2023.1.15 の週報掲載の説教
<2022年11月20日の説教から>
『満ちあふれる恵み』
ローマの信徒への手紙5章12節~21節
牧 師 鈴木美津子
「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました(20)」。律法が入り込んで来たことにより、私たちの罪は増し加わった。しかし、パウロは、罪が増したところに、恵みはなおいっそう満ちあふれると言う。なぜなら、神の恵みは、罪人である私たちを主イエスにあって無償で義とするという満ちあふれる恵みだからである。
もし、自分で神の掟を守ることによって、神の御前に正しい者となることができると考えるならば、主イエスにおいて注がれている神の恵みは分からない。律法は救いの手段として与えられたと考えるならば、神の恵みは無意味なものとなってしまうからである。しかし、パウロが語るように、律法が入り込んで来たのは罪が増し加わるためであり、自分が律法を守ることのできない罪人であることが分かるならば、満ちあふれる神の恵みによって救われるのだ。徴税人や罪人と呼ばれていた人たちは、自分が罪人であることを真に知っていたゆえに、主イエスにおいて注がれている溢れるほどの恵みをいただくことができたのである。
主イエスを信じる者たちは、アダムではなく、キリストに結ばれた者たちである。私たちはキリストによって、罪の支配ではなく、恵みの支配に生きる者とされている。罪は死によって私たちを支配していたが、恵みは義によって私たちを支配している。神はアダムにあって罪と死の支配に生きていた私たちを、イエス・キリストにあって、恵みと義の支配に生きる者としてくださった。私たちは私たちの主イエス・キリストによって神との永遠の交わり、永遠の命に生かされているのである。そして、この永遠の命は主イエス・キリストが再び来られる日に完全なものとして与えられるのである。
2023.1.8 主日礼拝の録画映像
2023.1.8 主日礼拝の録画映像
主 日 礼 拝 2023.1.8 午前 10:30スマホおよびPADでも視聴できます!

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週 報 78巻 2号 2023.1.8
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
(ローマの信徒への手紙6章4節)
主 日 礼 拝 午前 10:30
< 聖 餐 式 >
奏楽 板 垣 玲 子
<神の招き>
招 詞 イザヤ書42章1節a
見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ
彼は国々の裁きを導き出す。
*讃 詠 (21)28*罪の告白と赦し 交読詩編51編12節~21節
*讃美歌 (21)18(1-2)
<神の言葉>
聖 書 詩編98編1節~9節 (旧約P.935)
1【賛歌。】
新しい歌を主に向かって歌え。
主は驚くべき御業を成し遂げられた。
右の御手、聖なる御腕によって
主は救いの御業を果たされた。
2 主は救いを示し
恵みの御業を諸国の民の目に現し
3 イスラエルの家に対する
慈しみとまことを御心に留められた。
地の果てまですべての人は
わたしたちの神の救いの御業を見た。
4 全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。
5 琴に合わせてほめ歌え
琴に合わせ、楽の音に合わせて。
6 ラッパを吹き、角笛を響かせて
王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。
7 とどろけ、海とそこに満ちるもの
世界とそこに住むものよ。
8 潮よ、手を打ち鳴らし
山々よ、共に喜び歌え
9 主を迎えて。
主は来られる、地を裁くために。
主は世界を正しく裁き
諸国の民を公平に裁かれる。
ローマの信徒への手紙6章1節~11節(新約P.280)
1 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。
2 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
6 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
7 死んだ者は、罪から解放されています。
8 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
9 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
10 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
祈 り
*讃美歌 (21)532(1-2) 説 教 「洗礼の恵み」 鈴木 美津子
<神への応答>
*讃美歌 (21)536(1-2)
*日本キリスト教会 信仰の告白
わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリストは、真の神であり真の人です。
主は、神の永遠の計画にしたがい、人となって、人類の罪のため十字架にかかり、完全な犠牲をささげて、あがないをなしとげ、復活して永遠のいのちの保証を与え、救いの完成される日までわたしたちのためにとりなしてくださいます。
神に選ばれてこの救いの御業を信じる人はみな、キリストにあって義と認められ功績なしに罪をゆるされ、神の子とされます。
また、父と子とともにあがめられ礼拝される聖霊は、信じる人を聖化し、御心を行わせてくださいます。
この三位一体なる神の恵みによらなければ、人は罪のうちに死んでいて、神の国に入ることはできません。
旧・新約聖書は神の言であり、そのなかで語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕かに示し、信仰と生活との誤りのない審判者です。
教会はキリストのからだ、神に召された世々の聖徒の交わりであって、主の委託により正しく御言を宣べ伝え、聖礼典を行い、信徒を訓練し、終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます。
古代の教会は、聖書によって次のように信仰を告白しました。わたしたちもまた使徒的信仰の伝統にしたがい、讃美と感謝とをもってこれを共に告白します。
わたしは、天地の造り主、全能の父なる神を信じます。わたしは、そのひとり子わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、処女(おとめ)マリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます。
そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審(さば)かれます。わたしは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。 アーメン
聖餐式 (21)81
公 告
*献金感謝
*主の祈り(座席前そなえつけ)
天にまします我らの父よ、願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
御心の天に成る如く、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪を犯す者を、我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ。
国と力と栄えとは、限りなく、汝のものなればなり。
アーメン
*頌 栄 (21)26
*派遣と祝福
*後 奏
☆讃美歌の歌う節は( )内に示した節です。
*******************************************************
今こそ私たちの祈りを結集させ、
主により頼みつつこの難局を乗り切りましょう。
主の守りと支えとが、これまで同様、今も、永遠に *******************************************************
2023.1.8 の週報掲載の説教
2023.1.8 の週報掲載の説教
<2022年11月6日の説教から>
『一人の従順によって』
ローマの信徒への手紙5章18-19節 牧師 鈴木美津子
パウロは、これまでのところで、アダムとキリストとの相違点を語ったうえで、なぜアダムが来るべき方を前もって表す者(キリストのひな型)であるのか、その類似点を指摘する。
アダムとキリストの類似点は、二点挙げられている。一点目は、一つの行為を行なったことにある。それは相反する行為である。アダムは、善悪の知識の木から、実を食べるという行為を行なった。それによって、すべての人が罪に定められることになった。キリストの場合は、十字架の上で、血を流されて、死なれた。この一つの義の行為によって、キリストを信じるすべての人にいのちを与えることがおできになった。
二点目の類似点は、影響を受けた人についてである。アダムの神への不従順によって、すべての人が罪人とされた。同じように、キリストの父なる神への従順によって、キリストを信じる者は、すべて罪人のままでいることはない。キリストは、ただ一度、死なれたわけであるが、それは、「キリストを信じるすべての人に及ぶ」ことになるのである。
18節に「すべての人が義とされて」とあるが、これは未来形になっている。義と認められる、あるいは、正しいと宣言されることは、もうすでに起こったことではあるが、実際に義人となるのは、イエス・キリストが再び来られるときを待たなければならない、ということである。キリストの再臨のときに、私たちのからだは変えられて、キリストに似た者とされるのである。
人がアダムであった時、要するに、人間の本性に従って生きている時、そこは罪が支配する死の世界であった。神に背いているという人の在り方が、多くの個々の罪を派生したからである。しかし、キリストにあっては、恵み(カリス)が支配する。人は、神に従順に従ったキリストの贖いの業によって、「罪の世界」から「恵みの世界」に移さるのである。
<2022年11月6日の説教から>
『一人の従順によって』
ローマの信徒への手紙5章18-19節 牧師 鈴木美津子
パウロは、これまでのところで、アダムとキリストとの相違点を語ったうえで、なぜアダムが来るべき方を前もって表す者(キリストのひな型)であるのか、その類似点を指摘する。
アダムとキリストの類似点は、二点挙げられている。一点目は、一つの行為を行なったことにある。それは相反する行為である。アダムは、善悪の知識の木から、実を食べるという行為を行なった。それによって、すべての人が罪に定められることになった。キリストの場合は、十字架の上で、血を流されて、死なれた。この一つの義の行為によって、キリストを信じるすべての人にいのちを与えることがおできになった。
二点目の類似点は、影響を受けた人についてである。アダムの神への不従順によって、すべての人が罪人とされた。同じように、キリストの父なる神への従順によって、キリストを信じる者は、すべて罪人のままでいることはない。キリストは、ただ一度、死なれたわけであるが、それは、「キリストを信じるすべての人に及ぶ」ことになるのである。
18節に「すべての人が義とされて」とあるが、これは未来形になっている。義と認められる、あるいは、正しいと宣言されることは、もうすでに起こったことではあるが、実際に義人となるのは、イエス・キリストが再び来られるときを待たなければならない、ということである。キリストの再臨のときに、私たちのからだは変えられて、キリストに似た者とされるのである。
人がアダムであった時、要するに、人間の本性に従って生きている時、そこは罪が支配する死の世界であった。神に背いているという人の在り方が、多くの個々の罪を派生したからである。しかし、キリストにあっては、恵み(カリス)が支配する。人は、神に従順に従ったキリストの贖いの業によって、「罪の世界」から「恵みの世界」に移さるのである。
Happy New Year ! 2023.1.1 の週報掲載の説教
Happy New Year 2023.1.1 の週報掲載の説教
<2022年10月30日の説教から>
『アダムとキリスト』
ローマの信徒への手紙5章16節~17節 牧 師 鈴木 美津子
「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです(17)」。
聖書でいう「死」とは、命の源である神との交わりを失っている状態のことである。創世記の3章には、善悪の知識の木の実を食べて罪を犯したアダムと女が、神との親しい交わりを失って、エデンの園から追放されたことが記されている。こうして、人は霊的に死んだのである。この神との親しい交わりを失うという霊的な死は、アダムだけではなく、アダムのすべての子孫にも及ぶことになった。人間の目からすれば、生きていても、神の目からすれば、死んでいるということである。
しかし、その私たちに神は、主イエス・キリストを信じる信仰を与えてくださり、主イエス・キリストにあって生きる者、神との親しい交わりに生きる者としてくださった。それは、アダムがエデンの園においてもっていた神との交わり以上に、親しい交わりである。私たちは、御子イエス・キリストの霊を与えられ、神を「アッバ、父よ」と呼ぶ、父と子との最も親しい交わりに生かされているからである。だから、「キリストの恵みの賜物は、アダムによってもたらされたものとは比較できないほど豊かである」というパウロの言葉に、アーメン、と答えることができるのである。
かつて、エデンの園において罪を犯したアダムと女は、神を畏れて園の木の間に身を隠した。けれども、今、私たちは主イエス・キリストにあって、大胆に神の恵みの座に近づくことができるのである。主イエスにあってすべての罪を赦されて、神との親しい交わりに、あずかることができるその場所はどこであるのか。
それは、週ごとに招かれる礼拝である。私たちは、礼拝においてこそ、自分たちが神の恵みと義の賜物とを豊かに受けていることを知ることができる。また、礼拝においてこそ、私たちは一人の主イエス・キリストを通して生かされ支配する者とされていることを知ることができるのである。
<2022年10月30日の説教から>
『アダムとキリスト』
ローマの信徒への手紙5章16節~17節 牧 師 鈴木 美津子
「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです(17)」。
聖書でいう「死」とは、命の源である神との交わりを失っている状態のことである。創世記の3章には、善悪の知識の木の実を食べて罪を犯したアダムと女が、神との親しい交わりを失って、エデンの園から追放されたことが記されている。こうして、人は霊的に死んだのである。この神との親しい交わりを失うという霊的な死は、アダムだけではなく、アダムのすべての子孫にも及ぶことになった。人間の目からすれば、生きていても、神の目からすれば、死んでいるということである。
しかし、その私たちに神は、主イエス・キリストを信じる信仰を与えてくださり、主イエス・キリストにあって生きる者、神との親しい交わりに生きる者としてくださった。それは、アダムがエデンの園においてもっていた神との交わり以上に、親しい交わりである。私たちは、御子イエス・キリストの霊を与えられ、神を「アッバ、父よ」と呼ぶ、父と子との最も親しい交わりに生かされているからである。だから、「キリストの恵みの賜物は、アダムによってもたらされたものとは比較できないほど豊かである」というパウロの言葉に、アーメン、と答えることができるのである。
かつて、エデンの園において罪を犯したアダムと女は、神を畏れて園の木の間に身を隠した。けれども、今、私たちは主イエス・キリストにあって、大胆に神の恵みの座に近づくことができるのである。主イエスにあってすべての罪を赦されて、神との親しい交わりに、あずかることができるその場所はどこであるのか。
それは、週ごとに招かれる礼拝である。私たちは、礼拝においてこそ、自分たちが神の恵みと義の賜物とを豊かに受けていることを知ることができる。また、礼拝においてこそ、私たちは一人の主イエス・キリストを通して生かされ支配する者とされていることを知ることができるのである。
2022.12.11 の週報掲載の説教
2022.12.11 の週報掲載の説教
<2022年10月23日説教要約>
『恵みの賜物』
ローマの信徒への手紙5章12節~15節 牧 師 鈴木美津子
「恵みの賜物」とは、主イエスにあって神の御前に正しい者とされ命を得る者のことである。恵みの賜物とは義の転嫁のことだからである。主イエスの「義」が私たちに与えられているので、私たちは神の御前で義しい者と見做されるのである。それゆえに神は、主イエスを信じる者を正しいと認め、命を与えてくださる。
しかし、アダムの違反は賜物のようなものではない。アダムは罪と死をもたらしたが、主イエスの正しい行為によってもたらされた恵みの賜物は、それとは比較にならないからである。アダムは「恵み」がどんなに「罪」よりも豊かで素晴らしいものなのかを強調しているのである。それほどに、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物は多くの人に豊かに注がれるのである。
ユダヤ人もギリシア人も、日本人も世界中のすべての人がアダムの子孫であり、契約の代表者であるアダムの罪責と腐敗を持って生まれてくる。そのような私たちを義とし、聖なる者とするために、神は、新しい契約の代表者として、御子イエス・キリストを遣わされた。このイエス・キリストこそ、私たちを救うために終わりの時代に表れてくださった人間(アダム)である。これが初めの人アダムが来るべき方を前もって表す者であったと言われる所以である。
神は、私たちに、このイエス・キリストを信じる信仰を与え、私たちのすべての罪を赦し、私たちを聖なる者とするために御言葉と聖霊によって造りかえてくださるのである。そうであるから、私たちはもはや死の支配のもとにはいない。イエス・キリストを信じている私たちの死は、もはや罪の刑罰としての死ではない。なぜなら、私たちの主イエス・キリストが十字架上で死に、三日目にその死から復活され、死に勝利されたゆえである。もはやキリスト者にとって、死は罪の刑罰ではなく、罪からの完全な解放という全く違った意味を持つようになったのである。私たちは死を通して、神との完全な交わり、永遠の命にあずかる者となり、主イエスを信じる私たちのうえには、神の恵みの賜物が豊かに注がれるのである。
<2022年10月23日説教要約>
『恵みの賜物』
ローマの信徒への手紙5章12節~15節 牧 師 鈴木美津子
「恵みの賜物」とは、主イエスにあって神の御前に正しい者とされ命を得る者のことである。恵みの賜物とは義の転嫁のことだからである。主イエスの「義」が私たちに与えられているので、私たちは神の御前で義しい者と見做されるのである。それゆえに神は、主イエスを信じる者を正しいと認め、命を与えてくださる。
しかし、アダムの違反は賜物のようなものではない。アダムは罪と死をもたらしたが、主イエスの正しい行為によってもたらされた恵みの賜物は、それとは比較にならないからである。アダムは「恵み」がどんなに「罪」よりも豊かで素晴らしいものなのかを強調しているのである。それほどに、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物は多くの人に豊かに注がれるのである。
ユダヤ人もギリシア人も、日本人も世界中のすべての人がアダムの子孫であり、契約の代表者であるアダムの罪責と腐敗を持って生まれてくる。そのような私たちを義とし、聖なる者とするために、神は、新しい契約の代表者として、御子イエス・キリストを遣わされた。このイエス・キリストこそ、私たちを救うために終わりの時代に表れてくださった人間(アダム)である。これが初めの人アダムが来るべき方を前もって表す者であったと言われる所以である。
神は、私たちに、このイエス・キリストを信じる信仰を与え、私たちのすべての罪を赦し、私たちを聖なる者とするために御言葉と聖霊によって造りかえてくださるのである。そうであるから、私たちはもはや死の支配のもとにはいない。イエス・キリストを信じている私たちの死は、もはや罪の刑罰としての死ではない。なぜなら、私たちの主イエス・キリストが十字架上で死に、三日目にその死から復活され、死に勝利されたゆえである。もはやキリスト者にとって、死は罪の刑罰ではなく、罪からの完全な解放という全く違った意味を持つようになったのである。私たちは死を通して、神との完全な交わり、永遠の命にあずかる者となり、主イエスを信じる私たちのうえには、神の恵みの賜物が豊かに注がれるのである。
2022.12.4 の週報掲載の説教
2022.12.4 の週報掲載の説教
<2022年10月16日日の説教から>
『一人の人アダムの罪と死』
ローマの信徒への手紙5章12節~14節
牧 師 鈴木 美津子
人類の罪の起源は、はじめの人アダムにある。彼は、神が「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない(創2:17)」と、命じた掟に背き、禁じられていた木の実を食べてしまったことによって、罪と死に支配される者となった。
しかし、その罪と死の支配は、アダムだけにとどまらず、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者をも支配した。なぜなら、はじめの人アダムは、全人類の代表者として罪を犯したので、それ以降の人類は、生まれながらにアダムの罪を転嫁され、アダムと共に罪と死に支配される者となったのである。なぜなら、全人類はアダムと一つであり、アダムと共に罪を犯したと見做されるゆえである。アダムの罪は彼が代表した者たちすべてに転嫁され、それゆえにその罪の罰もまた死も全人類のものとなったのである。
ところが、パウロは、「実に、アダムは来たるべき方を前もって表す者(14)」であると、記す。彼は、これまで、イエス・キリストを信じる信仰によって、人は神の御前に義とされることを語ってきた。自分で律法を守ることによってではなくて、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ人は義とされる、と語ってきた。これは考え方によっては甚だ虫の良い話である。罪のない御方であり、何一つ罪を犯さなかったイエス・キリストが、神の御前に義とされるのはもっともであるが、そのイエス・キリストをただ信じるだけで私たちまでもが義とされるとは一体どういうことなのか。
しかし、パウロは、アダムとあなたたちとの関係を考えてみよと言う。あなたたちは、アダムの違反と同じような罪を犯したわけではない。しかし、あなたたちのうえに厳然たる事実として死は支配しているではないか。そうであれば、来たるべき方であるイエス・キリストの場合も同じである。人類の代表者であるアダムによって、私たちが罪と死の支配に置かれていたように、今や私たちは、人類の代表者としてのイエス・キリストによって、義と生命の支配に生かされているのである、とパウロは語るのである。
<2022年10月16日日の説教から>
『一人の人アダムの罪と死』
ローマの信徒への手紙5章12節~14節
牧 師 鈴木 美津子
人類の罪の起源は、はじめの人アダムにある。彼は、神が「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない(創2:17)」と、命じた掟に背き、禁じられていた木の実を食べてしまったことによって、罪と死に支配される者となった。
しかし、その罪と死の支配は、アダムだけにとどまらず、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者をも支配した。なぜなら、はじめの人アダムは、全人類の代表者として罪を犯したので、それ以降の人類は、生まれながらにアダムの罪を転嫁され、アダムと共に罪と死に支配される者となったのである。なぜなら、全人類はアダムと一つであり、アダムと共に罪を犯したと見做されるゆえである。アダムの罪は彼が代表した者たちすべてに転嫁され、それゆえにその罪の罰もまた死も全人類のものとなったのである。
ところが、パウロは、「実に、アダムは来たるべき方を前もって表す者(14)」であると、記す。彼は、これまで、イエス・キリストを信じる信仰によって、人は神の御前に義とされることを語ってきた。自分で律法を守ることによってではなくて、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ人は義とされる、と語ってきた。これは考え方によっては甚だ虫の良い話である。罪のない御方であり、何一つ罪を犯さなかったイエス・キリストが、神の御前に義とされるのはもっともであるが、そのイエス・キリストをただ信じるだけで私たちまでもが義とされるとは一体どういうことなのか。
しかし、パウロは、アダムとあなたたちとの関係を考えてみよと言う。あなたたちは、アダムの違反と同じような罪を犯したわけではない。しかし、あなたたちのうえに厳然たる事実として死は支配しているではないか。そうであれば、来たるべき方であるイエス・キリストの場合も同じである。人類の代表者であるアダムによって、私たちが罪と死の支配に置かれていたように、今や私たちは、人類の代表者としてのイエス・キリストによって、義と生命の支配に生かされているのである、とパウロは語るのである。
