2024.3.24 の週報掲載の説教

2024.3.24 の週報掲載の説教
<2024年2月4日説教>

『啓示された神の秘められた計画』
ローマの信徒への手紙16章21節~27節

牧師 鈴木 美津子

「神は、 わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、 あなたがたを強めることがおできになります。 この福音は、 世々にわたって隠されていた、 秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。(25-26)」

神様の秘められた計画とは、「あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられ」ることである。それは、ユダヤ人も異邦人も、イエス・キリストの福音を聞き、そして、信じて、聖霊を与えられて神の民となり、神様の栄光をたたえるようになるということだ。今や、この「神の秘められた計画」はパウロの福音宣教によって、明らかになったのである。

私たちが強められるのもまた「神の秘められた計画」が明らかにされたのも、すべての異邦人が救いへと招かれたのも、すべては「イエス・キリストを通して」のことである。イエス様は、私たちと神様の仲保者である。私たちは、イエス様抜きに、神様を誉め讃えることはできない。また自分が何者であるのか、自分が何処から来て、何処に向かって歩んでいるのかも分からなくなってしまうような者である。私たちは、イエス様を通して救われ、神の子としていただき、永遠の命の希望に生きる者とされた。イエス様を通して、神様の愛の御手の中で生かされ導かれていることを知らされた。イエス様を通して、神様がすべてを支配しておられることを知らされた。だから、私たちは、全てにおいて、イエス様を通して、「アーメン」と言えるのである。そして、そのような者たちの交わり、それがキリスト者の交わりである。神様がここにおられることが明らかにされる交わり、それが教会である。そこでは「自分が、私が」という思いは退けられる。自分が評価されたいという思いも、自分は正しいという思いも、退いていく。そこでは、ただ神様に栄光を帰することにおいて、兄弟姉妹の心が一つにされるからである。私たちはそのような交わりを形作るため、ここに、この浦和教会に召し集められた者たち、そしてその交わりが浦和教会の歴史と共にこれからも続くのである。

「栄光世々限りなく神にあれ。アーメン。」

2024.3.10 の週報掲載の説教

2024.3.10 の週報掲載の説教
<2024年1月28日説教から>

『善にはさとく、悪には疎くあるように』
ローマの信徒への手紙16章17節~20節

牧 師 鈴木美津子

「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。(20)」

「さとく」という言葉は、知恵のある、或いは賢い、とも訳すことができる。「善については知恵があれ」、つまり、あらゆる善いことに通じていなさい、主イエスのお役に立てるために常に思いめぐらしなさい、と言うことである。逆に、「疎く」という言葉は、「単純であるとか無邪気である」という意味である。簡単に言えば、「悪知恵などいらない」、ということである

しかし、実に、この世はその正反対ではないか。「善にさとく、悪には疎く」ではなく、善には大層疎く、悪知恵ばかりが幅を利かせていく、だから戦争が起こり、差別が止まず、格差社会が生まれるのではないか。弱い者は虐げられ、強い者が幅を利かす、これはいつの時代も変わっていない。変わって見えるとすれば、それに上塗りをしているだけの話である。しかし、御言葉は、このサタンの支配の終わりを明確にする。

「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう」、とパウロが言う時、これと逆の現実が彼の目の前にある。今、サタンが、信仰者の平和を奪っている、パウロの目にはそのように見えていたはずである。そして、これはその後2000年のキリスト教の歴史の中で、常に信仰者に与えられて来た現実である。しかし、それにもかかわらずすでに2000年の昔に、「平和の源である神は間もなく」、とパウロは言う。この「間もなく」という言葉は、速さを表す言葉で、非常に間近に迫っている、そう言う状況を示す言葉である。

しかし、2000年経っても、私たちの見ている景色は同じで、善に疎く、悪知恵ばかりが幅を利かせて世の中は動いている。それでも、その現実の中で、「間もなく」という信仰に立ち続けるのがキリストを信じる者の役割ではないか。

キリスト者は、「善にさとく、悪には疎くあれ」、とあらゆるよきことに敏感で、主に仕えて、主イエスのお役に立つために思いめぐらす者でありたい。その時、「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれる」、この御言葉こそが、真の希望となり、頭上に輝くのではないか。パウロは2000年前にそこに立ったのである。「わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。アーメン。」

2024.3.3 の週報掲載の説教

<2024年1月21日説教から>

『パウロからローマの教会の兄弟姉妹への挨拶』
ローマの信徒への手紙16章1節~16節

牧師 鈴木 美津子

パウロは、1-16節の中で「よろしく」という言葉を17回記している。これは、直訳すると「挨拶しなさい」である。パウロはユダヤ人であるから、「挨拶」と言えば「シャローム(平和があるように)」であるので、「よろしく」も、そのような思いがある言葉である。

16節に、「あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい」と、あるが、パウロの意図する「よろしく」「挨拶しなさい」は、まさにこの「聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい」という意味のある言葉である。

私たちの国では、このような習慣はないが、このような習慣のある国では、接吻による挨拶というのは、これ以上ない兄弟愛表す行為である。しかし、ここで大切なことは、そのような流儀ではなくて、心である。心がそこになかったら、それは無意味な行為である。あの裏切り者のイスカリオテのユダは、口づけによって、主イエスを裏切った。

16節の後半には、「キリストのすべての教会が、あなたがたによろしくと言っています」とある。「聖なる口づけによって互いに挨拶を交わす」、すなわち「あなたのありたっけの心で、深い思いを持って互いに愛し会う」という、この最高の愛情表現が、全世界の教会で実現する、やがて実現するという希望の言葉である。ユダヤ人であっても異邦人であっても、男でも女、王族であって奴隷であっても、裕福であってもなくても、たとえ身分や立場が違っても、最高の愛情表現で兄弟姉妹の交わりが実現し、そして、それが全世界へと拡がっていく、この希望である。そして、この希望の源こそが、イエス・キリストである。

ですから、私たちもまた、「聖なる口づけによって互いに挨拶を交わす」、すなわち「あなたのありたっけの心で、深い思いを持って互いに愛し会う」この心を持って、朝にも、帰りにも挨拶を交わすのである。教会の玄関で、主の日の朝、私たちはお互いに「おはようございます」と挨拶するが、その心は「シャローム」である。帰る時も「さようなら」と挨拶を交わすが、それは「平和がありますように」「また来週会いましょう」という思いをもって挨拶をする。これが私たちキリスト者の挨拶の心と言うべきものなのである。

2024.2.11 の週報掲載の説教

2024.2.11 の週報掲載の説教
<2024年1月14日の説教から>

『わたしのために、わたしと共に祈ってください』
       ローマの信徒への手紙15章22節~33節

牧師 鈴木美津子

「どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください。(30b)」

「一緒に神に祈ってください」を原文から訳すと、「祈りにおいて、共に戦ってほしい、共に戦い続けてほしい」と言う意味がある。パウロは、ローマの教会の多くの人々と会ったことがなかったが、主イエス・キリストを信じる兄弟姉妹として、また、聖霊の愛に訴えて、自分のために、一緒に熱心に祈ってほしいと切に願った。パウロのこの祈りの願いから、彼がどれほど危険な状態にあったかを知ることができる。

もちろん、パウロもローマの教会の人たちのために祈った。パウロは実に豊かな祈りの交わりの中に身を置き続けた「祈りの人」であった。彼は多くの同労者のために祈った。自分が伝道した教会のため、その教会で起きている様々な問題、課題のために祈った。福音の前進のために、神の栄光が現れるために祈った。そして、彼は多くの人に祈られた。それが彼の喜びであり、幸いであり、力であった。互いに執り成しの祈りによって結び合わされた交わり、それがキリストの体である教会である。

祈れることの幸い。神のために、世界のために、教会のために、愛する者のために、自分のために、祈ることが出来る。このことの幸いを知る者は、自分が祈られているということも知っている。自分が祈っていることしか知らない者は、祈りの幸いの半分しか知らない。私たちは祈っているだけではない。祈られているのだ。私のことなど祈っている人なんていないと思っている人は、祈られている、祈りの交わりの中に自分が身を置いていることを知らないのである。主イエスの救いに与るまで、私たちは目に見える、実際に言葉を交わし手を結び合える人との交わりしか知らなかった。そして、その目に見える交わりは、しばしば私たちを拒絶した。そんな時、私たちは自分が独りぼっちであるかのような思いに囚われる。

しかし、主イエスによって私たちに与えられた交わりは、全く新しい、驚くべき交わりであった。その交わりを最もはっきり私たちに示してくれるのが、主の日の礼拝である。同じ神からの語りかけを聞き、同じ一つの命をいただき、共に祈りを合わせる。今日も世界中の十億を超える人々が、主の祈りを捧げている。この交わりは時代を超え、地域を越え、主イエスによって結び合わされているのである。

2024.2.4 の週報掲載の説教

2024.2.4 の週報掲載の説教
<2023年11月26日週報から>

『パウロの誇り』
ローマの信徒への手紙15章14節~21節

牧師 鈴木美津子

「そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りにしています。(17)」キリストに結ばれた者として、神のために働くことができたこと、それがパウロの誇りであり、使徒としての拠り所であった。パウロは、「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません」と記すことによって、自分の働きがキリストの働きであったことを記している。天におられるキリストが聖霊によってパウロと共にいてくださり、彼の言葉と行いを通して異邦人を神様に従順な者とされたのである。キリストは、パウロを用いて、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働いてくださった。この「しるしや奇跡の力」とは、悪霊追放や病の癒しの奇跡のことである。

また、「神の霊の力」とは、パウロが語る福音と共に働く、聖霊の力のことである。聖霊が心を開き、彼が語る福音を信仰をもって聞くことができるようにしてくださるのである。キリストはパウロを通して働いてくださった。それは、キリストに結ばれている私たちも同様である。私たちは、彼のように癒しの奇跡を行うことはできない。しかし、私たちの語る福音と共に、聖霊は働いてくださる。そして、福音を聞く者たちの中から信じる者たちを起こしてくださる。そのようにして、私たちもまた、神の福音のための祭司の務めを果たすことができる。天におられるキリストは、御自分の弟子である私たちを用いて、今も、働いてくださっている。ですから、私たちも神のために働くことを、キリストにあって誇ることができるのである。それが私たちの教会が確かに立つ拠り所なのである。私たちが、週に一度、ここに集まり礼拝をささげるのはなぜか?異教の国である日本において、キリストの福音を語り続ける、その拠り所はどこにあるのか?それは、天におられるキリストが私たちを通して働いてくださることにある。パウロはそのことを確かな拠り所として、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えたのである。

私たちもまた、パウロのようにまだキリストを知らない人々に、福音を宣べ伝えることは、真に名誉なこと、光栄なことである。私たちを通して、キリストが働いてくださる。キリストと共に、神のために働くことができる。そのような光栄に、私たちも与る者とされているのである。

2024.1.28 の週報掲載の説教

2024.1.28 の週報掲載の説教
<2023年11月19日週報から>

 『希望の源である神』
ローマの信徒への手紙15章7節~13節

牧師 鈴木美津子

「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。(13)」

「希望の源である神」を直訳すれば「希望の神」となる。この希望は、あるかないか分からない、というようなぼんやりしたものではない。この希望は、イエス様の十字架によって一切の罪を赦され、神の子とされた私たちに与えられている希望である。それは、イエス様が再び来られる時に復活し、キリストに似た者とされ、永遠の命に生きる者とされるという希望である。この希望は、私たちに満ちあふれるほどに注がれ、私たちから外にあふれていく。この希望は、心の中にほんのりと灯火がともるような、弱々しい、はかない希望ではない。闇を駆逐し、自分の周りの人々にまであふれ出し、この世界に生きる力と勇気を与える希望である。この希望を誰も私たちから奪うことは出来ない。

この希望をもって、私たちは「互いに受け入れる」という歩みへと導かれる。だから、私たちは、この希望をもって、互いに心を一つにして主をほめたたえる日が来ることを信じている。確かに、互いに受け入れられないという現実、対立や争いを、キリストの教会は幾度も経験してきたし、今も経験している。しかし、それでもキリストの教会は希望を失ったことはない。確かに、人間の知恵や工夫では、もう無理だろうと思うことも、万策尽きたと思うこともある。そうであっても、この希望はなくならない。そもそもこの希望は、「私が何とか出来る。何とかする」、というところに根拠を持つものではない。神様から、信仰と共に、私たちに注がれる希望である。神様が出来事を起こし、新しい時代を開いていってくださる。そして、きっと、今は互いに受け入れることが出来ないでいる者たちが、喜んで互いに受け入れる時が来る。やがて、共に主をほめたたえる日が来る。そう信じて待つ私たちを、希望の神がその希望で満たし続けてくださるのである。

今、社会の様々な所で分断が起きている。その影響は、教会の中にも入り込んでいる。そのような現実の中で人々は不安を抱えている。このような時であるからこそ、私たちは、この希望の神に支えられ、和解の福音を携え、希望と喜びと平和をもって、兄弟姉妹にそして隣人の一人一人と出会っていきたいと祈り、願うのである。