始祖としてこのように描くのは驚くべきことである。」(ジョン・ボウカー著「聖書百科全書」p41)
「やがて兄弟は大きくなりました。お兄さんのエサウさんはスポーツマンタイプで、野山を駆け巡って狩をするのが大好きでした。これに対し、弟のヤコブさんは穏やかな人で、狩のような荒々しいことは好きではなく、羊飼いとなり、天幕のまわりで働いていました」
(井上豊著「日曜学校誌『低学年用、説教2』」2010年夏号 p44)
「~先生はだんぜんエサウさんの方が好きです。エサウさんは男らしく、かっこいいからです。こんなお兄さんがいたら良いなあと思います。それに引き換えヤコブさんときたら、あまりぱっとしない人で、いい年してお母さんにべったり、先生はこんな人は好きではありませんでした。ところが聖書は、ヤコブさんの方が良い、エサウさんはだめだ、と書いているのです。・・いったいなぜなのでしょう。」
(井上豊著「日曜学校誌『低学年用、説教2』」2010年夏号 p47)
 このように見てみますと、エサウに肩入れする人も多くおります。いやむしろ、殆どの解釈者たちがヤコブより、エサウを推しているのです。けれども聖書はヤコブを取っ
ている、ということが今日の箇所での驚きに繋がってくるのだと思います。
 ここで聖書が問題にするのは、「家督相続」という一点のみにある、ということです。確かに、ヤコブの取引は明らかに不当なものです。人の弱み、しかも腹ペコの空腹時という、尋常ではない人間の心理状態に付け込んだ、不法な行為であると思います。しかも「今すぐ誓え」と迫っているわけですから、詐欺的でさえあると言っても過言ではありません。不快極まる行為、赦せない行為、と言えるでしょう。
 聖書は、人間の公平さ、親切な思い、人への思いやり、好意、などを大切にします。ですからヤコブのこうした行為は当然批判されるべき対象なのですが、聖書はこれに目をつぶり、お人よしで軽率なエサウを厳しく責め立てます。つまり聖書が問題にしているのは、人間的な事柄ではなく「長子の権利を軽んじた」(34節)ということ一点への批判であるということです。今後の兄弟間の争いの争点は最後までこの論理で進みます。当時、家督相続、長子の権利というのは、長子の重大な権利であると共に、大切な義務でもありました。また神の祝福でもありました。エサウが長子の権利を受け継ぐことは、アブラハム、イサク、エサウ、と続く筈の、神からの祝福を受け継ぎ、神の使命を存続させることでありました。けれども、エサウはそれを一時の感情と軽率さによって、捨ててしまうのです。それは神の祝福を捨てることになります。
 それに対してヤコブは、いざという時、確かにそれは不当な方法ではありましたし、それは決して赦されうる行為であると言えませんが、渾身の力をもって、小さな知恵を絞って、神の祝福を受け取ろうとしているのです。やり方が詐欺的でありましたから、詐欺行為が赦される、という短絡的な解釈をしてはなりませんが、しかし神の祝福を何とかして受け取ろうという彼の思い、つまり神の祝福を重んじようとしていることだけは伝わってきます。神はそこを見ておられるということです。
 エサウはレンズ豆の煮物に目がくらみました。なぜそんなもので家督を捨ててしまうのか、と私たちは思ってしまいます。けれども良く考えてみてください。レンズ豆に象徴されているものは何でしょうか。
 日ごとの糧であり、命を繋ぐ必要なもの、であると同時に「もっと沢山あればさらに嬉しい物」であり、「それ以上の蓄えを欲したくなる欲求物」であり、「必要最小限の確保に留まることなく、飽き足りることなく奪い合ってしまう財産ともなり得るもの」であるのです。それは究極的に、財産や、土地や、金銭などと同じく、人間の欲を満たすものと神の祝福を天秤に掛け、結果として何を手に入れたか、ということが、ここでの問題となっているのであります。
 神の祝福を二の次にして、それ以上のものを欲することは、主イエスの言葉「二人の主人に仕えることは出来ない」と響き合います。聖書は、何よりもまず決定的なものとして、神の祝福を求めなさい、と語るのです。
 人間は欠点だらけです。弱くみすぼらしく、嘘つきです。しかし神の祝福を第一に求めることの一点において、神はエサウではなく、ヤコブを受け入れているのです。
 先ほどの日曜学校誌の最後の言葉ではこう結ばれております。「エサウさんは男らしく、かっこいい人でしたが、神の祝福を受け取ることが出来ませんでした。ヤコブさんの方が一枚上手だったのです。エサウさんには何が足りなかったと思いますか?ヤコブさんの持っていた、どんなことをしてでも神様の祝福を受け取ろうという強い気持ちがなかったのです」
そして、ジョン・ボウカーは次のように結びます。
「神が弱い者を用いても善を行なうことが出来ることを教える。神と人間との出会いにおいては、理解に戸惑うような逆説が多く生じることを、この物語は明らかにしている」
(ジョン・ボウカー著「聖書百科全書」p41)

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記17章1節-27節

創世記17章1節-27節 2010年9月2日
 16章ではハガルの逃亡と神の祝福について学びました。私たちはアブラハムの一族が、このとき様々な不信仰という試練と、また一族内の諍い(サラとハガルの諍い)を神様によってを乗り越えることが出来、さらにイシュマエルという息子を得るまでに至ったことを前回みてまいりました 。
 その後すぐにアブラハムたちは神の約束を聞いたのでしょうか。16章の次は17章になっておりますから、その後すぐに聞いたように感じるかもしれません。しかし今日の初めの言葉は「アブラムが99歳になったとき」であります。つまり16章16節にある86歳であった、ところから、99歳に、つまり13年間も飛んでしまっているのです。ある注解者は、この箇所に対して、13年間変化がなかったことは、信仰の停滞である、と言いました。イシュマエルは順調に育ち13歳になりました。諍いをおこしたサラとハガルも問題なく同居し、それにアブラハムは満足していたのではないでしょうか。しかしそのような安泰で幸福のときは、時として信仰は停滞するのであります。この生活に満足し、神なしで生きていけるような錯覚に陥ってしまう安定期は、むしろ信仰が研ぎ澄まされない時期であるのです。そのため聖書は、彼らの13年間を無視します。その安定した―ともすれば神なしでも安定しているような錯覚に陥るこの13年間を―まったく問題にしないのであります。
 今日の箇所は13年後、アブラハムが99歳を迎えたその時、突如として神の約束が与えられるのであります。神の御言葉を聞いたのが75歳のときであり、そののち神の約束の言葉を何度も聞きながら、なかなか実現せずに24年間が経ちましたが、その間彼は、徐々に信仰者として深められてきたのでしょう。様々な挫折や罪を経て、自分が尚も生かされていることを実感した彼を見て、私たちは励まされる思いが致します。それは年を取って、全てにおいてきたとは言え、しかし100歳になろうとしている老齢者が、日々神への確信を強められ、高められていることは、私たちを顧みましても、それは恵みとなるのではないでしょうか。体力も健康も衰えるのに、信仰は遅々としてではありますが、高められ、深められていくのです。物忘れが激しく、自分の頭の中から神の存在が薄らいでいくように感じても、決して神があなたから離れることはなく、むしろあなたの中でさらに信仰は盛んになっていくのだ、というメッセージを聞き取りたいのです。
 さて、ここで与えられたものは、神の契約でありました。15節で結ばれた契約をもう一度更新されたということでしょうけれども、しかしここで特徴的なのは、割礼であります。そのことは後ほど見て行きたいと思います。
 神との契約更新に際して彼は、アブラムからアブラハムへと名前の変更を求められます。この意味の違いははっきりとは分かっていないというのが正直なところでありますが、一般的には、アブラムは「高き父」もしくは「私の父は高められる」という意味であり、アブラハムは「多くの者の父」という意味であると言われます。
 そしてサライと呼ばれていた彼女はサラに変更するよう命じられます。これも蓋然性に乏しいのでありますが、サライは「あざ笑いのまと」という意味であり、サラは「王女」であると言われます。この時アブラハムは100歳、サラ90歳と言われています(17節)。しかしこの時からアブラハムとサラは、神の新たな人生を与えられたということであります。
 さて、アブラハムは神の御前にひれ伏しながらも「『しかし笑って』ひそかに言った~」とあります。また「どうかイシュマエルが御前に生き永らえますように」と神に言ったとありますが、この「アブラハムの笑い」と「イシュマエルへの生き永らえへの言葉」が何を意味するものであるかが重要なポイントとなりましょう。
 渡辺信夫牧師の著書「アブラハムの神」136ページ以下にはこのように書かれております。
「このない老人夫婦が一新に願をかけて子を授けられる、というおとぎ話を私たちは沢山知っています。アブラハムの場合はそれの同類ではありません。彼は理性的な人間であったようです。一念を込めて祈り通せば何でもできる、というような狂信は彼に見られません。すでにイシュマエルが与えられているのだから、それ以上に恵みをむさぼらなくてよいではないか。既に無形の恵みを数多く受けているのだから、有形のものはなくても満足すべきではないか」と、この老夫婦は慎ましく語り合っていたのでありましょう。だがその敬虔な慎ましさは、自分たちの能力についての諦めと結びついております。願ったところで起こりえないのだから、あるがままの恵みで満足し、それを恵みとして精神的に解釈して行こうとしていた~のでした。」
 「~~(138ページ)彼の笑いは、神を恐れない嘲笑ではなく、知恵の浅い者の単純な喜悦でもなく、神の約束を正面から受けず、斜めにかわし、これを神のユーモアとして受け流すものなのです。厳粛なことを厳粛に受け止めないでおこうとするのです。そして話題を変えて、どうかイシュマエルが御前に生き永らえますように、と願うのであります。すなわち「主なる神よ、あなたの大いなる恵みはわたしども夫婦に十分良く分かっております。イシュマエルをサラの養子にすることが出来ただけで私どもは満足し、感謝しております。イシュマエルが祝福のうちに命ながらえさえすれば、あなたのお約束は十分に実現するのであります。100歳の夫と、90歳の妻に子供が出来るというユーモアは、お志だけで十分感謝でございます。」という意味になるでありましょうか。主の御言葉を文字通り受け取って、約束がその通り実現するのを待つならば、躓きになるに違いないと考え、躓きにならないように上手に解釈しようとしたのであります。」
 「私たちにもそのような解釈が必要な場合があります。というのは、人間の文字の表現は不完全なもので、その不完全さから神の御言葉を自由にする処置は必要だからです。けれども御言葉と正面から取り組むことを避け、それに「然り」とも「否」とも言わなくてすむようにすることは、御言葉の正しい解釈ではありえないでしょう。すなわち、御言葉は私たちは立たせるか、躓かせるか、どちらか一方の事しかしないという性格を持って迫って来るものだからです」
 このように言われておりま
した。洞察力に富んだ読み方であろうと思います。
 さらに言いますと、この「イシュマエルが御前に生きながらえますように」の言葉は、人間の可視的な性格が示されております。それは「割礼」の必要性を促すものであります。割礼というのは、それを受ければ救われるというものではなく、一つの神の選びの(救いの)「しるし」として与えられるものであります。しるしが必要か否かは聖書全体を通して議論されるところでありますが、しかし人間は、それを見なければ救いを確認することが出来ないほどギリギリのところで信仰が試されることがあると思います。そのとき自らに刻まれた割礼の事実を神の救いのしるしとして実感するとき、自らを支える可視的な救いの確証となるのだと思うのです。翻って考えると、私たちが洗礼を受けたという事実(しるし)において、今にも倒れそうなときに救いの確信を持ち続けることがあると思うのです。私たちの弱さは、目に見えないと信じることが出来なくなるところまで弱まります。そのとき可視的な確証が信仰者を支える事があると思うのです。
 未だ見えないイサク誕生の約束を信じることが出来なかったアブラハムに対して割礼が与えられることは、見える息子イシュマエルの将来だけを考える彼に対して、最も適切な可視的な祝福のしるしとなったのであります。
 割礼というはそもそも古代エジプトで始まったものでありまして、主が異教の風習を取り入れたということであります。15章で私たちは契約を結ぶしるしとして獣を真っ二つに裂いてその間を通り抜ける方法を採用したことを見てきましたが、それも異教の古い儀式を用いての締結でありました。つまり我々人間の側が最も分かり易い形でそれを可視的なものとして見せるために、主は自らを低め給うてそうなさったのでありましょう。
 また割礼に関して言うならば、普通家督を継ぐことや、土地や財産の相続をするとき、その人の子である(子孫である)ことによって無条件に相続が出来るものでありますが、しかし信仰においては全くそれと異なっております。14節には、「無割礼の者の裁き」が記されていますけれども、それは全員が個人個人が神と向かい合うことを示しているのであります。つまり聖書の信仰は世襲ではなく、神との関係は一代ごとに新たに更新されるべきものであることを示しているのです。
 また、割礼を受けるものは、社会的な地位や名誉を受けたものではなく、12節「直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆」割礼を受けねばならないと命じられ、結果的に26節以下「アブラハムと息子のイシュマエルは、すぐその日に割礼を受けた。アブラハムの家の男子は、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷もみな、共に割礼を受けた」、言われていることは、注目に値いたします。それは神が全ての命に対して目を留められているということだからです。当時、奴隷に人格はなく、命も軽んじられ、所有物として扱われていた彼らでありますが、ここでは神の御前に主人と同等な位置にあることが言われているのです。99歳の主人も、その家督を継ぐことになるはずの13歳のイシュマエルも、使用人とされてきた奴隷も、全ての命ある者が平等に扱われ、神の御前に深くひれ伏すことを求めることの中に、神の思いの深さを感じるものであります。
 またそのことは、アブラハムの信仰とその継承が、血縁の中で受け継がれ守られていくもの(血縁共同体)ではなく、神の恵みによって結ばれた信仰共同体(礼拝共同体)であることが示されています。アブラハムの子孫だけが主の救いを受けるのではなく、主の約束を受けた者が救いに入れられるのです。主の救いとは、決して選民的で独善的な、救われる人が決まっている救いなのではなく、全世界的に広がる主の賜物なのであります。
 ここに集う私たちもまた、血縁ではなく、信仰共同体として益々強められ、お互いに高められる教会員として生きることが求められているのではないでしょうか。99歳のアブラハムも13歳のイシュマエルも、90歳のサラも、男女の奴隷も、年齢も性別も、環境も違う全ての者が、同じ条件で主の救いを与えられる、その神の下で私たちは憩うのであります。

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記13章1節-18節

創世記13章1節-18節  2010年7月29日
 エジプトでの出来事を経てアブラハム一向は、カナンに向って帰る事になりました。2節に「アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた」とありますが、これは恐らくエジプトで与えられえた財産の事を言っていると思われます。決して喜ばしい形で得た財産ではないにせよ、飢饉の中を生き延び、その後の生活を支えるに十分な必要な物を手にした彼らは、結果的に裕福な豪族の一人としてカナンに戻ることとなったわけです。
 ネゲブ地方からベテル、ベテルとアイ、という地名は、彼らが12章で辿った道筋を逆から辿っていることになります。彼らはもう一度この約束の地での生活に戻ることが示されているのでしょう。
 甥のロトもアブラハムたちと共に行動を共にしていたので恐らくは財産の分与を受け、かなりの物を持っていたと思われます。当時の財産というのは、ご承知の通り、家畜の数によって表されます。金や銀というのも確かに財産なのですけれども、定住しない遊牧民族は商品の取引によって生計を立てているわけではありませんから、実質的に自分の生命維持に繋がるものとして家畜が財産とされたのです。日本において牧畜というのは、ご存知の通り、近代酪農業のシステムですから、狭い牛舎や豚舎に囲って、食料を整えて毎日世話を欠かさずして育てていく、という形態をとっております。つまり広さが必要ではなく、ある一部分の土地があればそれで十分なわけです。しかし当時は放牧によって飼育する方法がとられていましたから、家畜の食料としての草が生えているだだっ広い草原が必要になってきます。家畜の頭数が増えれば増えるほどその面積の必要になりますから、誰が越えた土地を使うか、草の生い茂った場所を確保するか、という諍いが起こったことは容易に想像できます。また、水の確保という問題もあります。カナンの荒れ野においては井戸水が主流でありますが、これも日本の井戸と違い、いつも水が湧き出るわけではありません。一旦汲み上げると、水が枯れてまた溜まるまでに一昼夜、時には1週間近く待たねばならないといった井戸ですから、誰が先に汲むかは大問題で、これもまた争奪戦になるということです。
 これがアブラハムとロトとの諍いの原因でありました。人間は財産を得る為に一生懸命に働き裕福に生きることを目標にするのでしょうけれども、しかし「財産が多すぎたから、一緒に住むことが出来なかった」という6節の言葉は、人間の罪がもたらす皮肉を言い表しているものと言えるでしょう。
 アブラハムとロトが問題を回避しても、雇用人たちが争いを起こし、問題となったため8節でアブラハムは言います。「私とあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前にはいくらでも土地があるのだから、ここで別れようではないか」。このような提案をし、彼らは別れて生きることを選択したのです。
 バベルの塔での物語りでは、一緒に生きる事によって罪を犯すことがあれば、主は別々に生きる選択をお与えになるということがありました。それは別々という一見ネガティブな選択でありながら、ここに神の恵みがある、ということです。使徒言行録15章では使徒会議が行なわれたことが書かれていますが、ここにはアンテオケ教会のパウロと、エルサレム教会の主の兄弟ヤコブが別々の宣教の歩みを行なうことに合意したことが記されています。このように別れて生きることが主の御心であることがありますが、この時のアブラハムたちも恐らく諍いを起こすことはお互いにとって得策ではないと見て、踏み切った計画であっただろうと思います。
 しかし問題は誰がどこに行くか、という問題です。普通ならばアブラハムは年長者ですし、ロトがこれだけの財を成したのも彼のおかげなわけですから、アブラハムに選択権が合ってよいはずです。しかしアブラハムは、お前が好きな土地を選びなさい、私たちは逆の方へ行こう、と言ったのです。
 小泉達人氏はこの箇所に関して次のように言っています。「現在私たちは若者の事をドライだとか新人類だとか言って珍しがりますが、若者がドライであることはアブラハムの昔からだ、と聖書は語ります。ロトが私の今日あるのは伯父さんのおかげです。伯父さんがまずお好きな土地をお選び下さい、といえば美しい物語となり、その人柄が偲ばれることとなったでしょうが、ロトはそう言いませんでした。ヨルダンの低地、その青々と草が茂った土地をためらいもなく選び取って、さっさと移って行きました。」(小泉達人著「創世記講解説教」新教出版 88頁)
 結果的にこれがソドムとゴモラの滅亡の出来事の布石となっていくのですが、ここで注目すべきことは、ロトの選択とアブラハムの選択の決定的な違い、ということでありましょう。10節にあるように、ヨルダン川流域の低地一帯は、「主の園のように~見渡す限り良く潤っていた」ということです。これが人間的な判断の結果であるというのです。低地ということは、ほどよく川が氾濫し、上流からの良い土が運ばれて肥えた土地となったことが予想されます。そのように目に見えて素晴らしい場所は私たち人間の目には、本当に良く映ります。しかし結果的にそこは目に見えない審きの場所、罪の場所であったというのです。つまりその判断は空虚なものであった、という事が出来ると思います。ロトの判断の中に、主は居られたのでしょうか。ロトは恐らく神なしでこれを選択し、神の判断を考慮せずに自分の判断で土地を選んだということなのではないでしょうか。
 ではアブラハムはどうだったのでしょうか。ここで彼は選んでいません。残った物をただ受け取っているだけであります。ここに広がるのは単なる荒地であったかもしれません。ヨルダン川流域の肥えた土地は、食物も豊富で、草木も生い茂る最高の場所です。しかしその後ろを眺めてみると、ゴツゴツした石に囲まれた小高い岩場が広がります。これのどちらが幸福な人生を歩むことが出来るのか、というのは、人間の目から明らかであります。つまりロトの方が有利で、ロトの方が祝福されている、それが私たちの目に明らかな幸福の姿でありましょう。
 しかし14節で主は言われます。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」。この「さあ、目を上げて」という言葉に注目したいのです。炉とは最
初から目を上げて昂然と将来を見渡したのに比べて、アブラハムは「目を上げよ」と言われるまで上げることが出来なかったのです。彼がこの時何を考え、どのような将来を見据えていたのかは分かりません。老年期に差し掛かっていたことを鑑みて、自分の将来よりも若いロトのことを思って最初に選ばせたのかもしれません。しかし結果として与えられた場所はあまりにも不毛な大地で、ここに夢や希望があふれ出る、と言った場所ではなかったのです。そのため彼は目を上げることが出来なかったのではないかと思うのです。
 しかし「ここから見渡せ」と主は言われます。7節に「カナン人もペリジ人も住んでいた」とあるように、敵対する者たちが住む、この不毛な山地でどう過ごせばよいのか、その事に悩んでいる姿が想像できます。敵に囲まれ細々と暮らすことを覚悟しているアブラハム。自分の将来の繁栄ではなく、むしろ少しずつ衰退していくであろうとことを予測し、覚悟を持って目を伏せているアブラハムがここにいたのではないかと思います。
 しかし主は「目を上げて」と言うのです。「見える限りの土地を全て私は永久にあなたと私の子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数え切れないように、あなたの子孫も数え切れないであろう。」このような約束をなさるのです。子孫が増えることは、当時の価値観で最も祝福を受けることを意味します。それがアブラハムに与えられた約束の言葉であったわけです。あなたは目を上げて、立って歩きなさい。地にかがみこんではならない。下を見て思いにふけるのではなく、小さくなってもいけない。その与えられた地を縦横無尽に行き巡れ。主の約束が確かであることを、目で見て承知するだけでなく、その足で踏んで確認せよ。このように主は仰るのです。
 しかしこの話しがいう事は、結果的にアブラハムには「残り物には福があった」ということではありません。そうではなく、「アブラハムは選んでいないが、しかし神がアブラハムを選んでいる」ということなのです。「ロトは人間の思いから選び、アブラハムは神の思いから選ばれている」ということです。
 言い換えるならば、アブラハムはこの時、選びの確信を得ることが出来たのであります。つまり目に見える自分の状況や環境によって一喜一憂する人生ではなく、神さまが与え給うた土地は、如何なるものであっても私にとってそれは最善のものである、という確信に導かれたのであります。与えれらたものは、苦しさと困難さであったかもしれない。目の前に広がるのは不毛な大地であるかもしれなし。決して乳と蜜は流れ出ず、草木一本すらままならない状況であるかも知れない。しかし目を上げよ。あなたの前には私の約束がある。このことを聖書は語るのです。
 
 アブラハムの信仰は、私たちの信仰のモデルです。私たちは祈りの中で、良い土地が与えられることを願うわけですが、しかし神への信仰がもたらす最も大きな力は、良い土地が与えられることではなく、不毛の土地でさえも、それが神の与え給うた約束の土地であると信じ、確信を持って生きる力に変えられる、ということであります。
 渡辺信夫は次のように言います。「神は今日も私たちに言っておられます。目を上げよ。あなたの貧しく醜い現実、あなたがたの教会の狭さ。小ささ、不毛、無力・・。それが全てではないのだ。いや、それらに目を落とすな。目を上げよ。キリストにおいてあなたに約束されているいっさいの恵みを見よ。あなたがたの希望の視野の広がりは永久にあなたがたへの恵みなのだと。私たちは、私たちのいるところからしか眺めることが出来ないのです。なぜなら私たちの現実は、そうやすやすと変えられるものではないからです。私たちは、依然として罪に取り巻かれています。私たちは今なお深く病んでいます。けれどもこのままでも、私たちは目を上げて、恩寵の大きさをあるがままに見渡すことが出来るのです。キリストの義、キリストの聖、キリストの主権、キリストの栄光は、私たちの目の前に、私たちの受け入れられるように、差し出されています。私たちは自らの敗北の現実に目を注がず、キリストの勝利の現実に目を注がねばなりません。」(渡辺信夫著「アブラハムの神」新教出版61頁)
 私たちは、主の選びに対して常に確信をもって歩むことが出来るようにと祈り求めたいものであります。

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記12章10節~20節

創世記12章10節-20節 2010年7月22日
 信仰の父と呼ばれるアブラハム(この当時はまだアブラム)ですが、この箇所では大変な試練のときをを迎えています。10節に「その地方に飢饉があった」とあるように、約束の地カナンは、何もかもが満たされた裕福な場所なのではなく、飢饉が起こり人が生きる事をも妨げられる土地でもあることが示されています。
 この時アブラハムは本当の意味で信仰の試練を受けていたのです。彼らがウルを出てハランを経由し、カナンに向かって行ったあの旅路を考えるとき、「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とヘブル書11章1節で言われているあの従い方こそが信仰の本質であるように思えてしまうのですが、しかしこの時のアブラハムこそが本来の意味で信仰の問題が本格化していたと言えるのではないでしょうか。
 創世記は、彼はが信仰を傾けて熱心に神に呼ばわっても、飢饉を乗り切ることができないという現実に直面させられる状況を描きます。このような非情な現実の前では、優しさとか、人情とかは全く意味を持たず、私たちは現実の中に生きることに身も心もすり減らすのであります。このような非常な現実に直面したアブラハムは何と惨めな存在でありましょうか。このとき彼は信仰の父ではなく、弱々しく頼りない惨めな一人の信仰者でしかなかったのです。
 アブラハムの事情は複雑でした。彼はカナンという約束の地を示されましたけれども(12章1-4節)、「この地を与える」という主の御言葉にすがってここに踏みとどまるならば、飢えて死ぬしかありませんでした。創世記12章2節以下の「私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」という祝福の約束が吹き飛んでしまうかのように、彼の現実はあまりにも苛酷であったのです。アブラハムにとってこの飢饉は試練ではなく、信仰の躓きであったことでしょう。神の言葉と現実、神の祝福と実際の飢饉、この狭間に立たされた彼は、信仰を揺さぶられる中を生きていたのであろうと思います。
 この飢饉を乗り切るために彼はエジプトに下ることを余儀なくされます。エジプトというのは、ご承知の通り、ナイル川の肥沃なデルタ地帯にあり農業が発達していました。周辺諸国のような砂漠ではなく、定期的に静かに氾濫するナイル川は多くの恵みをもたらしました。ですからエジプトには殆ど飢饉がなく、いつも豊かな収穫に恵まれていました。ですから周辺の人々は飢饉になるとエジプトに流れ込み、食料にありついて命を保ってきたと言います。アブラハムも同様に、エジプトに流れ込んできたのであります。
 
 さて私たちが今日の箇所でもっとも腑に落ちず、嫌悪感と共に読む箇所は、続き11節から13節の言葉ではないかと思います。このアブラハムの言葉の中に、彼の人間としての浅ましさと強かさ、そして自分の命を救いたいと思う利己的な思いが看取されます。そして私たちはこのアブラハムの行いに絶句し、「妻を売るとは何ごとか」「妻を出しにして利益を得るとは何ごとか」と憤慨してしまうのであります。
 
 しかしアブラハムの立場になって考えてみると、彼の命はこのとき危険に晒されたのです。美しい人妻を見ると、その夫を殺して妻を自分のものにするということは、当時の権力者がしげく行なった罪であり、あのダビデ王でさえも同じようにウリヤの妻を自分のものにしている通りです。ですからその命の危険から免れるためにこのように嘘を言ってくれといったのであろうと思います。それが12節に記された言葉の意味であります。
 しかし同時に彼は「あなたのゆえに幸いになり」と言われておりますから、サラが召し入れられ宮廷から多くのご褒美を受け取ることが前提となってこのように嘘を言わせたと考えることも出来るわけです。
 そして妻のサラはファラオに召し入れられます。彼女は絶世の美女であったようですから、その美しさゆえにファラオの家臣の目にとまり早速宮廷に召し抱えられるのです。サラの待遇は恐らく側室であったでしょうから、労働による賃金や、身売りによって得る金銭とは全く違う、破格の財産を手にすることになります。実際アブラハムは16節で「彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられた」とあるように、多くの財産をサラの対価として受け取ることになったのです。
 ここまでの筋書きをアブラハムが仕組んだものであるのかどうかは分かりませんけれども、少なくとも彼は、自分自身を救うためにサラを危険に晒し、そのことを厭わなかったという事だけは確かであろうと思います。ではこの事実を私たちは、信仰の父としてのアブラハムから何を読み取ればよいのか。このことが問題になってまいります。
 
 しかし良くこの箇所を読んでみますとき、本当にアブラハムがそこまで強か(したたか)に、サラの美貌を釣り餌にして宮廷から財産を受け取ろうとしていたのでしょうか。彼は嘘をつき、サラを自分の妹であるとしたことは確かです。命ごいのために嘘をついたという事実は確かなのです。
 彼は、妻サラが召し入れられるというところまでは想定していたのかどうかは分かりません。むしろ彼の中でそれは想定外のハプニングであったのかも知れないのです。そこまで浅ましく考えておらず、単に命を奪われないようにということで夫婦間で申し合わせをしていただけかもしれません。しかし自体は急変し、サラは召し入れられてしまいます。「『妹です』と言ったのは嘘でした」などというと、間違いなく処罰されると思い、取り返しのつかない事態となったことに彼は悶々とした日を過ごしていたのかもしれません。サラが召し入れられてから解放されるまでが何日ほどであったのか分かりません。それは推測の域を超えないのですが、数日・数週間ではないだろうと思います。もしかすると飢饉がなくなるまでとすれば、数年間ここに滞在していたとも考えられます。その間アブラハムの気持ちを考えると、逆にいたたまれない思いになってしまいます。自分は町にいて、それまで連れ添っていたサラが宮廷の中でファラオの妻、側室となっている。確かにあの時は大飢饉が襲い、何でも良いからどんな手を使ってでも良いから食糧を得ようと思っていた。そして首尾よくそれが適った。しかも妻のサラは宮廷に入り込み、多くの
財産分与を得ている。生活としては何も不自由もないし、あの時自分が望んでいたことに近いのかもしれない。しかし、しかしそれは取り返しのつかない事態であったと。
 妻の身代金を受けることによって一家が存続することのみを考えていた彼は、しかし自分のはらわたの断ち切られるような思いを払拭することのできない数ヶ月もしくは数年間を過ごしてしまったのでありましょう。あの時はそうだった。あの時はそう生きる事が自分のためであると信じていた。しかしそれは過ちであった。取り返しのつかない過ちに身を投じてしまった。このようにアブラハムが悶々と苦しみ、耐え難い痛みを負っていたとするならば、これは私たちにも身に覚えのある苦しみなのではないでしょうか。あの時はそうだった。だから人を欺いた。その欺きと嘘によって起こした今がある。それはかき消すことは出来ない。このことは私たちが信仰者として生きることにおいて度々起こることであります。
 しかしそのような状況の中で、「ところが主は」(17節)彼らを救い出すのです。過ちに身を投じた彼を救うのです。恐らく疫病が流行したのでしょう。どういう経緯でなのか分かりませんがその疫病がサラの事であると判明した。ファラオは人の妻を娶ってしまったという罪が疫病の原因であると悟り、サラを解放したというのです。
 アブラハムは、自分の生き延びることだけをはかって妻を切り離しました。しかしその事は彼を後悔しつくしてもし尽くせないほどの痛みに変えました。彼はその不運を自分の責めとし、諦めようとしていたのではないかと思うのです。もうこうなってしまった以上、どうすることも出来ない。これが彼の中にあった諦めの思いであったと思うのです。しかし神は「ところが主は、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気に罹らせた」。これが主の解決でありました。「人間の弱さと利己心のために犯した罪」「心の邪悪さのためにしでかした事件」「自ら収束させるには絶望的に無力である事態」でありました。しかし神はこの絶望的状況に終止符を打つように「神が立ち上がり、神が乗り出してこられた」のです。
 この箇所は夫婦の生き方あり方を示す教訓物語ではありません。また神さまは最後にはハッピーエンドをもたらして下さる、という甘く単純な期待を神に掛けてよいというお話でもありません。アブラハムの試練は自らの無力と虚無の最たるものであったことでしょう。サラの試練もそれを上回るものがあったかもしれません。しかし私たちは自分自分と、自分の心の内、自分たちの状況の中に目を留め続けることの中にではなく、一筋に神に向き直って生きることの中に、信仰の歩みが備わっているということなのであります。「結果的に神さまのなさることは良かった」ということがメッセージなのではありません。莫大な財産を得て妻と一緒にエジプトを出ることにはなりましたけれども、妻は一度ファラオの妻になってしまったこととそのわだかまりは、それが本当に神の恵みと言えるのか、と思ってしまいますが、人間がどう思ったとしても、人間の目にはどう映ろうとも、それが神さまの示した結論なのだ。それが神さまの与えられた人生なのだ、という事を、私たちは信仰によって受け入れていく、それこそが信仰者に与えられた人生なのではないかと思うのであります。苦しみがなくなることが人生の喜びではなく、苦しみをどう受け入れられていくかが、神に与えられた人生の恵みなのであります。
 
 そしてこの箇所の通奏低音として流れているのが、12章1節~4節の約束、であります。「~わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように~」。アブラハムたちは、如何なる状況に遭遇しても、この祝福から離されることはなかったのです。罪も咎も、その全てをひっくるめて、彼らは神の祝福の下で、生かされた信仰者であったのです。