2023.5.14 主日礼拝の録画映像

2023.5.14 主日礼拝の案内

 
主 日 礼 拝   2023.5.14 午前 10:30
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2023.5.14 主日礼拝の案内
週 報 78巻 20号 2023.5.14
神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。(ローマの信徒への手紙9章24節)

 
主 日 礼 拝   午前 10:30
奏楽  三 輪 志 都

 
<神の招き>
 
招 詞   ヨエル書3章1節
その後
わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。
あなたたちの息子や娘は預言し
老人は夢を見、若者は幻を見る。
*讃 詠   (21)28

み栄えあれや、父と子と聖霊に、
はじめも今も とわにかわらず、
み神に アーメン、アーメン。


*罪の告白と赦し 交読詩編51編12節~21節
12  神よ、わたしの内に清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください。
13  御前からわたしを退けず
あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
14  御救いの喜びを再びわたしに味わわせ
自由の霊によって支えてください。
15  わたしはあなたの道を教えます
あなたに背いている者に
罪人が御もとに立ち帰るように。
16  神よ、わたしの救いの神よ
流血の災いからわたしを救い出してください。
恵みの御業をこの舌は喜び歌います。
17  主よ、わたしの唇を開いてください
この口はあなたの賛美を歌います。
18  もしいけにえがあなたに喜ばれ
焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら
わたしはそれをささげます。
19  しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
打ち砕かれ悔いる心を
神よ、あなたは侮られません。
20  御旨のままにシオンを恵み
エルサレムの城壁を築いてください。
21  そのときには、正しいいけにえも
焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれ
そのときには、あなたの祭壇に
雄牛がささげられるでしょう。
 
*讃美歌   (21)527(1,3,4)
1 み神のみわざは すべて正しい。
  み心のままに 従いゆこう。
  主こそはわが神、悩みのときの
  私の助け。
3 み神のみわざは すべて正しい。
  飲むべき杯 苦いとしても
  ためらうことなく 主より受ければ
  よろこびとなる。
4 み神のみわざは すべて正しい。
  悲しみと死との あらし吹いても
  主は父のように、み腕に抱いて
  私を守る。
<神の言葉>
 
聖 書   イザヤ書45章9節〜13節  (旧約P.1135)
災いだ、土の器のかけらにすぎないのに
自分の造り主と争う者は。
粘土が陶工に言うだろうか
「何をしているのか
あなたの作ったものに取っ手がない」などと。
10  災いだ、なぜ子供をもうけるのか、と父親に言い
なぜ産みの苦しみをするのか、と女に問う者は。
11  イスラエルの聖なる神、その造り主
主はこう言われる。
あなたたちはしるしを求めるのか。
わたしの子ら、わたしの手の業について
わたしに命ずるのか。
12  大地を造り、その上に人間を創造したのはわたし。
自分の手で天を広げ
その万象を指揮するもの。
13  わたしは正義によって彼を奮い立たせ
その行く道をすべてまっすぐにする。
彼はわたしの都を再建し
わたしの捕らわれ人を釈放し
報酬も賄賂も求めない。
万軍の主はこう言われた。
 
ローマの信徒への手紙9章19節~29節(新約P.287)
19  ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。 
20  人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。 
21  焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。 
22  神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、 
23  それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。 
24  神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。 
25  ホセアの書にも、次のように述べられています。
「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、
愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
26『あなたたちは、わたしの民ではない』
と言われたその場所で、
彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」
27  また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。 
28  主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」 
29  それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。
「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、
わたしたちはソドムのようになり、
ゴモラのようにされたであろう。」
 
祈 り                 安 井 国 雄

 
*讃美歌   (21)361(1―3)
1 この世はみな 神の世界、
  あめつちすべてが 歌い交わす。
  岩も木々も 空も海も
  み神のみわざを ほめたたえる。
2 この世はみな 神の世界、
  鳥の音、花の香 主をたたえる。
  朝日、夕日 空に映えて
  み神のみわざを 語り告げる。
3 この世はみな 神の世界、
  悪魔の力が 世に満ちても、
  わが心に 迷いはなし。
  主こそがこの世を治められる。
 
説  教   「神の憐れみの器」    鈴木 美津子
 
<神への応答>
*讃美歌   (21)455(1,4,6)
1 神は私の 強い味方。
  誰が私に 逆らい得よう。
  すべてのものは はむかうとも
  せつに祈れば 逃げしりぞく。
4 聖なる霊は 私のため
  深いうめきで とりなされる。
  その霊により 神を「父」と
  呼ぶ私こそ 神の子ども。
6 よろこびに満ち 心おどり、
  歌声高く み名をほめよう。
  主こそ私を 照らす光、
  私の歌の 尽きぬ泉。
*使徒信条
わたしは、天地の造り主、全能の父なる神を信じます。

わたしは、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。

主は聖霊によってやどり、処女マリヤから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで

苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだり、三日目に

死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます。

そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます。

わたしは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、

からだの復活、永遠のいのちを信じます。  アーメン。

 
公 告
 
*献金感謝

 
*主の祈り(座席前そなえつけ)
天にまします我らの父よ、
 
願わくは御名をあがめさせたまえ
 
御国を来たらせたまえ。
 
御心の天に成る如く、地にもなさせたまえ。
 
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
 
我らに罪を犯す者を、我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ。
 
我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ。
 
国と力と栄えとは、限りなく、汝のものなればなり。
 
アーメン
*頌 栄  (21)26
グローリア、グローリア、グローリア、ちちとみ子に、
グローリア、グローリア、グローリア、せいなる霊に。
 
*派遣と祝福

 
*後 奏

 
☆讃美歌の歌う節は( )内に示した節です。

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今こそ私たちの祈りを結集させ、

主により頼みつつこの難局を乗り切りましょう。

主の守りと支えとが、これまで同様、今も、永遠に *******************************************************

2023.5.14 の週報掲載の説教

2023.5.14 の週報掲載の説教

<2023年3月26日の説教から>

『聖霊のとりなし』

ローマの信徒への手紙8章18~30節

牧 師 鈴木美津子

 
人の心を見抜く方は、の思いが何であるかを知っておられます。は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです(27)

「霊の思い」とは、私たちのために執り成し、私たちと神との関係を良いものとするために労苦して下さる思いのこと。神はこの霊の思いを通して私たちを見つめて下さる。

神は、その霊の思いが何であるかを知っておられる。そして、その霊は、神の御心に従って、聖なる者である私たちのために執り成しの祈りをささげてくださる。「執り成しの祈り」とは、「その人のために、その人に代わって祈る祈りのこと」である。私たちがどう祈るべきか分からないときも、私たちの心に宿る聖霊は、神の御心に従って、私たちのために執り成しの祈りをささげてくださるのである。聖霊は、私たちと一緒に祈ってくださるだけでなく、私たちに代わって御自ら祈られる。この聖霊の執り成しは、私たちの心の中で行われる、言葉にならないうめきであるので、私たちにはどのような内容なのかは分からない。しかし、神は聖霊の思いが何であるかを知っておられる。

神は聖霊の執り成しを確実に聞かれ、応えてくださる。神が自らの霊である聖霊のうめきを聞き漏らすはずはなく、また聞いて放っておくなどということもあり得ない。私たちは、この聖霊による執り成しの業に信頼して、委ねれば良い。

神が具体的にどのような道を開いてくださるのかは、私たちには分からない。ただ、はっきりしているのは、神は私たちを救いの完成へと確実に導き続けてくださるということ。だから「万事が益となるように働く」ということになるのである。私たちが救いの完成へと歩み続け、やがてキリストに似た者に変えられる、そのために万事が益となるように働く。それが神の摂理であり、私たちが神に選ばれているということである。

「万事が益となるように働く」という言葉の前に「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、」とある。「万事が益となるように働く」のは、「私たちが熱心に祈れば」でもなく、「私たちの信仰が熱心であれば」でもなく、神が御計画に従って私たちを選んでくださり、神を愛する者へと召してくださったゆえである。

2023.5.7 の週報掲載の説教

2023.5.7 の週報掲載の説教
<2023年3月19日の説教から>

『目に見えないものを待ち望む』

ローマの信徒への手紙8章18-25節

牧 師 鈴木美津子

 
私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶ聖霊を与えられて、神の子とされているが、完全に神の子とされているわけではない。と言うのも、私たちの内には、未だ肉の思いがあり、聖霊の導きに完全に従ってはいないからである。それゆえ、私たちは体が贖われること、キリストと同じ霊の体に変えられることを、心の中で呻きながら待ち望んでいるのである。「霊の体」とは、コリント一の15章で、パウロが用いている言葉で、聖霊の導きに完全に従うことができる体という意味である。キリストを信じる私たちは、キリストが栄光の主として再び来られる日に、霊の体に復活させられる。それは聖霊に完全に支配されている体である。そして、そのときこそ、私たちは神の御心に完全に従う神の子とされる。

今は、私たちには肉の思いがあるので、聖霊に完全に従うことはできない。その肉との戦いは、まさに、私たちの心に神の子とされること、体が贖われることを待ち望むうめきを生じさせる。しかし、それこそが、私たちを救う希望である。この希望は、信仰と一体的な関係にある。なぜなら、信仰とは、望んでいることがらを確信し、見えない事実を確認することであるからだ。私たちは、イエス・キリストが栄光の主として来られる日に、イエス・キリストと同じ姿で復活させられる。そのとき、私たちは神の御心に完全に適う神の子とされる。このことは、パウロが語るように、目に見えない希望である。やがて、イエス・キリストが再び来られる日に、私たちの体が贖われ、神の子とされる。そして、義の宿る新しい天と新しい地を受け継ぐことになる。そこには、もはや、呪われるものは何一つない。それは、まさしく誰も見たことのない世界である。しかし、その目に見えないものを、私たちは信仰によって待ち望んでいる。だから、天の国を受け継ぐ保証である霊の初穂をいただいている者として、忍耐して待ち望むのである。

2023.4.30 の週報掲載の説教

2023.4.30 の週報掲載の説教
<2023年3月12日の説教から>
『私たちを神の子とする霊』
ローマの信徒への手紙8章12~17節
                  牧 師 鈴木美津子
 
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び畏れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。(14-15)

 
パウロは、ここでは神の霊を、「神の子とする霊」と言う。「神の子とする霊」とは「神の養子とする霊」である。神の御子、独り子はイエス・キリストである。そのイエス・キリストを信じて、洗礼を受けた私たちは、聖霊を与えられて神の養子、神の子とされたのである。パウロが、「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と語るとき、そこでは、「この霊」が「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊であることを教えている。パウロは、ガラテヤ書に「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります(4:6)」と記している。「アッバ」とはユダヤ人の日常語であるアラム語で、幼い子どもが父親に呼びかけるときに使う言葉で「おとうちゃん」とか「パパ」と訳せる言葉である。ユダヤ人たちは、そのような言葉を神に対して用いることはなかった。しかし、主イエスは、「アッバ、父よ」と神に親しく呼びかけ、祈られた。真に神の子であるからだ。パウロは聖霊を、キリストの霊とも言うが、私たちは御子キリストの霊を与えられて、「アッバ、父よ」と呼ぶ者たちとされたのである。「呼ぶ」という言葉は、「叫ぶ」とも訳せる。主イエスは、ゲツセマネにおいて、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように(マルコ14:36)」と叫ぶように祈られた。御子の霊を受けた私たちは、口先だけで「アッバ、父よ」と呼ぶのではなく、心の底から、「アッバ、父よ」と叫ぶ、信頼する心を与えられたのである。神を「アッバ、父よ」と呼び、信頼する心をもって、私たちは祈る者とされた。父と子との交わり、それは最も親密な交わりである。私たちは神の独り子である主イエスの聖霊を受けて、神と最も親しい父と子との交わりに生きる者とされたのである。

2023.4.23 の週報掲載の説教

2023.4.23 の週報掲載の説教
<2023年3月5日の説教から>

『死ぬはずの体をも生かしてくださる神』

ローマの信徒への手紙8章5節~11節

 
牧 師 鈴木美津子

もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。(11)」

私たちの内に宿っている神の霊は、主イエスを死者の中から復活させられた神の霊でもある。そうであれば、「神は、あなたがたの内に宿る霊によって、あなたがたをも復活させてくださる」とパウロは言う。彼はコリントの信徒への手紙一の15章でキリストの復活についての詳細を記しているが、そこで主イエスの復活は、私たちの初穂であったと記している(一コリント15:20)。初穂はその畑の収穫を保証するものである。だから、主イエスを信じる者は、主イエスと同じように、朽ちることのない、栄光の体で復活する。しかし、それは主イエスと同じ死から3日目ではなく、キリストが栄光の主として天から来られる日に、復活させられる。ではなぜ私たちは主イエスと同じように復活すると言えるのか?それは、私たちの内に宿っている聖霊が、主イエスを復活させられた神の霊であるからだ。

ここでパウロが語っていることは目に見えない信仰の世界のことである。主イエスが「世は、この霊を見ようとも受け入れようともしないので、受け入れることができません」(ヨハネ14:17)、と言われたように肉の支配下にある者にとっては、ここでパウロが語ることは、戯れ言のように思えるだろう。しかし、目に見えないものを信じることが信仰である。目に見えるものだけで世界は成り立っているのではない。目に見えない世界を信じること、それが現代に生きる私たちにも必要なことである。そして、そのような目に見えない世界、霊に属することを考えることができるのは、聖霊なる神が、私たちの心に宿っておられるからである。

パウロは、7章24節で、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と語ったが、その嘆きの答えが、8章11節で語られている。キリストを復活させた神が、その霊によって、私たちの死ぬはずの体をも生かしてくださる。私たちもいずれは死んで、この地上の生涯を終ることになる。しかし、神はその私たちを世の終わりに、主イエスと同じ栄光の体で復活させてくださるのである。

2023.4.9 の週報掲載の説教

2023.4.9 の週報掲載の説教
<2023年2月26日の説教から>
   『キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則』
ローマの信徒への手紙8章1節~11節(1~4節)

牧 師 鈴木美津子

それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。(4)」

律法の目的は、「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」である。言い換えると、「律法の要求を満たし、神と共に歩むこと」である。しかし、私たちは罪によって、この神との関係を破壊してしまい、律法の要求を満たすことはできなくなった。それでも、律法が破棄されることはなく、むしろ、神は、まるで私たちが律法の要求を満たしたかのように救いの御業を行ってくださった。「わたしたちの内に、律法の要求が満たされるため」、とはそういうことである。律法は、神と私たちとの関係の絆であった。それは契約とも言う。だから聖書は、律法を古い契約とも言い換える。つまり、もし律法が破棄されたら、私たちと神との関係はそこで終了する。なぜなら、神からの一方的な恩恵によって契約を与えられた側である私たちが律法を破棄したからである。神は、ご自身がせっかく与えた律法を踏みにじった上に、その聖い掟を無視し、罪と死の法則という違う掟に従う人間を見捨てて、律法を破棄されることが当然であった。しかし、そうはなさらなかった。なぜなのか。それは、それほどまでに、私たちを愛してくださっているからである。なぜ、そこまで愛してくださるのかは、私たちにはわからない。しかし、この神の愛が、律法という古い契約を新しい契約に変えてまでも私たちの救いを実現してくださったのである。神が一方的に与えてくださった契約を、一方的に破り捨てた私たち。その私たちに神は、御子イエス・キリストという新しい契約を与えられた。それも古い契約の内容を変えることなく、その契約の要求をすべてイエス・キリストに委ねられたのである。私たちは無力で、救われるために有効となることなど何一つできない者である。しかし、この契約の全てを十字架によって、イエス・キリストが実行してくださったので、イエス・キリストに結ばれているゆえに、私たちも契約によって命を得ることが赦されるのである。

この新しい契約は、この十字架の法則によってのみ成立する。