2022.10.2 の週報掲載の説教
<2022年8月28日説教から>
『信仰による義認』
ローマの信徒への手紙4章1-8節
牧 師 鈴木美津子
「先祖アブラハムは何を得たというべきでしょうか(2)」。パウロは、アブラハムがその生涯で、何をやったかではなくて、神に対してどう生きたのか、また同じようにダビデに対しても、いかに彼が悔い改めた生涯を送ったのか、そこに焦点をあて、二人を義認の証人として立てる。なぜなら、信仰者の生涯は、何をやったかではなくてどう生きたか、だからである。私たちも功績のようなものなど全くいらない。大切なことは、キリストと共にどう生きたのか、それだけである。
キリスト者として生きる者は、人生の途中で、或いは生涯を終える時、結局私の生涯は何だったのか、と悔やむ必要など全くない。ましてや功績など不要である。大切なことは、死の床にあるまで、「今、私は信仰を持って生きているかどうか」、これだけである。たとえ、どんなに恥の多い生涯であっても、いかに多くの罪を抱えていても、その全てがキリストによって帳消しにされ、アブラハム、ダビデと共に、義認を実証するために用いられるのである。
その義認の実証の根拠は、神が認めたということ。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた(3)」、他ならぬ神が、アブラハムを義と認めてくださった。これは、私たちにも適用される。また、8節に「主から罪があると見なされない人は、幸いである」と、ある。私たちは、非常に多くの罪を犯して歩んでいる。罪を犯さない日などたった一日もない。しかしその多くの罪を神は数えられないという。ところが、驚くべきことに義は数えてくださる。つまり、非常に多くの罪は数えず、数に入らないような義だけを数えてくださる。これが神の認めてくださる、つまり信仰義認である。何の罪もない栄光の神の御子が十字架で死なれ、私たちの義を勝ち取ってくださった。このキリストの義によって罪にまみれた私たちが無罪とされたからである。それどころか、キリストの義が私たち一人一人の義としてカウントされる。その時、驚天動地の如くに、罪人が義人へと逆転する。これは神の決定なさること。私たちがどのように不安に思おうが、疑い迷うことがあろうが、神の決定であるがゆえに、私たちの義認は決して覆ることはない。これを幸いと言わずして、なんと言うのであろうか。
2022.9.25 の週報掲載の説教
2022.9.25 の週報掲載の説教
<2022年8月21日説教から>
『神の示された義』
ローマの信徒への手紙3章23-26節 牧 師 鈴木美津子
神は、御自身の義を世に対して公に示されるために、主イエス・キリストを十字架に架けられた。主イエスの十字架においてすべての人間の罪を裁くためである。最終的に、そして完全に、裁きは行われた。それは苦しく、激しい裁きであったが、主イエスは神の御怒りを完全に御自身に受けてくださったのである。それゆえ、パウロは、イエス・キリストの死が「今までに犯されて来た罪を神が忍耐をもって見のがして来られた(25)」ことに対する神の義を現わしている、と告げている。
もっと広い言い方をすれば、「一般恩恵は十字架にある」ということである。人間は、これまで罪を犯し続けてきたが、またこれからも繰り返していくであろう。そうであっても、神は即座に天から裁きを下すようなことはなさらない。「なぜ、罪を犯す人間に猶予を与えるのか。なぜすぐに裁かないのか」というと、それは神の一般恩恵(一般恩寵)であって、神はすべての人間に対して、恵みを与え、罪人が自分の罪に気がついて神を求めるよう猶予を与えておられるのである。それは神の大いなる忍耐である。神は、逐一裁くことをなさらない。神は、忍耐をもって罪を見逃して来られたのである。神は罪に対して怒っていないのではない。確かに怒っておられる。それも激しく怒っておられる。だから、放っておいて裁きを行わないわけではない。また神は中途半端な裁きはなさらない。神は、人間がこれまでに犯してきた全ての罪に対して、完全な裁きを行なわれる。決して、見過ごすことも、見逃されることもない。
神は私たちを正しい者として認めてくださるときでさえも、ご自身の義を曲げるようことは決してない。
その神は、ただ一度、完全な裁きを十字架の上で行なわれた。主イエス・キリストが代わりに裁きを受けてくださったので、私たちは神の御前に義なる者と認められたのだ。 それは、今の時に神ご自身の義を現わすためであり、また、主イエス・キリストを信じる者を義と認めるためであった。これこそが、法的な正しい神の裁きである。
「キリストは私の代わりにその裁きを受けてくださったので、私は救われる」。このことを忘れてはならない。自分の罪を神の御前で認めて、悔い改めて、主イエス・キリストを唯一の救い主として信じるならば、神はその罪人を救って義と認めてくださるのである。
<2022年8月21日説教から>
『神の示された義』
ローマの信徒への手紙3章23-26節 牧 師 鈴木美津子
神は、御自身の義を世に対して公に示されるために、主イエス・キリストを十字架に架けられた。主イエスの十字架においてすべての人間の罪を裁くためである。最終的に、そして完全に、裁きは行われた。それは苦しく、激しい裁きであったが、主イエスは神の御怒りを完全に御自身に受けてくださったのである。それゆえ、パウロは、イエス・キリストの死が「今までに犯されて来た罪を神が忍耐をもって見のがして来られた(25)」ことに対する神の義を現わしている、と告げている。
もっと広い言い方をすれば、「一般恩恵は十字架にある」ということである。人間は、これまで罪を犯し続けてきたが、またこれからも繰り返していくであろう。そうであっても、神は即座に天から裁きを下すようなことはなさらない。「なぜ、罪を犯す人間に猶予を与えるのか。なぜすぐに裁かないのか」というと、それは神の一般恩恵(一般恩寵)であって、神はすべての人間に対して、恵みを与え、罪人が自分の罪に気がついて神を求めるよう猶予を与えておられるのである。それは神の大いなる忍耐である。神は、逐一裁くことをなさらない。神は、忍耐をもって罪を見逃して来られたのである。神は罪に対して怒っていないのではない。確かに怒っておられる。それも激しく怒っておられる。だから、放っておいて裁きを行わないわけではない。また神は中途半端な裁きはなさらない。神は、人間がこれまでに犯してきた全ての罪に対して、完全な裁きを行なわれる。決して、見過ごすことも、見逃されることもない。
神は私たちを正しい者として認めてくださるときでさえも、ご自身の義を曲げるようことは決してない。
その神は、ただ一度、完全な裁きを十字架の上で行なわれた。主イエス・キリストが代わりに裁きを受けてくださったので、私たちは神の御前に義なる者と認められたのだ。 それは、今の時に神ご自身の義を現わすためであり、また、主イエス・キリストを信じる者を義と認めるためであった。これこそが、法的な正しい神の裁きである。
「キリストは私の代わりにその裁きを受けてくださったので、私は救われる」。このことを忘れてはならない。自分の罪を神の御前で認めて、悔い改めて、主イエス・キリストを唯一の救い主として信じるならば、神はその罪人を救って義と認めてくださるのである。
2022.9.11 の週報掲載の説教
2022.9.11 の週報掲載の説教
<2022年8月4日説教から>
『神の義』
ローマの信徒への手紙3章21節~22節
牧 師 鈴木美津子
神の義とは、「主イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる神の義」である。ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、主イエス・キリストを信じる信仰を持つ者には、この「神の義」が与えられ、神の御前に「正しい者」とされるのである。それが救いの中心的なことであり、全く新しい契約であると、パウロは語る。
ここでは「正しさが問題なのだ」ということを、はっきりと見ることができる。主イエス・キリストを信じる者に与えられる「正しさ」によって、その人たちは義と認められて救われるのからである。救いは、神の聖さ、神の善、神の義から来る。義なる神は、私たちの罪をただ見逃したり、忘れたりすることはなさらない、また、そのようにできないお方である。義なる神は、完全に罪の罰を私たちに要求される。そのことは、旧約聖書の犠牲制度においても明らかである。死ななければ、そして血が流されなければ、罪の赦しはないのである。その義なる神が、どのようにして御自分の義を曲げることなしに、私たち人間に救いを与えてくださるのか。それが福音の解決する問題なのである。
主イエス・キリストが、私たち人間が受けるべき罰を私たちの代わりに受けてくださることで解決してくださった。私たちが受けるべき罰を完全に身代わりとなって受けてくださったので、その罰は、もう私たちには下されることはない。私たちがキリストの福音を、主イエス・キリストを、信じて受け入れる。そして、主イエス・キリストの働きの実が私たちに転嫁される。私たちの罪はキリストに転嫁され、キリストの義が私たちに転嫁されるのである。これが福音の中心である。「しかし、今」この御方が来られた、とパウロは語る。「神の義」は、今やユダヤ人にも異邦人にも、キリストを信じるすべての者に賜物として与えられる。日々の犠牲はもう必要ではない。キリストを信じる者にキリストの「正しさ」が与えられる。それで、キリストを信じる私たちは、神の御前に立つ時に、「正しい者」として認められるのである。主イエス・キリストの与えてくださった真っ白な義の衣を着て神の御前に立つとき、神は私たちをキリストにある者として見てくださる。神は裁きの御座から「この者は正しい」と宣言して、私たちを受け入れてくださる。それが義認であり、義と認められることである。
<2022年8月4日説教から>
『神の義』
ローマの信徒への手紙3章21節~22節
牧 師 鈴木美津子
神の義とは、「主イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる神の義」である。ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、主イエス・キリストを信じる信仰を持つ者には、この「神の義」が与えられ、神の御前に「正しい者」とされるのである。それが救いの中心的なことであり、全く新しい契約であると、パウロは語る。
ここでは「正しさが問題なのだ」ということを、はっきりと見ることができる。主イエス・キリストを信じる者に与えられる「正しさ」によって、その人たちは義と認められて救われるのからである。救いは、神の聖さ、神の善、神の義から来る。義なる神は、私たちの罪をただ見逃したり、忘れたりすることはなさらない、また、そのようにできないお方である。義なる神は、完全に罪の罰を私たちに要求される。そのことは、旧約聖書の犠牲制度においても明らかである。死ななければ、そして血が流されなければ、罪の赦しはないのである。その義なる神が、どのようにして御自分の義を曲げることなしに、私たち人間に救いを与えてくださるのか。それが福音の解決する問題なのである。
主イエス・キリストが、私たち人間が受けるべき罰を私たちの代わりに受けてくださることで解決してくださった。私たちが受けるべき罰を完全に身代わりとなって受けてくださったので、その罰は、もう私たちには下されることはない。私たちがキリストの福音を、主イエス・キリストを、信じて受け入れる。そして、主イエス・キリストの働きの実が私たちに転嫁される。私たちの罪はキリストに転嫁され、キリストの義が私たちに転嫁されるのである。これが福音の中心である。「しかし、今」この御方が来られた、とパウロは語る。「神の義」は、今やユダヤ人にも異邦人にも、キリストを信じるすべての者に賜物として与えられる。日々の犠牲はもう必要ではない。キリストを信じる者にキリストの「正しさ」が与えられる。それで、キリストを信じる私たちは、神の御前に立つ時に、「正しい者」として認められるのである。主イエス・キリストの与えてくださった真っ白な義の衣を着て神の御前に立つとき、神は私たちをキリストにある者として見てくださる。神は裁きの御座から「この者は正しい」と宣言して、私たちを受け入れてくださる。それが義認であり、義と認められることである。
2022.9.4 の週報掲載の説教
2022.9.4 の週報掲載の説教
<2022年7月31日説教から>
『正しい者はいない。一人もいない。』
ローマの信徒への手紙3章9節~20節
牧 師 鈴木美津子
神の律法は、神の民イスラエルの罪を表わすものであった。だから、「律法の下にある者」、即ち「律法を自分に対する神の御言葉として、受け留めて聞き入れる者」が、律法から何を知るかというと、自分の罪深さを深く知ることであった。つまり、「罪の意識が生じる」ということ。神は、そのためにイスラエルを選び、律法を与えられたのである。
だから、律法を信じるユダヤ人は誰よりも心の謙る者になる筈であった。他人を見下すことなどできる筈もなく、見下すどころか、「自分こそ罪人だ」ということを真の意味で告白する者になり、「自分が救われた理由はただ神の恵みのみによる。他の人々にもその同じ恵みを分け与えたい」という気持ちになる筈であったのだ。 しかし、ユダヤ人たちは、神の意図したこととは、全く反対の状態になった。真の意味を何も理解せず、また神が彼らに律法を与えてくださった目的をも理解しなかった。
ところで、19節にある「律法の下にある人々に向けられている」という言葉は、ユダヤ人たちだけでなく、ローマ教会のキリスト者たちにも語られた言葉であることに気づかれただろうか。つまり、この言葉は、私たちにも語られているということ。私たちも神の契約の民である。私たちもアブラハムの子孫であり、罪深い者であって、罪を悔い改めなければ救われない者なのだ。そのことを、神が、私たちに話しかけておられる。そのことを、私たちこそ知らなければならない。全世界の中で誰よりも深く自分の罪を認識しなければならないのは、まさに私たちキリスト者なのである。
罪の認識が深くならなければ、真の礼拝をささげることはできない。その罪を真に神の御前に悔い改めて、神の赦しを受ける時、大きな喜びを得る。「罪の意識は律法によって生じる」とは、私たちの日々の生活の中でいつも起こっている。毎日、御言葉に親しみ、私たちに話しかけてくださる神の言葉に熱心に心を傾ける。それを心に刻み、真の飢え渇きをもって神を求める。私たちがそのような生活をすれば、自ずと罪の意識はもっともっと深くなるからである。罪の認識が深くなると、その思いは罪を犯さないように私たちを守るという働きもあるが、それは私たちに真の悔い改めを教え、神の恵みの中を喜んで歩む生涯を与えてくれるのである。
<2022年7月31日説教から>
『正しい者はいない。一人もいない。』
ローマの信徒への手紙3章9節~20節
牧 師 鈴木美津子
神の律法は、神の民イスラエルの罪を表わすものであった。だから、「律法の下にある者」、即ち「律法を自分に対する神の御言葉として、受け留めて聞き入れる者」が、律法から何を知るかというと、自分の罪深さを深く知ることであった。つまり、「罪の意識が生じる」ということ。神は、そのためにイスラエルを選び、律法を与えられたのである。
だから、律法を信じるユダヤ人は誰よりも心の謙る者になる筈であった。他人を見下すことなどできる筈もなく、見下すどころか、「自分こそ罪人だ」ということを真の意味で告白する者になり、「自分が救われた理由はただ神の恵みのみによる。他の人々にもその同じ恵みを分け与えたい」という気持ちになる筈であったのだ。 しかし、ユダヤ人たちは、神の意図したこととは、全く反対の状態になった。真の意味を何も理解せず、また神が彼らに律法を与えてくださった目的をも理解しなかった。
ところで、19節にある「律法の下にある人々に向けられている」という言葉は、ユダヤ人たちだけでなく、ローマ教会のキリスト者たちにも語られた言葉であることに気づかれただろうか。つまり、この言葉は、私たちにも語られているということ。私たちも神の契約の民である。私たちもアブラハムの子孫であり、罪深い者であって、罪を悔い改めなければ救われない者なのだ。そのことを、神が、私たちに話しかけておられる。そのことを、私たちこそ知らなければならない。全世界の中で誰よりも深く自分の罪を認識しなければならないのは、まさに私たちキリスト者なのである。
罪の認識が深くならなければ、真の礼拝をささげることはできない。その罪を真に神の御前に悔い改めて、神の赦しを受ける時、大きな喜びを得る。「罪の意識は律法によって生じる」とは、私たちの日々の生活の中でいつも起こっている。毎日、御言葉に親しみ、私たちに話しかけてくださる神の言葉に熱心に心を傾ける。それを心に刻み、真の飢え渇きをもって神を求める。私たちがそのような生活をすれば、自ずと罪の意識はもっともっと深くなるからである。罪の認識が深くなると、その思いは罪を犯さないように私たちを守るという働きもあるが、それは私たちに真の悔い改めを教え、神の恵みの中を喜んで歩む生涯を与えてくれるのである。
2022.8.28 の週報掲載の説教
2022.8.28 の週報掲載の説教
<2022年7月24日説教から>
『神は真実なお方である』
ローマの信徒への手紙3章1-8節
牧 師 鈴木美津子
神の真実は一体どこに現されたのか?それは主イエス・キリストの十字架の死と復活によってである。パウロは、「救いは律法を善い行いによって得られるのではなく、主イエスの十字架と復活によって罪人を赦し、義として下さった神の恵みを信じることによってのみ与えられる」、と語る。しかし、ユダヤ人は「パウロの言葉は、善への努力や熱意を失わせる。なまじ良い人間であろうとして偽善に陥るならば、罪人であることに徹した方がよいなどという思いを生じる」、と反論する。パウロは「決してそうではない」、とユダヤ人の屁理屈を退ける。
パウロの語る「罪の赦しの福音」は、私たちを、善に熱心でない者、良いことのために努力しないで、むしろ悪に留まろうとする者を生じさせることは決してない。なぜなら、この福音は、十字架につけられた主イエスによって実現したものだからである。人間の罪に対する神の怒りと、神がご自分の約束にどこまでも誠実であるという神の真実は、主イエス・キリストの十字架において現された。
主イエスの十字架と復活は、私たちの不誠実や罪が、神の救いの約束を無にしてしまわないためのもの。私たちが受けるべき神の怒り、裁きを、主イエスが代って受けて下さったことによって、私たちに罪の赦しが与えられた。この主イエスの十字架の苦しみと死においてこそ、神の真実が誰にも明らかにされたのである。
この神の真実を見つめるなら、そこには、「人の犯した罪が救いを明らかにするなら、罪を犯した方がよい」などという屁理屈が入り込む余地はない。逆に言えば、主イエスの十字架における神の真実を真剣に見つめることがなければ、私たちは、ユダヤ人のように間違った理解に陥って屁理屈をこね、自分の罪を真剣に見つめて悔い改めることをしないで、かえって罪の中に安住するための口実にしてしまうであろう。
私たちが、私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さり、復活して新しい命を与えて下さった主イエスの救いを受け留めるとき、主イエスとの交わりに真に生きるとき、「私たちの罪のゆえに神の真実が無になることはない」という御言葉が私たちをどんな時にも支えるのである。私たちは常に罪に陥ってしまうような愚かで弱い者であるが、この神の真実に支えられているので、御心に適った歩みを求めていくことができるのである。
<2022年7月24日説教から>
『神は真実なお方である』
ローマの信徒への手紙3章1-8節
牧 師 鈴木美津子
神の真実は一体どこに現されたのか?それは主イエス・キリストの十字架の死と復活によってである。パウロは、「救いは律法を善い行いによって得られるのではなく、主イエスの十字架と復活によって罪人を赦し、義として下さった神の恵みを信じることによってのみ与えられる」、と語る。しかし、ユダヤ人は「パウロの言葉は、善への努力や熱意を失わせる。なまじ良い人間であろうとして偽善に陥るならば、罪人であることに徹した方がよいなどという思いを生じる」、と反論する。パウロは「決してそうではない」、とユダヤ人の屁理屈を退ける。
パウロの語る「罪の赦しの福音」は、私たちを、善に熱心でない者、良いことのために努力しないで、むしろ悪に留まろうとする者を生じさせることは決してない。なぜなら、この福音は、十字架につけられた主イエスによって実現したものだからである。人間の罪に対する神の怒りと、神がご自分の約束にどこまでも誠実であるという神の真実は、主イエス・キリストの十字架において現された。
主イエスの十字架と復活は、私たちの不誠実や罪が、神の救いの約束を無にしてしまわないためのもの。私たちが受けるべき神の怒り、裁きを、主イエスが代って受けて下さったことによって、私たちに罪の赦しが与えられた。この主イエスの十字架の苦しみと死においてこそ、神の真実が誰にも明らかにされたのである。
この神の真実を見つめるなら、そこには、「人の犯した罪が救いを明らかにするなら、罪を犯した方がよい」などという屁理屈が入り込む余地はない。逆に言えば、主イエスの十字架における神の真実を真剣に見つめることがなければ、私たちは、ユダヤ人のように間違った理解に陥って屁理屈をこね、自分の罪を真剣に見つめて悔い改めることをしないで、かえって罪の中に安住するための口実にしてしまうであろう。
私たちが、私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さり、復活して新しい命を与えて下さった主イエスの救いを受け留めるとき、主イエスとの交わりに真に生きるとき、「私たちの罪のゆえに神の真実が無になることはない」という御言葉が私たちをどんな時にも支えるのである。私たちは常に罪に陥ってしまうような愚かで弱い者であるが、この神の真実に支えられているので、御心に適った歩みを求めていくことができるのである。
2022.8.14 の週報掲載の説教
2022.8.14 の週報掲載の説教
<2022年7月17日説教から>
『心の割礼』
ローマの信徒への手紙2章17節~29節
牧 師 鈴木美津子
割礼は、ユダヤ人にとって、神の民であることの確かな徴であり、自分たちが世の終わりの裁きにおいて救われることの保証であった。しかし、パウロは、「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではない」と記す。要するに、内面がユダヤ人である者、霊によって心に施された割礼を受けている者こそが真のユダヤ人だ、ということである。
ユダヤ人が絶対なものとしていた肉に施された割礼を、パウロは、なぜ、相対的なものと見なすことができたのか?それは、パウロが神の霊によって心の割礼を受けていたからである。それはパウロだけではない。悔い改めて、主イエス・キリストを信じた私たちも、同様に聖霊による心の割礼を受けた者たちである。それゆえ、私たちこそ、真のユダヤ人なのだ。パウロは、「その誉れは人からではなく、神から来る」と記している。これはユダヤ人という言葉が「ほめたたえる」という意味のユダを起源としていることと関係する。創世記29章35節に「レアはまた身ごもって男の子を産み、『今度こそ主をほめたたえ(ヤダ)よう』と言った。そこで、その子をユダと名付けた」と記されている。新しい命が誕生したその瞬間に、その子は「主をほめたたえる」、と命名された。ユダヤ人たちは、その名前の起源である、「主をほめたたえる」、という大切な役割を忘れて、ただ割礼の徴や、律法遵守に自らの立場を築いていたのである。これがパウロの言う「外見上のユダヤ人、外見上の割礼」ということである。中身がない、上っ面だけ、ということである。
これは、ユダヤ人だけに突きつけられているのではなく、私たちも同様である。洗礼を受けて新しい命をいただくのは、「主をほめたたえる」ためである。私たちが真のキリスト者であり真の受洗者である、という何よりの証は、主を賛美することである。信仰生活を続けるうちに、この賛美や喜びが失われることこそが深刻なことである。自分の信仰が弱いとか、洗礼の記憶が色褪せていくことなど大した問題ではない。大切なのは、遣わされた場所で、そして何よりも毎週の礼拝で、精一杯、主を賛美しているのかいないのか、それが真のキリスト者の指標である。
<2022年7月17日説教から>
『心の割礼』
ローマの信徒への手紙2章17節~29節
牧 師 鈴木美津子
割礼は、ユダヤ人にとって、神の民であることの確かな徴であり、自分たちが世の終わりの裁きにおいて救われることの保証であった。しかし、パウロは、「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではない」と記す。要するに、内面がユダヤ人である者、霊によって心に施された割礼を受けている者こそが真のユダヤ人だ、ということである。
ユダヤ人が絶対なものとしていた肉に施された割礼を、パウロは、なぜ、相対的なものと見なすことができたのか?それは、パウロが神の霊によって心の割礼を受けていたからである。それはパウロだけではない。悔い改めて、主イエス・キリストを信じた私たちも、同様に聖霊による心の割礼を受けた者たちである。それゆえ、私たちこそ、真のユダヤ人なのだ。パウロは、「その誉れは人からではなく、神から来る」と記している。これはユダヤ人という言葉が「ほめたたえる」という意味のユダを起源としていることと関係する。創世記29章35節に「レアはまた身ごもって男の子を産み、『今度こそ主をほめたたえ(ヤダ)よう』と言った。そこで、その子をユダと名付けた」と記されている。新しい命が誕生したその瞬間に、その子は「主をほめたたえる」、と命名された。ユダヤ人たちは、その名前の起源である、「主をほめたたえる」、という大切な役割を忘れて、ただ割礼の徴や、律法遵守に自らの立場を築いていたのである。これがパウロの言う「外見上のユダヤ人、外見上の割礼」ということである。中身がない、上っ面だけ、ということである。
これは、ユダヤ人だけに突きつけられているのではなく、私たちも同様である。洗礼を受けて新しい命をいただくのは、「主をほめたたえる」ためである。私たちが真のキリスト者であり真の受洗者である、という何よりの証は、主を賛美することである。信仰生活を続けるうちに、この賛美や喜びが失われることこそが深刻なことである。自分の信仰が弱いとか、洗礼の記憶が色褪せていくことなど大した問題ではない。大切なのは、遣わされた場所で、そして何よりも毎週の礼拝で、精一杯、主を賛美しているのかいないのか、それが真のキリスト者の指標である。
