2021.8.29 の週報掲載の説教

2021.8.29 の週報掲載の説教
 <2020年3月22日の説教から>
ルカによる福音書5章17節~26節

『あなたの罪は赦された』
牧師 三輪地塩

 
中風の人の癒しの話し。この男は脳内出血、脳血管障害などにより、半身不随、四肢の麻痺があったと考えられる。彼は歩く事ができず、不自由な生活を強いられていた。この男には、友人たちが沢山いたらしく、彼を心配して集まってきた。

古代ユダヤ社会では、病気は「罪」との関係で考えられていたため、この中風の患者は罪に対する罰が下っていると考えられていた。彼は肩身の狭い生活を強いられ、治ることのない半身不随と一生付き合っていかなければならないとい絶望と共に過ごしていた。

だが彼の友人たちは諦めることなく、中風の男を床に乗せて担ぎ、イエスのいるところまで連れて行ったのだった。「床に乗せて」と表現されているが、「床」は、貧しい者たちが使う「ゴザ」「敷物」のような、簡素で低価格な庶民の道具のことを示している。この中風の男性は、病気だけでなく、経済的にも苦しみ、貧しく質素な暮らしをしていたのではないかと考えられる。

彼らは、マルコ福音書2章によると「4人の男性」と書かれているが、ここでは人数は分からない。重要な事は、彼らの執念とも言えるやり方でイエスの下につり降ろしたことにある。いくら仲の良い友人であっても、屋根を剥がして上からイエスと対面させるとは、大胆すぎるにもほどがある。今では「器物損壊」と「不法侵入」で現行犯逮捕だ。家の主人にとっては迷惑千万のこの行為。しかしイエスはこれを高く評価した。

イエスは、「その人たちの信仰をみて、人よ、あなたの罪は赦された」と宣言する。このイエスの好意的な言葉は、突拍子もないことをしでかした男たちの行動を、「素晴らしい信仰」と認めた言葉であった。友人たちのこの行動の素晴らしさは、中風患者が治りたいか否かによって行動しているのではなく、この患者にとって最も必要なことを自己判断で行っていることにある。

2021.8.22 の週報掲載の説教

2021.8.22 の週報掲載の説教
<2020年3月15日の説教から>

ルカによる福音書5章12節~16節

『主よ、御心ならば』
牧師 三輪地塩

レビ記14章には皮膚感染症についての細かなルールが載っている。治癒の判断は祭司が行なった。病が認定されると、完全にキレイになるまで社会から隔離されて生活しなければならなかった。隔離は「差別」を生ぜしめる。イエスの前に現れた彼は、重い皮膚病にかかっており、隔離状態であった。彼がイエスの前にいたのは、律法違反を犯してまでもイエスに近づきたかったからであろう。彼はイエスの噂を聞きつけ、この方なら病を癒し、状況を変えてくれるに違いない、という確信を得て律法違反を犯したのであった。一世一代の大博打である。

祭司たちが、病気の完治を判断するのには理由があった。病気は罪の結果とされてきたからである。病気は本人や先祖の罪が原因とされ、宗教的に置き換えられ理解されていた。だがイエスは、律法の縛りを超え、神の言葉の「祝福性」を読み取った。神の独り子イエス・キリストは、神の言葉(律法)を真の解釈によって、正しく読み直し、皮膚病の男に、「神の救い」を、語ったのであった。

「よろしい清くなれ」は、病気の概念を一変させる言葉である。祭司たちは、病人の体を見て、清いか清くないかを判断したが、イエスは、清くする方(神)の権威の下で、「なれ」と宣言する。祭司が「批評家」であるなら、イエスは「治癒の主体者」である。イエスに病気の批評と判断は必要ない。神としての権威の下で「治れ」と言えばそれが人を生かす言葉となる。

この男は、「イエスを見てひれ伏し、主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。これを聞いて、イエスは手を差し伸べ、その人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われた後、男はたちまち癒やされたのだった。

「主よ、御心ならば」という言葉には、どことなく「頼りなさ」を感じる。彼が受けた差別の数々は、彼自身を弱くされたのかもしれない。或いは、一向に治らず打ちひしがれた思い、不甲斐なさ、恐怖などが込められているのかもしれない。だが恐る恐るのこの言葉に対し、イエスは「よろしい、清くなれ」という。「よろしい」は彼の全てを受容し、肯定する言葉である。「清くなれ」は、イエスが全てを癒す主体者であることの宣言である。我々は、イエスの宣言の下で生きる、治癒を受ける客体となる。

 

2021.8.8 の週報掲載の説教

2021.8.8 の週報掲載の説教
<2020年3月8日の説教から>

ルカによる福音書5章1節~11節

しかし、お言葉ですから
牧師 三輪地塩

シモン(ペトロ)は、兄弟アンデレと共にガリラヤ湖畔で漁師を営んでいた。彼らは漁のプロだった。だがその日、シモンたちは夜通し苦労しても、何も獲ることが出来なかった。プロの漁師が、夜通しかけて獲れなかったのだからもう諦めるしかない。これ以上あがいてもどうにもならない。彼らの経験値から出された結論は、「今日は帰ろう」だった。

彼らが岸に戻り漁の網を洗っていたとき、イエスの話を聞こうと集まった群衆が押し寄せてきた。イエスは舟が2艘あるのを御覧になり、シモンの舟に乗り、沖に少しこぎ出して欲しいと言われた。シモンは応じて舟をこぎ出した。群衆への話が終わると、イエスは突然シモンに向かって、「沖に漕ぎ出し、網を降ろして、漁をしなさい」と言われた。シモンの立場になって考えてみれば、イエスの言葉は迷惑だったかもしれない。漁師が素人の指図を受けるのはプロの沽券に関わる。もしかすると、イエスのこの指図にシモンは憤慨したかもしれない。シモンは即座に「先生、私たちは、夜通し苦労しましたが、何も獲れませんでした」と反論した。この言葉に漁師のプライドが垣間見える。「これ以上は素人に何を言われても湖の状況は変わりませんよ」という自負心。だがこれはシモンのみならず現代に生きる我々にも同じことが言えよう。自分が誰よりも知っていると自負することや、誰にも負けない経験を持つ人は、誰の話も聞かなくなることが往々にして起こりやすい。自分より知識や経験が豊富にあると認めたくないからだ。恐らくシモンも最初はそう感じたと思うのだが、ここはさすがイエスの一番弟子となった人物である。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言ってイエスの言葉に従ったのである。自分の経験と誇りに掛けて、意固地になるのではなく、柔軟に主イエスの言葉を聞き、具体的に実践しているのだ。

神を信じるとは、人の知識や経験を超えて神が働かれることを信じることにある。「しかし、お言葉ですから」という言葉は、言い換えると「人間を相対化する」ことだ。絶対化され易い「自分」という存在を、神の光の下で「相対化」する。そのとき自分の傲慢さや自信過剰、過度のプライドが、神の下で小さく惨めなものとなる。「しかし、お言葉ですから」という言葉は、私を超えるあなたを信じます、という信仰告白となる。

2021.8.1 の週報掲載の説教

2021.8.1 の週報掲載の説教
<2020年3月1日の説教から>

ルカによる福音書4章38節~44節

人々はイエスに頼んだ
牧師 三輪地塩

イエスの一番弟子、シモンのしゅうとめが高熱にうなされていた。イエスは「熱を叱りつけ」て、しゅうとめの高熱を癒した。熱は去り、彼女はすぐに起き上がった。イエスの言葉と同時に回復が与えられたのだ。この奇跡を行なった日が重要である。40節には「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。」とある。癒やしを行なって欲しいのであれば、日が暮れる前からやって来て、なるべく早くから、イエスの癒やしに預かった方が、効率良く癒やしの業に預かることが出来たはずなのに、と思うかもしれない。だが、日が暮れる前でなければならなかった。なぜなら、この日が安息日であるから。ユダヤ社会は、日没と同時に次の日が始まる。だから民衆は、イエスのところに行きたかったけれども、安息日が終わる日没までは動くことが出来ず、日が暮れてからようやくイエスの元を尋ねることができたのだ。

当時は、宗教権威の律法学者・祭司たちの考える安息日規定に違反することは言語道断であった。例えどんなに重い病気であっても、高熱にうなされていても、安息日は外出が許可されていなかったし、医者も仕事をしてはならなかった。

だがイエスは、安息日規定を、宗教権威者たちのためにではなく、神の造り給う人々を救うために大きく解釈し、人々にとって最も必要なことを与えようとする。悪霊に取り憑かれていた男を安息日に癒し、高熱にうなされていたシモンのしゅうとめも安息日に癒したのであった。

イエスは、「神は生かす神なのか、殺す神なのか」という、問いを我々に与えた(ルカ福音書の6章9節になって、イエスの口から出てくる)。それは「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」。このような、問いかけをし、当時の、人を大切にしない安息日規定のあり方に、否を唱えたのだった。イエスの行いは、形式を守ることではなく、真の信仰と愛の実践である。現代の我々においても、信仰が形式的であってはならない。形を守ることからは、何らのキリスト的な香りは放たれないからだ。

2021.7.25 の週報掲載の説教

<2020年2月23日の説教から>

ルカによる福音書4章31節~37節

その言葉には権威がある
牧師 三輪地塩

イエスが会堂で教えを語り、人々がその教えに非常に驚いていた場面での出来事。会堂にけがれた霊に憑かれた男が入ってきてこう言った。「ああ、ナザレのイエス。かまわないでくれ。我々を滅ぼしにきたのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と。これは大変興味深い言葉である。悪霊は、キリストが「神の聖者」であることと、自分が悪霊であることを分かっている。自分が出て行かねばならない存在であることも、悪霊自身知っている。自分がこの男に取り憑いていることが「相応しくないこと」を知っているからこそ「かまわないでくれ」と懇願する。

この箇所で印象的なのは「権威」という言葉である。権威と聞くと、単に「偉い人」や「(政治的)権力者」のイメージを持ちがちである。だが権威とは、本来、その事柄についてよく知っている専門家ということである。聖書に出てくる権威は、「律法学者」や「祭司長」が有名である。彼等は聖書をよく勉強し、神についてよく知っていた(と自負していた)。それが当時の宗教的・信仰的権威者であった。

しかしここで注意したいのは、神に「ついて」よく知っている人は、必ずしも、神「を」知っている人とは異なるということだ。例えば、多くの人たちは「モーツァルトを知っている」と言うだろう。だがモーツァルトとランチをしたことがある、とか、家族ぐるみでモーツァルトと旅行に行ったことがある、という人はまず存在しない。モーツァルトに「ついて」知っているだけであって、モーツァルトの知識がある、という程度だ。知っているとしても、音楽の専門家・研究者であるか、国際モーツァルティウム財団と関係を持っているぐらいであろう。

それは律法学者も同じである。神に「ついて」知っている。つまり「知識」としての学者でしかなかった。だがキリストは、神「を」知っている、のみならず、「神そのものである」。それは神を知っているとは決定的に違う。キリストは、「神の身分でありながら」我々の前に現われた、とパウロが述べているとおり、キリストという存在がすでに「三位一体の神」そのものである。それが「律法学者の権威」と「キリストの権威」の決定的な違いである。この違いは極めて重要である。なぜなら、教会の内部にも「権威を取り違える罪」が潜むからである。

2021.7.11 の週報掲載の説教

<2020年2月16日の説教から>

イザヤ書61章1節~3節

ルカによる福音書4章14節~30節

『神の恵みの年を告げるため』
牧師 三輪地塩

預言者イザヤは61章で、バビロン捕囚後の苦しむ民に対し、喜びの知らせを語っている。61章1節の後半、「私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕われ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」。このようにイザヤ書61章は、慰め、自由、回復、解放というような実に明るく希望に満ちた預言が語られている。

だが2節には「主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日を告知して」とある。明るく希望溢れた文脈の預言とは異なり、この部分は復讐心に満ちている。つまり、バビロン捕囚から解放された喜びと同時に、捕囚を行ったバビロンへの復讐の思いを込めて「私たちの神はあなた方を赦しませんよ、報復しますよ」というのである。なぜなら、神はイスラエル人の神であり、イスラエルを導き、祝福を与える神であるから。そのイスラエルに悪さをするバビロンは、報復されるのは当然であるとイザヤは語る。これが当時のイスラエルの民の神理解であり、罪と罰、祝福と呪詛の理解であった。

だが、ルカにおいてはイザヤ61章はまた違った光を当てられる。ルカ4章18節。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

ユダヤ教の会堂シナゴーグに入りイザヤ書61章を読んだ。だが、上記の通り、61章はイエスによって改変されている。注意深い人はこのことに気付くだろう。何を改変しているのか?それは「復讐の削除」である。イザヤ61章2節の「主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日を告知して~~」の部分を削除し、解放、回復、自由、主の恵みのみを強調して伝えている。イエスは「復讐」の箇所を読まなかった。異邦人に敵対する全ての復讐心、報復の思いを取り除いたのだ。「報復は神のなさること。人間の業ではない」ということだろう。この世から、復讐や報復が取り除かれる日は、いつ来るのだろうか。