2021.5.2 の週報掲載の説教

<2020年1月5日の説教から>

ルカによる福音書2章39節~52節

『少年イエス物語』
牧師 三輪地塩

ヨセフとマリアはイエスを連れ、毎年の過ぎ越し祭にエルサレム神殿に旅をした。イエスの家庭は、実に信仰的な生活をしていたことが分かる。イエスは幼い時からラディカルな宗教改革者だったのではなく、極めてオーソドックスな基本的なユダヤ信仰を持つ家庭で育ったことが分かる。

ヨセフ一行はエルサレム神殿での務めを終えてナザレに帰る途中にあった。「イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい」(44節)とある。この「道連れ」は「キャラバン」のこと。荒れ野の真ん中を単独で渡るのは危険が伴う。盗賊や危険な動物に遭遇する可能性があるからだ。その為、何人もの人が固まって行動する「キャラバン隊」を形成し、荒れ野を渡るのが一般的であった。

ヨセフたちは、その中にイエスがいると思い込み、一日分の道のりを歩いていた。一日分の道のりは「20~30㎞」ぐらいである。ヨセフは随分とおっちょこちょいだったようにも思える。彼らはすぐ引き返し、結局3日たってようやく神殿にいるイエスを見つけたのだった。ようやく見つかった時、イエスは神殿の境内で、学者たちの中に座り、なにやら話をしていた。母マリアは真っ先にこう言った「何故こんな事をしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです」。このマリアの言葉は心配から生まれる言葉である。我々も同じ事をいうだろう。不安と共に3日間、捜し続けたマリアに同情してしまう。だがイエスは「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるのは当たり前だという事を、知らなかったのですか」と言う。あまりにそっけない返答だ。

我々は、このイエスの言葉がイマイチ腑に落ちない。心配をかけておきながら「なぜ探すのか」はないだろう、と。

だがこの福音書は、神殿とイエスの関係性をここで指摘しているのである。イエスが十字架に掛けられる前「私は神殿を打ちこわし、三日でそれを建て直す」と言った。つまり主イエスこそが「真の神殿である」という意味である。

神殿は、「私の岩」「私の救い」「砦の塔」と詩編で言われている。この堅固な場所こそが神殿であり、イエス・キリストこそが真の神殿となる。

2021.4.25 の週報掲載の説教

NEW! 2021.4.25 の週報掲載の説教
<2019年12月29日の説教から>

ルカによる福音書2章22節~38節

『救いを待ち望む人々』
牧師 三輪地塩

シメオンは「老人と思われる男性」である。彼は「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」と言われている。これは「祈りの人だった」という意味である。いつも祈りと共にある生活、常に祈りをもって神に応答していた人生であった。

このシメオンが、神殿に詣でて来た幼子イエスに出会う。彼はイエスを腕に抱き、神を讃美し言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉通り、このしもべを安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万人の為に整えて下さった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」。シメオンは救いの現実性を目の当たりにする。幼子を抱き、それを目で見、待ち望んでいた救いである事を、リアルに感じたのだった。

アンナという女預言者も出てくる。彼女は84歳であった。この当時の寿命からは想像できない長寿である。彼女は、「若いとき嫁いでから7年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ」とある。このような境遇の場合、未亡人としての人生がどれだけ苦難に満ちていたかは想像に難くない。彼女は「預言者だった」とあり、おそらく神殿に従事する預言者と考えられる。彼女は「神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」。つまり、彼女の行き着いた生活が「神」と共にある生活だったというのだ。

この二人の老人の出来事について、聖書は何を伝えているのか。老いることで得るものは人それぞれだと思うが、大きく分けて二通りの老い方がある。「積極的に老いること」と「消極的に老いること」の二通りである。シメオンとアンナはどうだったか。エルサレムの神殿で、神の御子に最初に気づいたのは若者でも、青年でもなく、生涯の殆んどを歩み終えた老人であったというのがこの箇所のメッセージである。聖霊に満たされていたのは老人だった。箴言20章29節に「力は若者の栄光。白髪は老人の尊厳」とあるように、老齢者にしか成しえない形で、神の計画への参与の仕方があると聖書は言う。それこそが「積極的な老い」なのだ。生産世代ではないかもしれない。だが「霊性に富んだ世代」こそが老齢者である、と聖書は言う。

2021.4.18 主日礼拝 録画映像

主日礼拝録画映像 2021年4月18日(日) 10時30分~

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主 日 礼 拝  2021年4月18日 午前10:30から
奏楽  板 垣 玲 子

<神の招き>
招 詞 ヨハネによる福音書12章24節

*讃 詠  546

*罪の告白と赦し 交読詩編96編10節~13節

聖 書 ヨハネによる福音書20章24節~29節

(新約P.210)

日曜学校説教「イエスとトマス」 三 輪 地 塩

*讃美歌 454

<神の言葉>
聖 書 民数記15章27節~31節  (旧約P.239)

ルカによる福音書12章35節~48節

(新約P.132)

祈 り          三 浦 勇 二

*讃美歌 288〔1-2〕

説  教 「忠実で賢い管理人」三 輪 地 塩

<神への応答>
*讃美歌 Ⅱ184〔1-2〕

公 告

*主の祈り

*頌 栄 543

*派遣と祝福

*後 奏

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今こそ私たちの祈りを結集させ、主により頼みつつこの難局を乗り切りましょう。主の守りと支えとが、これまで同様、今も、永遠に、世々限りなくありますように。

2021.4.11 の週報掲載の説教

<2019年12月22日の説教から>

ルカによる福音書2章1節~21節

 『神には栄光、地に平和』
牧師 三輪地塩

アウグストゥスは勅令を出して人口調査をしたため、ベツレヘム周辺はとても込み合っていた。泊まる宿屋がどこも一杯だったという。「彼らの泊まる場所がなかった」というのは、場所の問題でなく、「宿泊拒否」「泊めてもらえなかった」ということなのかもしれない。だとすれば、「失望の言葉」であり「絶望の言葉」となる。聖書は、ヨセフとマリアの状況を我々に提示することで、キリストが我々の「絶望」や「困窮」と共にいることを伝える。

マリアは馬小屋で出産をしたと考えられている。暖かさではなく寒さがあり、人々からの受け入れではなく拒否があり、温かな布団ではなく一枚の布があり、清潔な産湯ではなく飼い葉桶があったのだ。この全ての状況によって、聖書は我々に、キリスト誕生の意味をつぶさに示す。

この嬰児は、この世に生まれてくるどの子どもとも同じように、弱く、小さく、頼りなく生まれた。母親はこの嬰児が凍えないように、おくるみに包んだ。しかしそれは暖かな布団でも毛布でもない「布切れ」だった。飼い葉桶の中に寝かせられていたことは、この嬰児が帰る場所(故郷)を失っていたことを伝える。この弱く、小さく、頼りない幼子。帰る場所がなく、世(間に見放され、一枚の布で包まれたこの乳飲み子は、小さく頼りなく、帰る場所にも、世間にも見放され、一畳一間の部屋にうずくまる小さな者たちに対しても福音を語るのだ。すなわち、現代に生きる、居場所を失った全ての人々、暗く寒い場所で凍えている人々、心を塞いでいる人々、喪失感・絶望感の中を生きている全ての人々と共に、キリストは生まれたと聖書は語っている。我々が考え得る限りの、貧しさの極みの中に入り込み、如何なる者もこれ以上に低く、弱く、助けなき者となったことがないところにまで来て下さった。イエス・キリストは、我々の困窮の中に来て下さった。

救いはすぐ近くにある、と聖書は言う。救いとは、遠く離れた場所にある、人間の貧しさと苦しさとは無縁の美しさにあるのではなく、我々の苦しみの真っ只中に存在している。神はまさにそこに居られる。日々心を悩ませ、労苦する者たちと共に、主は居られるのだ。それが「インマヌエル」の主である。

2021.4.4 の週報掲載の説教

<2019年12月15日の説教から>

ルカによる福音書1章57節~80節

ザカリアの預言』
牧師 三輪地塩

 
「ヨハネ」という名にしたのは、天使ガブリエルに命じられていたことであった。エリサベトが無事出産し、近隣の肉親友人たちが、ザカリアとエリサベト夫婦のところに集まり、子どもの誕生を喜び合っていた。当時の律法では、出産後、「7日間は汚れている」と考えられいたため、8日目になって男児の場合は「割礼」を施す習わしだった。割礼は、「正式な神の民になること」を意味していた。割礼によって子どもは、生涯にわたる神の祝福の約束を受けると信じられていたためである。

59節「そこに来た人々は、父の名をとってザカリアと名付けようとした」とある。恐らく「ザカリアという名前になるのが順当だろうな」と話し合っていた、ということだろう。

ルカ福音書1章5節では、ザカリアが「アロン家の血筋」の「アビヤ組」という祭司家系にあり、妻のエリサベトもアロン家の血筋の由緒正しき家柄であったと記されている。祭司家系、アビヤ組は、大祭司の務めを24組に分けて制度化させた組の一つのため、大変に名誉ある血筋であった。エリサベトも「アロンの血筋」なので祭司職家庭としては申し分ない家柄だった。この血筋を守っていくザカリアは、もちろん息子にも、代々受け継がれてきた由緒正しい名前を付けるだろうと人々は考えていたのだ。

しかしエリサベトは「ヨハネ」という名を主張した。ザカリア家には「ヨハネ」という名の先祖がいなかったため、皆、驚き、ザカリアに訪ねた。ガブリエルに口を閉ざされていたザカリアは、文字板に「この子の名はヨハネ」と書き、妻と同じ思いであることを明らかにしたのだ。この時、ザカリアの口が開かれ、舌のもつれがほどけた。単に肉体的な問題ではなく、「イスラエルの救済史」に関わる転換を迎えたことを示している。つまり、「これまでの古い祭司制度の終焉と、新しい神の時代の始まり」である。旧約律法こそが「神の言葉」「神の御心の現われ」と理解してきた民であるが、ヨハネ以降から、新しい時、新しい契約時代、すなわち「神の言」としてのイエス・キリスト時代を迎えたことが示されている。この箇所は単なる「命名」逸話ではなく、新たな救いの転換を示すのである。

2021.3.28 の週報掲載の説教

<2019年12月8日の説教から>

ルカによる福音書1章39節~56節

『マリアの讃歌』
牧師 三輪地塩

イエス誕生時のユダヤは、ローマ帝国の傀儡政権として統治されていた。当時のローマ皇帝はアウグストゥス。当時の権力者のトップが彼であった。彼は皇帝礼拝の基礎を作った人物であり、この皇帝礼拝は300年に亘って続けられた。彼の統治した時代は「パクス・ロマーナ」「ローマの平和」と呼ばれ、一代にして最も栄えた時代を築き上げた(歴史学的には)有能な皇帝である。彼の本当の名は、「オクタヴィアヌス」。ユリウス・シーザーの後継者だった。

この時代の詩人たちは、アウグストゥスを賞賛した。プロペルティウスという詩人は「アクティウムの戦い」に勝利したことを記念し、「世の救い主なる、アウグストゥスよ。海の上で勝利を得よ。大地は既に汝のものなり。わが弓は汝を支えん」と詠った。又、トルコ沿岸の町のある碑文には「万物の永遠性が、最善にして驚くべき善意であるカエサル・アウグストゥスを、この幸いなる時に人類に与え給うた。彼の国なる神聖ローマの父、いにしえのゼウス、~~大地と海に平和がもたらされ、町々は秩序と調和と富によって潤った」と、当時の人々はアウグストゥスに最大級の賛辞を送っていたのだった。当時の皇帝アウグストゥスは、「世の救い主」であり、「最善にして驚くべき善意である」、と言われていた。「この人こそ世界に平和をもたらす主にして神である。救い主にしてメシアである」。このような言い方がなされていた。

ルカ福音書が、この「救い主」という語を多用している。福音書でもルカにしか使われていないのが「救い主」「ソーテール」という称号である。「私の霊は救い主である神を喜びたたえます」(1:47)。「今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった」(2:11)。というように、ルカは「救い主」と「イエス・キリスト」を明確に結びつける。そこには、権力の象徴・世界の統治者である「ソーテール」が皇帝ではなく「キリスト」であると言い、国家権力批判をしているとも言える。51節以下にこうある。「主はその腕を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」。この強い表現の中にこそ、強烈な体制批判と、イエスのメシア性が表わされている。