2022.9.25 の週報掲載の説教

2022.9.25 の週報掲載の説教
<2022年8月21日説教から>

『神の示された義』

ローマの信徒への手紙3章23-26節     牧 師 鈴木美津子

神は、御自身の義を世に対して公に示されるために、主イエス・キリストを十字架に架けられた。主イエスの十字架においてすべての人間の罪を裁くためである。最終的に、そして完全に、裁きは行われた。それは苦しく、激しい裁きであったが、主イエスは神の御怒りを完全に御自身に受けてくださったのである。それゆえ、パウロは、イエス・キリストの死が「今までに犯されて来た罪を神が忍耐をもって見のがして来られた(25)」ことに対する神の義を現わしている、と告げている。

もっと広い言い方をすれば、「一般恩恵は十字架にある」ということである。人間は、これまで罪を犯し続けてきたが、またこれからも繰り返していくであろう。そうであっても、神は即座に天から裁きを下すようなことはなさらない。「なぜ、罪を犯す人間に猶予を与えるのか。なぜすぐに裁かないのか」というと、それは神の一般恩恵(一般恩寵)であって、神はすべての人間に対して、恵みを与え、罪人が自分の罪に気がついて神を求めるよう猶予を与えておられるのである。それは神の大いなる忍耐である。神は、逐一裁くことをなさらない。神は、忍耐をもって罪を見逃して来られたのである。神は罪に対して怒っていないのではない。確かに怒っておられる。それも激しく怒っておられる。だから、放っておいて裁きを行わないわけではない。また神は中途半端な裁きはなさらない。神は、人間がこれまでに犯してきた全ての罪に対して、完全な裁きを行なわれる。決して、見過ごすことも、見逃されることもない。

神は私たちを正しい者として認めてくださるときでさえも、ご自身の義を曲げるようことは決してない。

その神は、ただ一度、完全な裁きを十字架の上で行なわれた。主イエス・キリストが代わりに裁きを受けてくださったので、私たちは神の御前に義なる者と認められたのだ。 それは、今の時に神ご自身の義を現わすためであり、また、主イエス・キリストを信じる者を義と認めるためであった。これこそが、法的な正しい神の裁きである。

キリストは私の代わりにその裁きを受けてくださったので、私は救われる」。このことを忘れてはならない。自分の罪を神の御前で認めて、悔い改めて、主イエス・キリストを唯一の救い主として信じるならば、神はその罪人を救って義と認めてくださるのである。