2022.9.4 の週報掲載の説教

2022.9.4 の週報掲載の説教
<2022年7月31日説教から>

『正しい者はいない。一人もいない。』
ローマの信徒への手紙3章9節~20節

牧 師 鈴木美津子

神の律法は、神の民イスラエルの罪を表わすものであった。だから、「律法の下にある者」、即ち「律法を自分に対する神の御言葉として、受け留めて聞き入れる者」が、律法から何を知るかというと、自分の罪深さを深く知ることであった。つまり、「罪の意識が生じる」ということ。神は、そのためにイスラエルを選び、律法を与えられたのである。

だから、律法を信じるユダヤ人は誰よりも心の謙る者になる筈であった。他人を見下すことなどできる筈もなく、見下すどころか、「自分こそ罪人だ」ということを真の意味で告白する者になり、「自分が救われた理由はただ神の恵みのみによる。他の人々にもその同じ恵みを分け与えたい」という気持ちになる筈であったのだ。 しかし、ユダヤ人たちは、神の意図したこととは、全く反対の状態になった。真の意味を何も理解せず、また神が彼らに律法を与えてくださった目的をも理解しなかった。

ところで、19節にある「律法の下にある人々に向けられている」という言葉は、ユダヤ人たちだけでなく、ローマ教会のキリスト者たちにも語られた言葉であることに気づかれただろうか。つまり、この言葉は、私たちにも語られているということ。私たちも神の契約の民である。私たちもアブラハムの子孫であり、罪深い者であって、罪を悔い改めなければ救われない者なのだ。そのことを、神が、私たちに話しかけておられる。そのことを、私たちこそ知らなければならない。全世界の中で誰よりも深く自分の罪を認識しなければならないのは、まさに私たちキリスト者なのである。

罪の認識が深くならなければ、真の礼拝をささげることはできない。その罪を真に神の御前に悔い改めて、神の赦しを受ける時、大きな喜びを得る。「罪の意識は律法によって生じる」とは、私たちの日々の生活の中でいつも起こっている。毎日、御言葉に親しみ、私たちに話しかけてくださる神の言葉に熱心に心を傾ける。それを心に刻み、真の飢え渇きをもって神を求める。私たちがそのような生活をすれば、自ずと罪の意識はもっともっと深くなるからである。罪の認識が深くなると、その思いは罪を犯さないように私たちを守るという働きもあるが、それは私たちに真の悔い改めを教え、神の恵みの中を喜んで歩む生涯を与えてくれるのである。