2023.5.14 の週報掲載の説教
<2023年3月26日の説教から>
『聖霊のとりなし』
ローマの信徒への手紙8章18~30節
牧 師 鈴木美津子
「人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです(27)。」
「霊の思い」とは、私たちのために執り成し、私たちと神との関係を良いものとするために労苦して下さる思いのこと。神はこの霊の思いを通して私たちを見つめて下さる。
神は、その霊の思いが何であるかを知っておられる。そして、その霊は、神の御心に従って、聖なる者である私たちのために執り成しの祈りをささげてくださる。「執り成しの祈り」とは、「その人のために、その人に代わって祈る祈りのこと」である。私たちがどう祈るべきか分からないときも、私たちの心に宿る聖霊は、神の御心に従って、私たちのために執り成しの祈りをささげてくださるのである。聖霊は、私たちと一緒に祈ってくださるだけでなく、私たちに代わって御自ら祈られる。この聖霊の執り成しは、私たちの心の中で行われる、言葉にならないうめきであるので、私たちにはどのような内容なのかは分からない。しかし、神は聖霊の思いが何であるかを知っておられる。
神は聖霊の執り成しを確実に聞かれ、応えてくださる。神が自らの霊である聖霊のうめきを聞き漏らすはずはなく、また聞いて放っておくなどということもあり得ない。私たちは、この聖霊による執り成しの業に信頼して、委ねれば良い。
神が具体的にどのような道を開いてくださるのかは、私たちには分からない。ただ、はっきりしているのは、神は私たちを救いの完成へと確実に導き続けてくださるということ。だから「万事が益となるように働く」ということになるのである。私たちが救いの完成へと歩み続け、やがてキリストに似た者に変えられる、そのために万事が益となるように働く。それが神の摂理であり、私たちが神に選ばれているということである。
「万事が益となるように働く」という言葉の前に「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、」とある。「万事が益となるように働く」のは、「私たちが熱心に祈れば」でもなく、「私たちの信仰が熱心であれば」でもなく、神が御計画に従って私たちを選んでくださり、神を愛する者へと召してくださったゆえである。
2023.5.7 の週報掲載の説教
2023.5.7 の週報掲載の説教
<2023年3月19日の説教から>
『目に見えないものを待ち望む』
ローマの信徒への手紙8章18-25節
牧 師 鈴木美津子
私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶ聖霊を与えられて、神の子とされているが、完全に神の子とされているわけではない。と言うのも、私たちの内には、未だ肉の思いがあり、聖霊の導きに完全に従ってはいないからである。それゆえ、私たちは体が贖われること、キリストと同じ霊の体に変えられることを、心の中で呻きながら待ち望んでいるのである。「霊の体」とは、コリント一の15章で、パウロが用いている言葉で、聖霊の導きに完全に従うことができる体という意味である。キリストを信じる私たちは、キリストが栄光の主として再び来られる日に、霊の体に復活させられる。それは聖霊に完全に支配されている体である。そして、そのときこそ、私たちは神の御心に完全に従う神の子とされる。
今は、私たちには肉の思いがあるので、聖霊に完全に従うことはできない。その肉との戦いは、まさに、私たちの心に神の子とされること、体が贖われることを待ち望むうめきを生じさせる。しかし、それこそが、私たちを救う希望である。この希望は、信仰と一体的な関係にある。なぜなら、信仰とは、望んでいることがらを確信し、見えない事実を確認することであるからだ。私たちは、イエス・キリストが栄光の主として来られる日に、イエス・キリストと同じ姿で復活させられる。そのとき、私たちは神の御心に完全に適う神の子とされる。このことは、パウロが語るように、目に見えない希望である。やがて、イエス・キリストが再び来られる日に、私たちの体が贖われ、神の子とされる。そして、義の宿る新しい天と新しい地を受け継ぐことになる。そこには、もはや、呪われるものは何一つない。それは、まさしく誰も見たことのない世界である。しかし、その目に見えないものを、私たちは信仰によって待ち望んでいる。だから、天の国を受け継ぐ保証である霊の初穂をいただいている者として、忍耐して待ち望むのである。
<2023年3月19日の説教から>
『目に見えないものを待ち望む』
ローマの信徒への手紙8章18-25節
牧 師 鈴木美津子
私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶ聖霊を与えられて、神の子とされているが、完全に神の子とされているわけではない。と言うのも、私たちの内には、未だ肉の思いがあり、聖霊の導きに完全に従ってはいないからである。それゆえ、私たちは体が贖われること、キリストと同じ霊の体に変えられることを、心の中で呻きながら待ち望んでいるのである。「霊の体」とは、コリント一の15章で、パウロが用いている言葉で、聖霊の導きに完全に従うことができる体という意味である。キリストを信じる私たちは、キリストが栄光の主として再び来られる日に、霊の体に復活させられる。それは聖霊に完全に支配されている体である。そして、そのときこそ、私たちは神の御心に完全に従う神の子とされる。
今は、私たちには肉の思いがあるので、聖霊に完全に従うことはできない。その肉との戦いは、まさに、私たちの心に神の子とされること、体が贖われることを待ち望むうめきを生じさせる。しかし、それこそが、私たちを救う希望である。この希望は、信仰と一体的な関係にある。なぜなら、信仰とは、望んでいることがらを確信し、見えない事実を確認することであるからだ。私たちは、イエス・キリストが栄光の主として来られる日に、イエス・キリストと同じ姿で復活させられる。そのとき、私たちは神の御心に完全に適う神の子とされる。このことは、パウロが語るように、目に見えない希望である。やがて、イエス・キリストが再び来られる日に、私たちの体が贖われ、神の子とされる。そして、義の宿る新しい天と新しい地を受け継ぐことになる。そこには、もはや、呪われるものは何一つない。それは、まさしく誰も見たことのない世界である。しかし、その目に見えないものを、私たちは信仰によって待ち望んでいる。だから、天の国を受け継ぐ保証である霊の初穂をいただいている者として、忍耐して待ち望むのである。
2023.4.30 の週報掲載の説教
2023.4.30 の週報掲載の説教
<2023年3月12日の説教から>
『私たちを神の子とする霊』
ローマの信徒への手紙8章12~17節
牧 師 鈴木美津子
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び畏れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。(14-15)」
パウロは、ここでは神の霊を、「神の子とする霊」と言う。「神の子とする霊」とは「神の養子とする霊」である。神の御子、独り子はイエス・キリストである。そのイエス・キリストを信じて、洗礼を受けた私たちは、聖霊を与えられて神の養子、神の子とされたのである。パウロが、「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と語るとき、そこでは、「この霊」が「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊であることを教えている。パウロは、ガラテヤ書に「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります(4:6)」と記している。「アッバ」とはユダヤ人の日常語であるアラム語で、幼い子どもが父親に呼びかけるときに使う言葉で「おとうちゃん」とか「パパ」と訳せる言葉である。ユダヤ人たちは、そのような言葉を神に対して用いることはなかった。しかし、主イエスは、「アッバ、父よ」と神に親しく呼びかけ、祈られた。真に神の子であるからだ。パウロは聖霊を、キリストの霊とも言うが、私たちは御子キリストの霊を与えられて、「アッバ、父よ」と呼ぶ者たちとされたのである。「呼ぶ」という言葉は、「叫ぶ」とも訳せる。主イエスは、ゲツセマネにおいて、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように(マルコ14:36)」と叫ぶように祈られた。御子の霊を受けた私たちは、口先だけで「アッバ、父よ」と呼ぶのではなく、心の底から、「アッバ、父よ」と叫ぶ、信頼する心を与えられたのである。神を「アッバ、父よ」と呼び、信頼する心をもって、私たちは祈る者とされた。父と子との交わり、それは最も親密な交わりである。私たちは神の独り子である主イエスの聖霊を受けて、神と最も親しい父と子との交わりに生きる者とされたのである。
<2023年3月12日の説教から>
『私たちを神の子とする霊』
ローマの信徒への手紙8章12~17節
牧 師 鈴木美津子
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び畏れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。(14-15)」
パウロは、ここでは神の霊を、「神の子とする霊」と言う。「神の子とする霊」とは「神の養子とする霊」である。神の御子、独り子はイエス・キリストである。そのイエス・キリストを信じて、洗礼を受けた私たちは、聖霊を与えられて神の養子、神の子とされたのである。パウロが、「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と語るとき、そこでは、「この霊」が「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊であることを教えている。パウロは、ガラテヤ書に「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります(4:6)」と記している。「アッバ」とはユダヤ人の日常語であるアラム語で、幼い子どもが父親に呼びかけるときに使う言葉で「おとうちゃん」とか「パパ」と訳せる言葉である。ユダヤ人たちは、そのような言葉を神に対して用いることはなかった。しかし、主イエスは、「アッバ、父よ」と神に親しく呼びかけ、祈られた。真に神の子であるからだ。パウロは聖霊を、キリストの霊とも言うが、私たちは御子キリストの霊を与えられて、「アッバ、父よ」と呼ぶ者たちとされたのである。「呼ぶ」という言葉は、「叫ぶ」とも訳せる。主イエスは、ゲツセマネにおいて、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように(マルコ14:36)」と叫ぶように祈られた。御子の霊を受けた私たちは、口先だけで「アッバ、父よ」と呼ぶのではなく、心の底から、「アッバ、父よ」と叫ぶ、信頼する心を与えられたのである。神を「アッバ、父よ」と呼び、信頼する心をもって、私たちは祈る者とされた。父と子との交わり、それは最も親密な交わりである。私たちは神の独り子である主イエスの聖霊を受けて、神と最も親しい父と子との交わりに生きる者とされたのである。
2023.4.23 の週報掲載の説教
2023.4.23 の週報掲載の説教
<2023年3月5日の説教から>
『死ぬはずの体をも生かしてくださる神』
ローマの信徒への手紙8章5節~11節
牧 師 鈴木美津子
「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。(11)」
私たちの内に宿っている神の霊は、主イエスを死者の中から復活させられた神の霊でもある。そうであれば、「神は、あなたがたの内に宿る霊によって、あなたがたをも復活させてくださる」とパウロは言う。彼はコリントの信徒への手紙一の15章でキリストの復活についての詳細を記しているが、そこで主イエスの復活は、私たちの初穂であったと記している(一コリント15:20)。初穂はその畑の収穫を保証するものである。だから、主イエスを信じる者は、主イエスと同じように、朽ちることのない、栄光の体で復活する。しかし、それは主イエスと同じ死から3日目ではなく、キリストが栄光の主として天から来られる日に、復活させられる。ではなぜ私たちは主イエスと同じように復活すると言えるのか?それは、私たちの内に宿っている聖霊が、主イエスを復活させられた神の霊であるからだ。
ここでパウロが語っていることは目に見えない信仰の世界のことである。主イエスが「世は、この霊を見ようとも受け入れようともしないので、受け入れることができません」(ヨハネ14:17)、と言われたように肉の支配下にある者にとっては、ここでパウロが語ることは、戯れ言のように思えるだろう。しかし、目に見えないものを信じることが信仰である。目に見えるものだけで世界は成り立っているのではない。目に見えない世界を信じること、それが現代に生きる私たちにも必要なことである。そして、そのような目に見えない世界、霊に属することを考えることができるのは、聖霊なる神が、私たちの心に宿っておられるからである。
パウロは、7章24節で、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と語ったが、その嘆きの答えが、8章11節で語られている。キリストを復活させた神が、その霊によって、私たちの死ぬはずの体をも生かしてくださる。私たちもいずれは死んで、この地上の生涯を終ることになる。しかし、神はその私たちを世の終わりに、主イエスと同じ栄光の体で復活させてくださるのである。
<2023年3月5日の説教から>
『死ぬはずの体をも生かしてくださる神』
ローマの信徒への手紙8章5節~11節
牧 師 鈴木美津子
「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。(11)」
私たちの内に宿っている神の霊は、主イエスを死者の中から復活させられた神の霊でもある。そうであれば、「神は、あなたがたの内に宿る霊によって、あなたがたをも復活させてくださる」とパウロは言う。彼はコリントの信徒への手紙一の15章でキリストの復活についての詳細を記しているが、そこで主イエスの復活は、私たちの初穂であったと記している(一コリント15:20)。初穂はその畑の収穫を保証するものである。だから、主イエスを信じる者は、主イエスと同じように、朽ちることのない、栄光の体で復活する。しかし、それは主イエスと同じ死から3日目ではなく、キリストが栄光の主として天から来られる日に、復活させられる。ではなぜ私たちは主イエスと同じように復活すると言えるのか?それは、私たちの内に宿っている聖霊が、主イエスを復活させられた神の霊であるからだ。
ここでパウロが語っていることは目に見えない信仰の世界のことである。主イエスが「世は、この霊を見ようとも受け入れようともしないので、受け入れることができません」(ヨハネ14:17)、と言われたように肉の支配下にある者にとっては、ここでパウロが語ることは、戯れ言のように思えるだろう。しかし、目に見えないものを信じることが信仰である。目に見えるものだけで世界は成り立っているのではない。目に見えない世界を信じること、それが現代に生きる私たちにも必要なことである。そして、そのような目に見えない世界、霊に属することを考えることができるのは、聖霊なる神が、私たちの心に宿っておられるからである。
パウロは、7章24節で、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と語ったが、その嘆きの答えが、8章11節で語られている。キリストを復活させた神が、その霊によって、私たちの死ぬはずの体をも生かしてくださる。私たちもいずれは死んで、この地上の生涯を終ることになる。しかし、神はその私たちを世の終わりに、主イエスと同じ栄光の体で復活させてくださるのである。
2023.4.9 の週報掲載の説教
2023.4.9 の週報掲載の説教
<2023年2月26日の説教から>
『キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則』
ローマの信徒への手紙8章1節~11節(1~4節)
牧 師 鈴木美津子
「それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。(4)」
律法の目的は、「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」である。言い換えると、「律法の要求を満たし、神と共に歩むこと」である。しかし、私たちは罪によって、この神との関係を破壊してしまい、律法の要求を満たすことはできなくなった。それでも、律法が破棄されることはなく、むしろ、神は、まるで私たちが律法の要求を満たしたかのように救いの御業を行ってくださった。「わたしたちの内に、律法の要求が満たされるため」、とはそういうことである。律法は、神と私たちとの関係の絆であった。それは契約とも言う。だから聖書は、律法を古い契約とも言い換える。つまり、もし律法が破棄されたら、私たちと神との関係はそこで終了する。なぜなら、神からの一方的な恩恵によって契約を与えられた側である私たちが律法を破棄したからである。神は、ご自身がせっかく与えた律法を踏みにじった上に、その聖い掟を無視し、罪と死の法則という違う掟に従う人間を見捨てて、律法を破棄されることが当然であった。しかし、そうはなさらなかった。なぜなのか。それは、それほどまでに、私たちを愛してくださっているからである。なぜ、そこまで愛してくださるのかは、私たちにはわからない。しかし、この神の愛が、律法という古い契約を新しい契約に変えてまでも私たちの救いを実現してくださったのである。神が一方的に与えてくださった契約を、一方的に破り捨てた私たち。その私たちに神は、御子イエス・キリストという新しい契約を与えられた。それも古い契約の内容を変えることなく、その契約の要求をすべてイエス・キリストに委ねられたのである。私たちは無力で、救われるために有効となることなど何一つできない者である。しかし、この契約の全てを十字架によって、イエス・キリストが実行してくださったので、イエス・キリストに結ばれているゆえに、私たちも契約によって命を得ることが赦されるのである。
この新しい契約は、この十字架の法則によってのみ成立する。
<2023年2月26日の説教から>
『キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則』
ローマの信徒への手紙8章1節~11節(1~4節)
牧 師 鈴木美津子
「それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。(4)」
律法の目的は、「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」である。言い換えると、「律法の要求を満たし、神と共に歩むこと」である。しかし、私たちは罪によって、この神との関係を破壊してしまい、律法の要求を満たすことはできなくなった。それでも、律法が破棄されることはなく、むしろ、神は、まるで私たちが律法の要求を満たしたかのように救いの御業を行ってくださった。「わたしたちの内に、律法の要求が満たされるため」、とはそういうことである。律法は、神と私たちとの関係の絆であった。それは契約とも言う。だから聖書は、律法を古い契約とも言い換える。つまり、もし律法が破棄されたら、私たちと神との関係はそこで終了する。なぜなら、神からの一方的な恩恵によって契約を与えられた側である私たちが律法を破棄したからである。神は、ご自身がせっかく与えた律法を踏みにじった上に、その聖い掟を無視し、罪と死の法則という違う掟に従う人間を見捨てて、律法を破棄されることが当然であった。しかし、そうはなさらなかった。なぜなのか。それは、それほどまでに、私たちを愛してくださっているからである。なぜ、そこまで愛してくださるのかは、私たちにはわからない。しかし、この神の愛が、律法という古い契約を新しい契約に変えてまでも私たちの救いを実現してくださったのである。神が一方的に与えてくださった契約を、一方的に破り捨てた私たち。その私たちに神は、御子イエス・キリストという新しい契約を与えられた。それも古い契約の内容を変えることなく、その契約の要求をすべてイエス・キリストに委ねられたのである。私たちは無力で、救われるために有効となることなど何一つできない者である。しかし、この契約の全てを十字架によって、イエス・キリストが実行してくださったので、イエス・キリストに結ばれているゆえに、私たちも契約によって命を得ることが赦されるのである。
この新しい契約は、この十字架の法則によってのみ成立する。
2023.4.2 の週報掲載の説教
2023.4.2 の週報掲載の説教
ローマの信徒への手紙7章7-25節(14-25節)
『私の中に住んでいる罪』
牧 師 鈴木美津子
「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。(15)」
「わかりません」は、原文から直訳すると「知りません」であり、「認めない」という意味でもある。 「自分がしていることを認めない。」というのは、「私の本当にしたいことはそうではない。本当の私は別のことを求めている。私が行なっている罪を私は認めない。それは私のではないからだ。私はそれを捨てる」ということである。
つまり、これは「わたしは悔い改める」という意味であり、「それを私は認めない。それを私は憎む。それを私は捨てる」と言って、その罪を自分の外に追い出して捨てるのである。本当の自分は、神を愛して神の御国を求めている。パウロは、自分の犯す罪が自分に本当の意味で自分に属していると認めることを拒んでいるのである。
実際、私たちには、心の中の罪との戦いや生活の中の罪との戦いがある。完全な者になったというわけではないからである。罪をたった一度だけ悔い改めたのなら、もう完全に罪のない者になれるとしたら、私たちはそれほど深く愛を求め、義を慕い求め、御国を求める心を持つようにはならないであろう。それ故、神は、様々な訓練を通して私たちが成長して完全に向かうように導いてくださるのだ。神の似姿として、神の栄光を表わすことができる者になるよう、私たちが罪と戦うように神は導いてくださっておられる。そして、私たちが、自分の心の中にある罪の意味の深さを悟るように導いてくださるのである。それによって私たちは、主イエス・キリストを信じる信仰の意味とその大切さと素晴らしさを真に知ることができるようになるのである。
神は、毎主日、礼拝に私たちを招いてくださる。私たちは、その招きに応えて「神が私を愛してくださっている。神の恵みにより、キリストの十字架の死と復活によって、私は救われます」と告白して、その恵みに感謝の心をもって立ち上がるのである。感謝の心に立ち返って、再び立ち上がった私たちを神はまた送り出してくださる。そして、私たちは神の愛を覚え、感謝の心に戻って、新しい日々を歩むのである。
ローマの信徒への手紙7章7-25節(14-25節)
『私の中に住んでいる罪』
牧 師 鈴木美津子
「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。(15)」
「わかりません」は、原文から直訳すると「知りません」であり、「認めない」という意味でもある。 「自分がしていることを認めない。」というのは、「私の本当にしたいことはそうではない。本当の私は別のことを求めている。私が行なっている罪を私は認めない。それは私のではないからだ。私はそれを捨てる」ということである。
つまり、これは「わたしは悔い改める」という意味であり、「それを私は認めない。それを私は憎む。それを私は捨てる」と言って、その罪を自分の外に追い出して捨てるのである。本当の自分は、神を愛して神の御国を求めている。パウロは、自分の犯す罪が自分に本当の意味で自分に属していると認めることを拒んでいるのである。
実際、私たちには、心の中の罪との戦いや生活の中の罪との戦いがある。完全な者になったというわけではないからである。罪をたった一度だけ悔い改めたのなら、もう完全に罪のない者になれるとしたら、私たちはそれほど深く愛を求め、義を慕い求め、御国を求める心を持つようにはならないであろう。それ故、神は、様々な訓練を通して私たちが成長して完全に向かうように導いてくださるのだ。神の似姿として、神の栄光を表わすことができる者になるよう、私たちが罪と戦うように神は導いてくださっておられる。そして、私たちが、自分の心の中にある罪の意味の深さを悟るように導いてくださるのである。それによって私たちは、主イエス・キリストを信じる信仰の意味とその大切さと素晴らしさを真に知ることができるようになるのである。
神は、毎主日、礼拝に私たちを招いてくださる。私たちは、その招きに応えて「神が私を愛してくださっている。神の恵みにより、キリストの十字架の死と復活によって、私は救われます」と告白して、その恵みに感謝の心をもって立ち上がるのである。感謝の心に立ち返って、再び立ち上がった私たちを神はまた送り出してくださる。そして、私たちは神の愛を覚え、感謝の心に戻って、新しい日々を歩むのである。
