2022.4.10 の週報掲載の説教
「復活のキリストの光が輝く」 教師 鈴木 美津子
“起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で主の栄光があなたの上に輝く。” (イザヤ書60章1-2節)
この言葉の中に「愛」という語は用いられていません。しかし、この言葉の中には、光と闇という表象を通して「愛」が、暗示されています。「光」が愛を意味しているということです。
では、闇は何を表しているのでしょう。この聖書の言葉が語られた背景を踏まえると、不安や混乱を意味していると思われます。この言葉が向けられた先には、これから何処へ向かうのか大きな不安を抱えた人々がいました。更に、そこには人々の悲しみや失望といった、より複雑な感情も入り混じっていました。
他方、光については二つのことが言及されています。第一は神様のことです。これは、世界が暗闇に覆われていると思える時であってもあなたは一人ではない、神様があなたと共にいる、どんなに孤独に思える時であってもあなたは、愛されるべき存在であるということです。
第二には「起きよ、光を放て」との呼びかけは、この預言の聴衆に対してです。これは、人に不可能なことを告げているわけではありません。いかに暗い道を歩んでいる時であっても、人は光となることができる、あなたたち自身が世の暗闇を照らす光であるということなのです。
わたしたちは、生きていく上で自分に何ができるのかと戸惑うことがあります。自分がこれから何処へ向かうのか、不安の中を歩むことがあります。誰かと対立の只中にいるときもあります。そのような暗闇の中でも輝きうるものが愛です。誰かを愛すること、自分が愛されている存在であることを探すこと、このことはどのような場合でも、わたしたちには可能なことであり、その可能性が失われることは決してないのです。
わたしたちは、キリストを信じる者として、この暗闇の世界にあって神様を信じ、祈る教会の姿を示すことができます。孤独な人、寄る辺のない人、病に悩む人などを慰め励ます者、共に喜ぶ者として、復活の希望の光を灯す者として歩むことができます。
今、世界の闇のなかに復活のキリストの光が輝いています。
2022.4.3 の週報掲載の説教
2022.4.3 の週報掲載の説教
<2020年9月6日の説教から>
ルカによる福音書8章40節~48節
『安心して行きなさい』 牧師 三輪地塩
イエスは、12年間も出血が止まらない病気を患った女性に遭遇した。この類の出血は、レビ記15章25節以下によれば、宗教的な汚れを持つと考えられており、出血のある女性と接触した人は誰でも汚れる、と考えられていた。レビ記15章が適用されて社会から排除されていたようで、これが婦人病であるならば、思春期かそれ以降にこの病を発症し、多感な時期からそれ以降を闘病してきたことになる。まさに彼女は心身共に痛みの人生を歩んできたのであった。
この女性は、12年も医者の治療を受けたが一向に治らないばかりか「全財産を使い果たした」と述べられている。このことは、12年間社会生活から排除され、深い恥に貶められ、孤独と絶望の中に生きてきたと言える。更に言うと、悪い医者たちに“ぼったくられた”可能性も捨てきれない。つまり、肉体的苦痛のみならず、精神的苦痛と、経済的貧困を同時に受けていたのであった。旧約聖書の続編に「シラの書」38章には、当時の医者がどれだけ尊敬されていたかが記されている。「医者をその仕事のゆえに敬え。主が医者を造られたのだから」「過ちを犯すな。手をけがすな。あらゆる罪から心を清めよ。~。その上で医者にも助けを求めよ。主が医者を作られたのだから」。この当時のユダヤ社会では、信仰と医療が密接に繋がっていたことが分かる。だがこの女性は、信頼していた全ての者たちから裏切られていたのであった。
しかしこのような時にこそ、主の力と恵みは勢いよく激しく降り注がれる。全ての力を使い果たしたとき、全てを失ったときにこそ、神の力が備わるのだ。人間が自らの限界を知り、自らを虚しうして神の御前に立つとき、我々は真実の救いに触れるのだ。この女性もまた同じであった。長い期間の絶望、孤独、疎外感を闘い抜き、肉体も精神も経済も「無一文」になったとき、主に出会ったのだった。
彼女は群衆の中に紛れ込んでいたが、イエスは彼女を人々の前、日の当たる場所に引き出した。もう隠れて生きる必要はないと。旧約律法において、人々の前に出ることが許されなかった彼女が、イエス・キリストという更新された律法の下で、その命を回復するのである。
<2020年9月6日の説教から>
ルカによる福音書8章40節~48節
『安心して行きなさい』 牧師 三輪地塩
イエスは、12年間も出血が止まらない病気を患った女性に遭遇した。この類の出血は、レビ記15章25節以下によれば、宗教的な汚れを持つと考えられており、出血のある女性と接触した人は誰でも汚れる、と考えられていた。レビ記15章が適用されて社会から排除されていたようで、これが婦人病であるならば、思春期かそれ以降にこの病を発症し、多感な時期からそれ以降を闘病してきたことになる。まさに彼女は心身共に痛みの人生を歩んできたのであった。
この女性は、12年も医者の治療を受けたが一向に治らないばかりか「全財産を使い果たした」と述べられている。このことは、12年間社会生活から排除され、深い恥に貶められ、孤独と絶望の中に生きてきたと言える。更に言うと、悪い医者たちに“ぼったくられた”可能性も捨てきれない。つまり、肉体的苦痛のみならず、精神的苦痛と、経済的貧困を同時に受けていたのであった。旧約聖書の続編に「シラの書」38章には、当時の医者がどれだけ尊敬されていたかが記されている。「医者をその仕事のゆえに敬え。主が医者を造られたのだから」「過ちを犯すな。手をけがすな。あらゆる罪から心を清めよ。~。その上で医者にも助けを求めよ。主が医者を作られたのだから」。この当時のユダヤ社会では、信仰と医療が密接に繋がっていたことが分かる。だがこの女性は、信頼していた全ての者たちから裏切られていたのであった。
しかしこのような時にこそ、主の力と恵みは勢いよく激しく降り注がれる。全ての力を使い果たしたとき、全てを失ったときにこそ、神の力が備わるのだ。人間が自らの限界を知り、自らを虚しうして神の御前に立つとき、我々は真実の救いに触れるのだ。この女性もまた同じであった。長い期間の絶望、孤独、疎外感を闘い抜き、肉体も精神も経済も「無一文」になったとき、主に出会ったのだった。
彼女は群衆の中に紛れ込んでいたが、イエスは彼女を人々の前、日の当たる場所に引き出した。もう隠れて生きる必要はないと。旧約律法において、人々の前に出ることが許されなかった彼女が、イエス・キリストという更新された律法の下で、その命を回復するのである。
2022.3.13 の週報掲載の説教
2022.3.13 の週報掲載の説教
<2020年8月30日の説教から>
ルカによる福音書8章26節~39節
『自分たちのところから出て行ってもらいたい』
牧師 三輪地塩
彼は恐らく、暴力的な行動をとっていたのだろう。「家に住まないで墓場を住まいとしていた」(27節)、「この人は、鎖で繋がれ、足枷をはめられ、監視されていた」(29節)という言葉から、社会から排除された厄介者、市民権はおろか、生きる価値や意味などが見出されないような状況にあったことが伺える。この男は、人間としての尊厳を失い、命の価値を失っていた。このような彼の前に、イエスが現れた。悪霊は「神の子イエス、かまわないでくれ、頼むから苦しめないでほしい」と懇願したのだった。暗闇の中で強い光が当てられた人のように、彼は「やめてくれ」と願った。
イエスはこの男性、正確には、この男性に取り憑いた悪霊に対し、名は何かと尋ねると「レギオン」と答えた。これは、ローマ帝国の一師団の呼び方で、「6000人部隊」と呼ばれる軍隊のことを「レギオン」と呼ぶらしい。悪霊が軍団のように大勢いたことを示している。
この男の救いはとても奇妙である。「レギオン」と名乗る大勢の悪霊が豚の大群に入り込むと、豚の群れは崖を下って湖になだれ込んで溺れ死ぬという非常に不思議な結末を迎えるのだ。動物愛護の観点から言えば、豚が受けた“とばっちり”に些か気の毒な思いもするが、注目点はそこではない。なぜ豚なのか、にある。豚がゲラサにおいてどういう意味を持つ動物であるか。つまり、当時のユダヤ地方では不浄の動物として食用にされない豚であるが、この異邦人の土地ゲラサ(現在のヨルダン付近)においては最大の食材であり、財産である。トランス ヨルダンのゲラサにおいて豚とは価値が高く非常に高価な財産であり「富の象徴」でもあった。その豚の「大群」ともなれば、人間の命よりも財産価値が高いと見做される事もあっただろう。
この豚の群れの中に、悪霊が入り込み、悪霊に取り憑かれた豚が、崖から海になだれ込んで溺れてしまうのであった。つまり、社会生活から排除された迷惑千万なこの男の命が、神の目に大切なものである、という事である。苦しむ一人の魂をも、見捨てず、放置されない神がおられる。その恵みに、目を凝らしなさいと聖書は語るのだ。
<2020年8月30日の説教から>
ルカによる福音書8章26節~39節
『自分たちのところから出て行ってもらいたい』
牧師 三輪地塩
彼は恐らく、暴力的な行動をとっていたのだろう。「家に住まないで墓場を住まいとしていた」(27節)、「この人は、鎖で繋がれ、足枷をはめられ、監視されていた」(29節)という言葉から、社会から排除された厄介者、市民権はおろか、生きる価値や意味などが見出されないような状況にあったことが伺える。この男は、人間としての尊厳を失い、命の価値を失っていた。このような彼の前に、イエスが現れた。悪霊は「神の子イエス、かまわないでくれ、頼むから苦しめないでほしい」と懇願したのだった。暗闇の中で強い光が当てられた人のように、彼は「やめてくれ」と願った。
イエスはこの男性、正確には、この男性に取り憑いた悪霊に対し、名は何かと尋ねると「レギオン」と答えた。これは、ローマ帝国の一師団の呼び方で、「6000人部隊」と呼ばれる軍隊のことを「レギオン」と呼ぶらしい。悪霊が軍団のように大勢いたことを示している。
この男の救いはとても奇妙である。「レギオン」と名乗る大勢の悪霊が豚の大群に入り込むと、豚の群れは崖を下って湖になだれ込んで溺れ死ぬという非常に不思議な結末を迎えるのだ。動物愛護の観点から言えば、豚が受けた“とばっちり”に些か気の毒な思いもするが、注目点はそこではない。なぜ豚なのか、にある。豚がゲラサにおいてどういう意味を持つ動物であるか。つまり、当時のユダヤ地方では不浄の動物として食用にされない豚であるが、この異邦人の土地ゲラサ(現在のヨルダン付近)においては最大の食材であり、財産である。トランス ヨルダンのゲラサにおいて豚とは価値が高く非常に高価な財産であり「富の象徴」でもあった。その豚の「大群」ともなれば、人間の命よりも財産価値が高いと見做される事もあっただろう。
この豚の群れの中に、悪霊が入り込み、悪霊に取り憑かれた豚が、崖から海になだれ込んで溺れてしまうのであった。つまり、社会生活から排除された迷惑千万なこの男の命が、神の目に大切なものである、という事である。苦しむ一人の魂をも、見捨てず、放置されない神がおられる。その恵みに、目を凝らしなさいと聖書は語るのだ。
2022.3.6 の週報掲載の説教
2022.3.6 の週報掲載の説教
<2020年8月23日の説教から>
ルカによる福音書8章22節~25節
『先生、おぼれそうです』
牧師 三輪地塩
ガリラヤ湖を渡った弟子たちは、嵐と風に恐怖していた。彼らは漁師であり、嵐、波、風の動きについての「エキスパート」であった。イエスの最初の弟子であるペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネの兄弟たちも漁師だった。彼らにとってのガリラヤ湖はホームグラウンドであるため、ちょっとやそっとの嵐では驚かない。だがその彼らが「先生、おぼれそうです」と助けを求めたのだから一大事である。
彼らに海(湖)の知識があったからこそ、状況把握が出来たのであるが、もう一方で「知識を得たからこそ生じる恐れ」もあり得る。人間は知識も経験も必要であり、それによって快適な生活と進歩が支えられてきた。だが知識や経験が先立ち、自分たちが何でも知っていると思うとき、神を忘れさせる負の力、傲慢な思いを生じさせるのではなかろうか。
このとき弟子たちは、実に正しい行動をとっている。それこそが「先生、おぼれそうです」という言葉。一見すると、恐怖に取り付かれ、信仰を見失っているような叫びの言葉であるが、しかしよく考えてみると、彼らの矛先が、躊躇いなくイエス・キリストに向かっていることに注目したい。漁師として海(湖)のエキスパートとしての自分の知識や経験によって、打開することの出来ない恐怖が生じた時、彼らは主の名を呼び、主に助けを求めたのであった。
だが彼らは、あと一歩足りなかった。イエスは「あなた方の信仰はどこにあるのか」と問う。アメリカ大統領、フランクリン・ルーズベルトは、世界恐慌のさなか次のように言った。「私たちが恐れねばならない唯一のことは、『恐れ』そのものである」と。この言葉に勇気づけられた米国民は奮起し、恐れを乗り越え、大恐慌時代を生き延びたと言われる。
我々の人生の舟の艫にはキリストがおられる。そうであれば我々が恐れるのは「恐怖そのもの」であろう。恐怖とは、自分の心の中の恐れに恐れることである。キリストが共に居ませば、我々が恐れるのは、「自分自身が持つ恐怖心」のみである。
このコロナ禍にあって、世の中には多くの恐怖心が芽生えている。だが恐れることはない。嵐はキリストの支配の中にあるのだから。
<2020年8月23日の説教から>
ルカによる福音書8章22節~25節
『先生、おぼれそうです』
牧師 三輪地塩
ガリラヤ湖を渡った弟子たちは、嵐と風に恐怖していた。彼らは漁師であり、嵐、波、風の動きについての「エキスパート」であった。イエスの最初の弟子であるペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネの兄弟たちも漁師だった。彼らにとってのガリラヤ湖はホームグラウンドであるため、ちょっとやそっとの嵐では驚かない。だがその彼らが「先生、おぼれそうです」と助けを求めたのだから一大事である。
彼らに海(湖)の知識があったからこそ、状況把握が出来たのであるが、もう一方で「知識を得たからこそ生じる恐れ」もあり得る。人間は知識も経験も必要であり、それによって快適な生活と進歩が支えられてきた。だが知識や経験が先立ち、自分たちが何でも知っていると思うとき、神を忘れさせる負の力、傲慢な思いを生じさせるのではなかろうか。
このとき弟子たちは、実に正しい行動をとっている。それこそが「先生、おぼれそうです」という言葉。一見すると、恐怖に取り付かれ、信仰を見失っているような叫びの言葉であるが、しかしよく考えてみると、彼らの矛先が、躊躇いなくイエス・キリストに向かっていることに注目したい。漁師として海(湖)のエキスパートとしての自分の知識や経験によって、打開することの出来ない恐怖が生じた時、彼らは主の名を呼び、主に助けを求めたのであった。
だが彼らは、あと一歩足りなかった。イエスは「あなた方の信仰はどこにあるのか」と問う。アメリカ大統領、フランクリン・ルーズベルトは、世界恐慌のさなか次のように言った。「私たちが恐れねばならない唯一のことは、『恐れ』そのものである」と。この言葉に勇気づけられた米国民は奮起し、恐れを乗り越え、大恐慌時代を生き延びたと言われる。
我々の人生の舟の艫にはキリストがおられる。そうであれば我々が恐れるのは「恐怖そのもの」であろう。恐怖とは、自分の心の中の恐れに恐れることである。キリストが共に居ませば、我々が恐れるのは、「自分自身が持つ恐怖心」のみである。
このコロナ禍にあって、世の中には多くの恐怖心が芽生えている。だが恐れることはない。嵐はキリストの支配の中にあるのだから。
2022.2.13 の週報掲載の説教
2022.2.13 の週報掲載の説教
<2020年8月23日の説教から>
ルカによる福音書8章22節~25節
『先生、おぼれそうです』
牧師 三輪地塩
ガリラヤ湖を渡った弟子たちは、嵐と風に恐怖していた。彼らは漁師であり、嵐、波、風の動きについての「エキスパート」であった。イエスの最初の弟子であるペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネの兄弟たちも漁師だった。彼らにとってのガリラヤ湖はホームグラウンドであるため、ちょっとやそっとの嵐では驚かない。だがその彼らが「先生、おぼれそうです」と助けを求めたのだから一大事である。
彼らに海(湖)の知識があったからこそ、状況把握が出来たのであるが、もう一方で「知識を得たからこそ生じる恐れ」もあり得る。人間は知識も経験も必要であり、それによって快適な生活と進歩が支えられてきた。だが知識や経験が先立ち、自分たちが何でも知っていると思うとき、神を忘れさせる負の力、傲慢な思いを生じさせるのではなかろうか。
このとき弟子たちは、実に正しい行動をとっている。それこそが「先生、おぼれそうです」という言葉。一見すると、恐怖に取り付かれ、信仰を見失っているような叫びの言葉であるが、しかしよく考えてみると、彼らの矛先が、躊躇いなくイエス・キリストに向かっていることに注目したい。漁師として海の(湖)のエキスパートとしての自分の知識や経験によって、打開することの出来ない恐怖が生じた時、彼らは主の名を呼び、主に助けを求めたのであった。
だが彼らは、あと一歩足りなかった。イエスは「あなた方の信仰はどこにあるのか」と問う。アメリカ大統領、フランクリン・ルーズベルトは、世界恐慌のさなか次のように言った。「私たちが恐れねばならない唯一のことは、『恐れ』そのものである」と。この言葉に勇気づけられた米国民は奮起し、恐れを乗り越え、大恐慌時代を生き延びたと言われる。
我々の人生の舟の艫にはキリストがおられる。そうであれば我々が恐れるのは「恐怖そのもの」であろう。恐怖とは、自分の心の中の恐れに恐れることである。キリストが共に居ませば、我々が恐れるのは、「自分自身が持つ恐怖心」のみである。
このコロナ禍にあって、世の中には多くの恐怖心が芽生えている。だが恐れることはない。嵐はキリストの支配の中にあるのだから。
<2020年8月23日の説教から>
ルカによる福音書8章22節~25節
『先生、おぼれそうです』
牧師 三輪地塩
ガリラヤ湖を渡った弟子たちは、嵐と風に恐怖していた。彼らは漁師であり、嵐、波、風の動きについての「エキスパート」であった。イエスの最初の弟子であるペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネの兄弟たちも漁師だった。彼らにとってのガリラヤ湖はホームグラウンドであるため、ちょっとやそっとの嵐では驚かない。だがその彼らが「先生、おぼれそうです」と助けを求めたのだから一大事である。
彼らに海(湖)の知識があったからこそ、状況把握が出来たのであるが、もう一方で「知識を得たからこそ生じる恐れ」もあり得る。人間は知識も経験も必要であり、それによって快適な生活と進歩が支えられてきた。だが知識や経験が先立ち、自分たちが何でも知っていると思うとき、神を忘れさせる負の力、傲慢な思いを生じさせるのではなかろうか。
このとき弟子たちは、実に正しい行動をとっている。それこそが「先生、おぼれそうです」という言葉。一見すると、恐怖に取り付かれ、信仰を見失っているような叫びの言葉であるが、しかしよく考えてみると、彼らの矛先が、躊躇いなくイエス・キリストに向かっていることに注目したい。漁師として海の(湖)のエキスパートとしての自分の知識や経験によって、打開することの出来ない恐怖が生じた時、彼らは主の名を呼び、主に助けを求めたのであった。
だが彼らは、あと一歩足りなかった。イエスは「あなた方の信仰はどこにあるのか」と問う。アメリカ大統領、フランクリン・ルーズベルトは、世界恐慌のさなか次のように言った。「私たちが恐れねばならない唯一のことは、『恐れ』そのものである」と。この言葉に勇気づけられた米国民は奮起し、恐れを乗り越え、大恐慌時代を生き延びたと言われる。
我々の人生の舟の艫にはキリストがおられる。そうであれば我々が恐れるのは「恐怖そのもの」であろう。恐怖とは、自分の心の中の恐れに恐れることである。キリストが共に居ませば、我々が恐れるのは、「自分自身が持つ恐怖心」のみである。
このコロナ禍にあって、世の中には多くの恐怖心が芽生えている。だが恐れることはない。嵐はキリストの支配の中にあるのだから。
2022.2.6 の週報掲載の説教
2022.2.6 の週報掲載の説教
<2020年8月16日の説教から>
ルカによる福音書8章19節~21節
『神の言葉を聞いて行なう人たち』
牧師 三輪地塩
母と兄弟たちが何のためにイエスに会いに来たのかは分からない。マルコ福音書によれば「家族達はイエスに、宣教するのをやめさせようとした」とあるように、ガリラヤの田舎大工の息子が聖書を講義するなんておこがましい、という思いからかもしれない。いずれにせよ、ここでのイエスの答えは「私の母、私の兄弟とは、神の言葉を聞いて行なう人たちのことである」というものであった。
キリスト教会は、教会員同士に「〇〇兄」「〇〇姉」の敬称を付けることがあり、「キリストによる兄弟姉妹」という感覚を持つ事が多い。だが筆者自身、教会員を「兄弟姉妹」と呼ぶのは好きではない。その理由を言語化するのは難しいが、簡単に言うと「兄弟姉妹」というアイコンによって共同体のメンバーシップを括るとき、「信仰者の繋がり」とは別の感情、とりわけ日本においては、日本人的感情の「甘え」と呼ばれる「もたれ合い」が生まれるからだ。つまり、兄弟姉妹だから何をしても赦される、どんな罪深いことをしても赦される、どんなに罵倒しても赦される、という思い込みを助長させ、謙虚さを失わせ、罪を犯すことを自らに許可しようとするのである。それは教会を内部言語でしか通用しない内向きの共同体にしてしまうだけでなく、他者(外部)との共通項をも失わせる。「他者」を「世間」と言い換えても良いかもしれない。つまり、内部言語、内部感覚のみで共同体が形成されると教会は浮世離れするのだ。残念ながら、日本の教会にそれが存在していることを、自覚すべきであろうと思う。
このことから推察すると、イエスが自分の母や兄弟たちに対して、些か冷たい態度を取っているのにも頷くことが出来る。気持ちとしては、イエスの母や兄弟たちに同情の念を抱かずにはおれないが、しかしイエスが伝えようとしたのは、真の母、真の兄弟とは、「神の言葉を聞いて行なう人たちのことである」と言うことなのだ。血が繋がっているからより深く愛することもあるが、血が繋がっているために、より深く憎しみ合うことだってある。つまり「肉親・親族・血縁である」ことは、救いの観点からは何の担保にもならないのだ。真の信仰共同体となるために、形式的にではなく、真に聞き、真に行動する者でありたいと思う。
<2020年8月16日の説教から>
ルカによる福音書8章19節~21節
『神の言葉を聞いて行なう人たち』
牧師 三輪地塩
母と兄弟たちが何のためにイエスに会いに来たのかは分からない。マルコ福音書によれば「家族達はイエスに、宣教するのをやめさせようとした」とあるように、ガリラヤの田舎大工の息子が聖書を講義するなんておこがましい、という思いからかもしれない。いずれにせよ、ここでのイエスの答えは「私の母、私の兄弟とは、神の言葉を聞いて行なう人たちのことである」というものであった。
キリスト教会は、教会員同士に「〇〇兄」「〇〇姉」の敬称を付けることがあり、「キリストによる兄弟姉妹」という感覚を持つ事が多い。だが筆者自身、教会員を「兄弟姉妹」と呼ぶのは好きではない。その理由を言語化するのは難しいが、簡単に言うと「兄弟姉妹」というアイコンによって共同体のメンバーシップを括るとき、「信仰者の繋がり」とは別の感情、とりわけ日本においては、日本人的感情の「甘え」と呼ばれる「もたれ合い」が生まれるからだ。つまり、兄弟姉妹だから何をしても赦される、どんな罪深いことをしても赦される、どんなに罵倒しても赦される、という思い込みを助長させ、謙虚さを失わせ、罪を犯すことを自らに許可しようとするのである。それは教会を内部言語でしか通用しない内向きの共同体にしてしまうだけでなく、他者(外部)との共通項をも失わせる。「他者」を「世間」と言い換えても良いかもしれない。つまり、内部言語、内部感覚のみで共同体が形成されると教会は浮世離れするのだ。残念ながら、日本の教会にそれが存在していることを、自覚すべきであろうと思う。
このことから推察すると、イエスが自分の母や兄弟たちに対して、些か冷たい態度を取っているのにも頷くことが出来る。気持ちとしては、イエスの母や兄弟たちに同情の念を抱かずにはおれないが、しかしイエスが伝えようとしたのは、真の母、真の兄弟とは、「神の言葉を聞いて行なう人たちのことである」と言うことなのだ。血が繋がっているからより深く愛することもあるが、血が繋がっているために、より深く憎しみ合うことだってある。つまり「肉親・親族・血縁である」ことは、救いの観点からは何の担保にもならないのだ。真の信仰共同体となるために、形式的にではなく、真に聞き、真に行動する者でありたいと思う。