2021.9.12 の週報掲載の説教

2021.9.12 の週報掲載の説教
<2020年4月5日の説教から>

ルカによる福音書5章33節~39節

『新しい葡萄酒は、新しい革袋に』
牧師 三輪地塩

現在「宗教的断食」をすることは殆どない。体調維持のためのデトックス効果を期待して「断食道場」に通う人がいるぐらいである。或いは安保闘争や学生紛争でハンガーストライキをした若かりしの時分を懐かしむ人はいるかもしれない。

イエスの時代のファリサイ派たちは、宗教行為として断食をしていた。断食にも種類があり、モーセの律法に定められた「年に一度の7月10日の断食」、「エルサレム滅亡とバビロン捕囚を記念した断食(4、5、7、10月)。ファリサイ派が独自に行なう月曜と木曜の断食である。イエスの考えとは真逆なファリサイ派たちはこのような「厳格な律法遵守主義」を貫く者たちであった。

古来、「宗教」と「断食」は切っても切り離せない関係にあった。仏教、ヒンドゥー教、イスラム教など世界の宗教にも断食はある。だが断食は「行為それ自体」が崇高なものになってしまい、断食の「意味」を失った「形骸化された形式主義」に陥る危険も伴う。それはイエスが最も危惧し、嫌っていた態度でもあった。35節には「しかし花婿が奪い取られる時が来る。その時には彼らは、断食する事になる」とある。イエスは断食自体を否定しているわけでなく、形式的な信仰であってはならない、と言うのである。

断食は、本来苦しく厳しい行為である。だが、その行為が、厳しいものであるがゆえに「個人的な努力」「我慢強さ」に注目が集まりがちだ。そこから派生し、「断食している姿を人々に見せつける優越感」「信仰深さのアピール」にも繋がってしまう。

イザヤ書58章4節以下にこう書かれている。「断食しながらいさかいを起こし、神に反逆する。それが断食の姿であろうか。本当の断食とは、悪の束縛を断ち、軛をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。飢えた人に必要な食事を与え、さまよう貧しい人を招きいれ、裸の人には衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまない事である」。預言者イザヤ(第3イザヤ)を通して明確に語られている。我々は、真の信仰とは何であり、何をすることが神の御心であるのかが問われている。あなた自身の栄光ではなく「神の栄光」なのだ。