2022.11.13 の週報掲載の説教
<2022年10月2日の説教から>
『苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を』
ローマの信徒への手紙5章1節~5節 牧 師 鈴木美津子
「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを(3-4)」。ここには、キリスト教の特色が色濃く表現されていて、苦難に対する積極的な関りが示されている。特に、今の時代においては、この世は苦難を極度に嫌い、消極的に対応する傾向がある。しかし、そうした場合、苦難は苦難で終わってしまう。苦難から、逃げても、つぶやいても、苦難は苦難のままだからである。
ところが、キリスト者にとっての、苦難は苦難のままではない。苦難は、忍耐を生み、練達を生み、希望を生み出す、というように変化しながら進展するからだ。キリスト者の苦難から始まるゴールは希望だからである。
ところで、私たちは、このキリスト者の希望に対して「真にその通り」と、言えるだろうか。「理想論やきれいごと」と、感じてしまうことはないだろうか。実際、普段私たちが抱きやすい感情とこの希望とは大きくかけ離れているからだ。
しかし、そうではない。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているから(5)」である。
「注がれている」とは、「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である(マタイ26:28)」の「流される」と同じ言葉である。まさにキリストの十字架の血の述語である。「神の愛がわたしたちの心に注がれている」とは、私たちの罪のために豊かに溢れて流されたキリストの十字架の血が、今も同じ聖霊の愛によって私たちに注がれている、ということである。
「希望はわたしたちを欺くことがない」、それは御子イエス・キリストが十字架で死なれた歴史的事実ゆえである。この希望は、どんなに私たちの感情とかけ離れていても、キリストの十字架の愛のゆえに、失望に終わることがない。このキリストの十字架を超える恩恵はどこにもない。キリストが十字架で死なれた以上、私たちに与えられないものは何もない。だから、私たちは、「希望は欺くことがない」と、苦難の多いこの世にあって、御国に向かって前進することができるのである。
2022.11.6 の週報掲載の説教
2022.11.6 の週報掲載の説教
<2022年9月25日の説教から>
『希望に反して望みを抱く』
ローマの信徒への手紙4章17節~25節
牧 師 鈴木美津子
「信仰の父」と崇められるアブラハムではあるが、聖書の記録によれば、約束の長子イサクが生まれる直前まで、不信仰な姿を晒している。アブラハムは、神に召命をいただいた75歳の時、エジプト人を恐れ、自分の命を守るために、不信仰にも妻であるサラをエジプトの王ファラオに差し出している。しかし、99歳になったアブラハムは、この20年前と全く同じ過ちを繰り返しているのだ。ゲラルに滞在していたとき、アブラハムは妻サラのことを、またもや「これはわたしの妹」と嘘を言ったので、ゲラルの王アビメレクはサラを召し入れたのだった。
しかし、実に、その不信仰の極みで、約束の長子イサクが与えられたのだった。アブラハムが不信仰であっても、契約違反を重ねても、神は真実で、約束を守られる方である。それを確かに御言葉は証明している。結局、この神の真実が、アブラハムに信仰を与えただけでなく、彼の信仰を確立し、導き守ったのである。つまり、パウロが「彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく」、と語る時も、アブラハムが不信仰に陥っていたこともあったということである。
しかし、不信仰の只中にあったとしても、神は真実なお方で約束を守られたのである。
確かにアブラハムは、愚直に神に従った。彼はその点においては信仰の父である。しかし、その信仰に全く疑いがなかったということではない。むしろ疑えなかったということだ。たとえ不信仰な者であっても、疑えないほどに神は真実である。そのことを聖書は証ししているのだ。つまり、「不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく(20)」と、いう言葉において、アブラハムの傷だらけの信仰生活が脈打っているのだ。2度も3度も同じ偽りと同じ罪を繰り返すアブラハムは、自分の弱さをよく知っていた。だから、神に頼るほかなかった。私たちもそうではないか。私たちもアブラハムと同様に、同じ罪ばかりを繰り返し犯す者ではないか。まさに、そこに私たちのそれぞれの弱さがあるのだ。
それでも尚、私たちの神は、悔い改めて立ち帰る時、赦してくださる。だから、私たち罪人は神に頼るほかないのだ。そうである以上、失敗の数とか、今の自分の姿であるとか、そのようなものは問題ではない。大切なことは、その惨めな自分の姿を認めて、徹底的に悔い改めることである。
<2022年9月25日の説教から>
『希望に反して望みを抱く』
ローマの信徒への手紙4章17節~25節
牧 師 鈴木美津子
「信仰の父」と崇められるアブラハムではあるが、聖書の記録によれば、約束の長子イサクが生まれる直前まで、不信仰な姿を晒している。アブラハムは、神に召命をいただいた75歳の時、エジプト人を恐れ、自分の命を守るために、不信仰にも妻であるサラをエジプトの王ファラオに差し出している。しかし、99歳になったアブラハムは、この20年前と全く同じ過ちを繰り返しているのだ。ゲラルに滞在していたとき、アブラハムは妻サラのことを、またもや「これはわたしの妹」と嘘を言ったので、ゲラルの王アビメレクはサラを召し入れたのだった。
しかし、実に、その不信仰の極みで、約束の長子イサクが与えられたのだった。アブラハムが不信仰であっても、契約違反を重ねても、神は真実で、約束を守られる方である。それを確かに御言葉は証明している。結局、この神の真実が、アブラハムに信仰を与えただけでなく、彼の信仰を確立し、導き守ったのである。つまり、パウロが「彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく」、と語る時も、アブラハムが不信仰に陥っていたこともあったということである。
しかし、不信仰の只中にあったとしても、神は真実なお方で約束を守られたのである。
確かにアブラハムは、愚直に神に従った。彼はその点においては信仰の父である。しかし、その信仰に全く疑いがなかったということではない。むしろ疑えなかったということだ。たとえ不信仰な者であっても、疑えないほどに神は真実である。そのことを聖書は証ししているのだ。つまり、「不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく(20)」と、いう言葉において、アブラハムの傷だらけの信仰生活が脈打っているのだ。2度も3度も同じ偽りと同じ罪を繰り返すアブラハムは、自分の弱さをよく知っていた。だから、神に頼るほかなかった。私たちもそうではないか。私たちもアブラハムと同様に、同じ罪ばかりを繰り返し犯す者ではないか。まさに、そこに私たちのそれぞれの弱さがあるのだ。
それでも尚、私たちの神は、悔い改めて立ち帰る時、赦してくださる。だから、私たち罪人は神に頼るほかないのだ。そうである以上、失敗の数とか、今の自分の姿であるとか、そのようなものは問題ではない。大切なことは、その惨めな自分の姿を認めて、徹底的に悔い改めることである。
2022.10.30 の週報掲載の説教
2022.10.30 の週報掲載の説教
<2022年9月18日の説教から>
『神の約束』
ローマの信徒への手紙4章13節~17節
牧 師 鈴木美津子
信仰義認とは、簡潔に言えばキリストを信じる信仰によって義と認められることで、神の法廷での無罪宣告に他ならない。しかし、それだけではない。信仰義認は、この世の論理の中に閉じ込められるような小さなものではないからだ。キリスト者には、信仰によって義と認められた以上、神の子とされ、永遠の命が約束される。それどころか神の国のあらゆる特権と富とが約束されているのである。その恵みは満ち溢れ続け、尽きることがない。
そのことが、「世界を受け継がせる」、という約束に要約されている。この「受け継がせる」、という約束は私たち人間が自分たちの意志や決意で受け継ぐ、という意味ではない。人間の意志とは無関係に下される神の決定である。だから、「世界を受け継がせることを約束された」、とは聖書的には、「世界を受け継がせることを命じられた」、ということである。神は、私たちにその素晴らしいご自身の御国を、全ての財産を、そして永遠の命を「受けよ」と命じられている。なんと、身に余る言葉、恩恵ではないか。「この私のような愚かな罪人が、どうして、そのようなものをいただけましょうか」、と額ずくのが精一杯である。しかし、その私たちに恵みの世継ぎが命じられる。「受けよ」。このことが、イエス・キリストの十字架で確かに真実であると示されたのである。神の御子イエス・キリストが十字架で死なれるほどに、罪にまみれ、汚れたこの私を愛してくださった、そうである以上、神が私たちにくださらないものは、もはや何も残っていない。ここに神の恩恵の全てがある。
ローマの信徒への手紙は、すでに3章で、その中心的真理である信仰義認の真理が示されたが、実はそこからが重要なのだ。信仰義認の真理から流れ出る恩恵と愛とが、あちらこちらに散りばめられているからである。この手紙は、まさにキリスト者である私たちへの「愛の手紙」ではないのか。その神の恩恵と愛は、今まだ序章にすぎない。これからが本編である。このことがこの手紙がルターを始め多くの人々に愛されてきた所以である。
自分の愚かさを嘆いたり、救いに不安を感じたりする時、実は私たちはまだキリストの愛をよくわかっていない。主なる神は、罪人である私たちに、救われよ、神の国を受けよ、と命じておられる。
<2022年9月18日の説教から>
『神の約束』
ローマの信徒への手紙4章13節~17節
牧 師 鈴木美津子
信仰義認とは、簡潔に言えばキリストを信じる信仰によって義と認められることで、神の法廷での無罪宣告に他ならない。しかし、それだけではない。信仰義認は、この世の論理の中に閉じ込められるような小さなものではないからだ。キリスト者には、信仰によって義と認められた以上、神の子とされ、永遠の命が約束される。それどころか神の国のあらゆる特権と富とが約束されているのである。その恵みは満ち溢れ続け、尽きることがない。
そのことが、「世界を受け継がせる」、という約束に要約されている。この「受け継がせる」、という約束は私たち人間が自分たちの意志や決意で受け継ぐ、という意味ではない。人間の意志とは無関係に下される神の決定である。だから、「世界を受け継がせることを約束された」、とは聖書的には、「世界を受け継がせることを命じられた」、ということである。神は、私たちにその素晴らしいご自身の御国を、全ての財産を、そして永遠の命を「受けよ」と命じられている。なんと、身に余る言葉、恩恵ではないか。「この私のような愚かな罪人が、どうして、そのようなものをいただけましょうか」、と額ずくのが精一杯である。しかし、その私たちに恵みの世継ぎが命じられる。「受けよ」。このことが、イエス・キリストの十字架で確かに真実であると示されたのである。神の御子イエス・キリストが十字架で死なれるほどに、罪にまみれ、汚れたこの私を愛してくださった、そうである以上、神が私たちにくださらないものは、もはや何も残っていない。ここに神の恩恵の全てがある。
ローマの信徒への手紙は、すでに3章で、その中心的真理である信仰義認の真理が示されたが、実はそこからが重要なのだ。信仰義認の真理から流れ出る恩恵と愛とが、あちらこちらに散りばめられているからである。この手紙は、まさにキリスト者である私たちへの「愛の手紙」ではないのか。その神の恩恵と愛は、今まだ序章にすぎない。これからが本編である。このことがこの手紙がルターを始め多くの人々に愛されてきた所以である。
自分の愚かさを嘆いたり、救いに不安を感じたりする時、実は私たちはまだキリストの愛をよくわかっていない。主なる神は、罪人である私たちに、救われよ、神の国を受けよ、と命じておられる。
2022.10.23 の週報掲載の説教
2022.10.23 の週報掲載の説教
<2022年9月11日の説教から>
『アブラハムと割礼』
ローマの信徒への手紙4章9節~12節
牧 師 鈴木美津子
「更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです(12)」。
ユダヤ人が信仰の父と敬い、異邦人とは縁もゆかりもないと思って疑わなかったアブラハムこそが、その原点において無割礼の異邦人であり、また異邦人が神の民にされる恩恵の先がけであった。パウロは、信仰が、割礼の民イスラエル、そして無割礼の異邦人を結び付けて、神の民を形成するのだと、言っているのである。信仰義認こそが、全世界に普くおびただしい信徒の群れとなる神の民を形成する原理であり力である、ということである。
そして、その信仰によって義と認められる、その契約のしるしが旧約の時代では割礼であったが、新約の時代には洗礼に代わったのである。
大切なことは、旧約時代の割礼であっても、新約時代の洗礼であっても、それは神の契約のしるしであり、それ自体に人を救う機能はなく、救いが保証されるというようなものではない、ということである。その源泉にある神の契約にこそ罪人の救いがある。神の契約とは、滅ぶべき罪人を救い出すために、神の一方的なへりくだりと恩恵によって与えられた救いの約束であり、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、神が与えて下さるものである。その全き幸いが、「洗礼というしるし」によって、私たちに刻みつけられる。洗礼を受けることによって私たちは、神の恵みによる罪の赦しが自分に与えられていることを確信して、その幸いの中で生きる者となるのだ。
そして、週ごとの礼拝を通して、また毎月の聖餐にあずかりつつ、アブラハムに与えられた、「行いによらずに神から義と認められた人の幸い」を、私たちの心と体に刻みつけ、生きるのである。 また、そのような者の群れとして、共に励まし合いながら、生きることである。
人間を罪から救うことのできるのは、十字架の主イエス・キリストのみである。私たちに与えられる洗礼は、この十字架のしるしであり、十字架のイエス・キリストの割礼である。
<2022年9月11日の説教から>
『アブラハムと割礼』
ローマの信徒への手紙4章9節~12節
牧 師 鈴木美津子
「更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです(12)」。
ユダヤ人が信仰の父と敬い、異邦人とは縁もゆかりもないと思って疑わなかったアブラハムこそが、その原点において無割礼の異邦人であり、また異邦人が神の民にされる恩恵の先がけであった。パウロは、信仰が、割礼の民イスラエル、そして無割礼の異邦人を結び付けて、神の民を形成するのだと、言っているのである。信仰義認こそが、全世界に普くおびただしい信徒の群れとなる神の民を形成する原理であり力である、ということである。
そして、その信仰によって義と認められる、その契約のしるしが旧約の時代では割礼であったが、新約の時代には洗礼に代わったのである。
大切なことは、旧約時代の割礼であっても、新約時代の洗礼であっても、それは神の契約のしるしであり、それ自体に人を救う機能はなく、救いが保証されるというようなものではない、ということである。その源泉にある神の契約にこそ罪人の救いがある。神の契約とは、滅ぶべき罪人を救い出すために、神の一方的なへりくだりと恩恵によって与えられた救いの約束であり、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、神が与えて下さるものである。その全き幸いが、「洗礼というしるし」によって、私たちに刻みつけられる。洗礼を受けることによって私たちは、神の恵みによる罪の赦しが自分に与えられていることを確信して、その幸いの中で生きる者となるのだ。
そして、週ごとの礼拝を通して、また毎月の聖餐にあずかりつつ、アブラハムに与えられた、「行いによらずに神から義と認められた人の幸い」を、私たちの心と体に刻みつけ、生きるのである。 また、そのような者の群れとして、共に励まし合いながら、生きることである。
人間を罪から救うことのできるのは、十字架の主イエス・キリストのみである。私たちに与えられる洗礼は、この十字架のしるしであり、十字架のイエス・キリストの割礼である。
2022.10.9 の週報掲載の説教
2022.10.9 の週報掲載の説教
<2022年8月28日説教から>
『神は唯一だからです』
ローマの信徒への手紙3章29節~31節
牧 師 鈴木美津子
「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました(27)」。何らかの誇りがなければ生きていけないのが人間である。プライドと言い換えたほうがわかりやすいだろうか。私たちは、それにしがみつきながら生きている。誰かにプライドを傷つけられた、と言っては怒り、また意気消沈したり、また落ち込んでみたり・・・。それが人間である。
ユダヤ人たちは、自分たちが神の民、選ばれた民であるということを誇り、神に与えられた特権としての律法に、そして選民の象徴である割礼に、しがみついて生きていた。そのように生きてきたユダヤ人たちにとって、「律法によって救われるのではなく、信仰によって救われる」、というパウロの言葉は、彼らの「誇り」要するにプライドを、ズタズタに傷つけたのだ。「信仰によってのみに生きる」ということは、ユダヤ人であっても、異邦人であっても、がっしりとしがみついていた「誇り」が取り去られることである。キリスト教信仰に一歩足を踏み入れたならば、学歴、経歴、職業、経済的な豊かさ、知識の深さ、人柄の良さ、行いの豊かさなどなどを誇ることが、取り去られるということである。ところが信仰生活が始まっても、誇りがなければ生きていけないという人間の性は、なかなか死なないのが現実である。それでもパウロは、「誇りは取り去られた」、と言う。では、一切の誇りが取り去られた私たちは、どのように生きていくのか。パウロは、「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう(コリント二12:9)」と語る。信仰者の生きる力の源は、主イエスの十字架にある。あらゆる誇りを取り去られて、ただ主イエスの十字架から力をいただき、自分の弱さを誇る者になることである。キリスト者が誇るとすれば、自らの弱さである。誇りなど何もない、まったくない、それが主イエスを信じる者の生き方、それが真に信仰に生きるということだからである。
唯一の神が備えられた救いの道は、イエス・キリストを信じることによって義とされることのみ。その神の御前に私たちは唯一誇れること、それは神が私たちを正しい者とするために、愛する御子を十字架の死へと引き渡してくださったことのみである。
*先週8月28日説教としましたが、9月4日説教の誤りでした。
掲載が前後してしまいましたことをお詫びいたします。
<2022年8月28日説教から>
『神は唯一だからです』
ローマの信徒への手紙3章29節~31節
牧 師 鈴木美津子
「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました(27)」。何らかの誇りがなければ生きていけないのが人間である。プライドと言い換えたほうがわかりやすいだろうか。私たちは、それにしがみつきながら生きている。誰かにプライドを傷つけられた、と言っては怒り、また意気消沈したり、また落ち込んでみたり・・・。それが人間である。
ユダヤ人たちは、自分たちが神の民、選ばれた民であるということを誇り、神に与えられた特権としての律法に、そして選民の象徴である割礼に、しがみついて生きていた。そのように生きてきたユダヤ人たちにとって、「律法によって救われるのではなく、信仰によって救われる」、というパウロの言葉は、彼らの「誇り」要するにプライドを、ズタズタに傷つけたのだ。「信仰によってのみに生きる」ということは、ユダヤ人であっても、異邦人であっても、がっしりとしがみついていた「誇り」が取り去られることである。キリスト教信仰に一歩足を踏み入れたならば、学歴、経歴、職業、経済的な豊かさ、知識の深さ、人柄の良さ、行いの豊かさなどなどを誇ることが、取り去られるということである。ところが信仰生活が始まっても、誇りがなければ生きていけないという人間の性は、なかなか死なないのが現実である。それでもパウロは、「誇りは取り去られた」、と言う。では、一切の誇りが取り去られた私たちは、どのように生きていくのか。パウロは、「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう(コリント二12:9)」と語る。信仰者の生きる力の源は、主イエスの十字架にある。あらゆる誇りを取り去られて、ただ主イエスの十字架から力をいただき、自分の弱さを誇る者になることである。キリスト者が誇るとすれば、自らの弱さである。誇りなど何もない、まったくない、それが主イエスを信じる者の生き方、それが真に信仰に生きるということだからである。
唯一の神が備えられた救いの道は、イエス・キリストを信じることによって義とされることのみ。その神の御前に私たちは唯一誇れること、それは神が私たちを正しい者とするために、愛する御子を十字架の死へと引き渡してくださったことのみである。
*先週8月28日説教としましたが、9月4日説教の誤りでした。
掲載が前後してしまいましたことをお詫びいたします。
2022.10.2 の週報掲載の説教
2022.10.2 の週報掲載の説教
<2022年8月28日説教から>
『信仰による義認』
ローマの信徒への手紙4章1-8節
牧 師 鈴木美津子
「先祖アブラハムは何を得たというべきでしょうか(2)」。パウロは、アブラハムがその生涯で、何をやったかではなくて、神に対してどう生きたのか、また同じようにダビデに対しても、いかに彼が悔い改めた生涯を送ったのか、そこに焦点をあて、二人を義認の証人として立てる。なぜなら、信仰者の生涯は、何をやったかではなくてどう生きたか、だからである。私たちも功績のようなものなど全くいらない。大切なことは、キリストと共にどう生きたのか、それだけである。
キリスト者として生きる者は、人生の途中で、或いは生涯を終える時、結局私の生涯は何だったのか、と悔やむ必要など全くない。ましてや功績など不要である。大切なことは、死の床にあるまで、「今、私は信仰を持って生きているかどうか」、これだけである。たとえ、どんなに恥の多い生涯であっても、いかに多くの罪を抱えていても、その全てがキリストによって帳消しにされ、アブラハム、ダビデと共に、義認を実証するために用いられるのである。
その義認の実証の根拠は、神が認めたということ。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた(3)」、他ならぬ神が、アブラハムを義と認めてくださった。これは、私たちにも適用される。また、8節に「主から罪があると見なされない人は、幸いである」と、ある。私たちは、非常に多くの罪を犯して歩んでいる。罪を犯さない日などたった一日もない。しかしその多くの罪を神は数えられないという。ところが、驚くべきことに義は数えてくださる。つまり、非常に多くの罪は数えず、数に入らないような義だけを数えてくださる。これが神の認めてくださる、つまり信仰義認である。何の罪もない栄光の神の御子が十字架で死なれ、私たちの義を勝ち取ってくださった。このキリストの義によって罪にまみれた私たちが無罪とされたからである。それどころか、キリストの義が私たち一人一人の義としてカウントされる。その時、驚天動地の如くに、罪人が義人へと逆転する。これは神の決定なさること。私たちがどのように不安に思おうが、疑い迷うことがあろうが、神の決定であるがゆえに、私たちの義認は決して覆ることはない。これを幸いと言わずして、なんと言うのであろうか。
<2022年8月28日説教から>
『信仰による義認』
ローマの信徒への手紙4章1-8節
牧 師 鈴木美津子
「先祖アブラハムは何を得たというべきでしょうか(2)」。パウロは、アブラハムがその生涯で、何をやったかではなくて、神に対してどう生きたのか、また同じようにダビデに対しても、いかに彼が悔い改めた生涯を送ったのか、そこに焦点をあて、二人を義認の証人として立てる。なぜなら、信仰者の生涯は、何をやったかではなくてどう生きたか、だからである。私たちも功績のようなものなど全くいらない。大切なことは、キリストと共にどう生きたのか、それだけである。
キリスト者として生きる者は、人生の途中で、或いは生涯を終える時、結局私の生涯は何だったのか、と悔やむ必要など全くない。ましてや功績など不要である。大切なことは、死の床にあるまで、「今、私は信仰を持って生きているかどうか」、これだけである。たとえ、どんなに恥の多い生涯であっても、いかに多くの罪を抱えていても、その全てがキリストによって帳消しにされ、アブラハム、ダビデと共に、義認を実証するために用いられるのである。
その義認の実証の根拠は、神が認めたということ。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた(3)」、他ならぬ神が、アブラハムを義と認めてくださった。これは、私たちにも適用される。また、8節に「主から罪があると見なされない人は、幸いである」と、ある。私たちは、非常に多くの罪を犯して歩んでいる。罪を犯さない日などたった一日もない。しかしその多くの罪を神は数えられないという。ところが、驚くべきことに義は数えてくださる。つまり、非常に多くの罪は数えず、数に入らないような義だけを数えてくださる。これが神の認めてくださる、つまり信仰義認である。何の罪もない栄光の神の御子が十字架で死なれ、私たちの義を勝ち取ってくださった。このキリストの義によって罪にまみれた私たちが無罪とされたからである。それどころか、キリストの義が私たち一人一人の義としてカウントされる。その時、驚天動地の如くに、罪人が義人へと逆転する。これは神の決定なさること。私たちがどのように不安に思おうが、疑い迷うことがあろうが、神の決定であるがゆえに、私たちの義認は決して覆ることはない。これを幸いと言わずして、なんと言うのであろうか。