2022.9.4 の週報掲載の説教
<2022年7月31日説教から>
『正しい者はいない。一人もいない。』
ローマの信徒への手紙3章9節~20節
牧 師 鈴木美津子
神の律法は、神の民イスラエルの罪を表わすものであった。だから、「律法の下にある者」、即ち「律法を自分に対する神の御言葉として、受け留めて聞き入れる者」が、律法から何を知るかというと、自分の罪深さを深く知ることであった。つまり、「罪の意識が生じる」ということ。神は、そのためにイスラエルを選び、律法を与えられたのである。
だから、律法を信じるユダヤ人は誰よりも心の謙る者になる筈であった。他人を見下すことなどできる筈もなく、見下すどころか、「自分こそ罪人だ」ということを真の意味で告白する者になり、「自分が救われた理由はただ神の恵みのみによる。他の人々にもその同じ恵みを分け与えたい」という気持ちになる筈であったのだ。 しかし、ユダヤ人たちは、神の意図したこととは、全く反対の状態になった。真の意味を何も理解せず、また神が彼らに律法を与えてくださった目的をも理解しなかった。
ところで、19節にある「律法の下にある人々に向けられている」という言葉は、ユダヤ人たちだけでなく、ローマ教会のキリスト者たちにも語られた言葉であることに気づかれただろうか。つまり、この言葉は、私たちにも語られているということ。私たちも神の契約の民である。私たちもアブラハムの子孫であり、罪深い者であって、罪を悔い改めなければ救われない者なのだ。そのことを、神が、私たちに話しかけておられる。そのことを、私たちこそ知らなければならない。全世界の中で誰よりも深く自分の罪を認識しなければならないのは、まさに私たちキリスト者なのである。
罪の認識が深くならなければ、真の礼拝をささげることはできない。その罪を真に神の御前に悔い改めて、神の赦しを受ける時、大きな喜びを得る。「罪の意識は律法によって生じる」とは、私たちの日々の生活の中でいつも起こっている。毎日、御言葉に親しみ、私たちに話しかけてくださる神の言葉に熱心に心を傾ける。それを心に刻み、真の飢え渇きをもって神を求める。私たちがそのような生活をすれば、自ずと罪の意識はもっともっと深くなるからである。罪の認識が深くなると、その思いは罪を犯さないように私たちを守るという働きもあるが、それは私たちに真の悔い改めを教え、神の恵みの中を喜んで歩む生涯を与えてくれるのである。
2022.8.28 の週報掲載の説教
2022.8.28 の週報掲載の説教
<2022年7月24日説教から>
『神は真実なお方である』
ローマの信徒への手紙3章1-8節
牧 師 鈴木美津子
神の真実は一体どこに現されたのか?それは主イエス・キリストの十字架の死と復活によってである。パウロは、「救いは律法を善い行いによって得られるのではなく、主イエスの十字架と復活によって罪人を赦し、義として下さった神の恵みを信じることによってのみ与えられる」、と語る。しかし、ユダヤ人は「パウロの言葉は、善への努力や熱意を失わせる。なまじ良い人間であろうとして偽善に陥るならば、罪人であることに徹した方がよいなどという思いを生じる」、と反論する。パウロは「決してそうではない」、とユダヤ人の屁理屈を退ける。
パウロの語る「罪の赦しの福音」は、私たちを、善に熱心でない者、良いことのために努力しないで、むしろ悪に留まろうとする者を生じさせることは決してない。なぜなら、この福音は、十字架につけられた主イエスによって実現したものだからである。人間の罪に対する神の怒りと、神がご自分の約束にどこまでも誠実であるという神の真実は、主イエス・キリストの十字架において現された。
主イエスの十字架と復活は、私たちの不誠実や罪が、神の救いの約束を無にしてしまわないためのもの。私たちが受けるべき神の怒り、裁きを、主イエスが代って受けて下さったことによって、私たちに罪の赦しが与えられた。この主イエスの十字架の苦しみと死においてこそ、神の真実が誰にも明らかにされたのである。
この神の真実を見つめるなら、そこには、「人の犯した罪が救いを明らかにするなら、罪を犯した方がよい」などという屁理屈が入り込む余地はない。逆に言えば、主イエスの十字架における神の真実を真剣に見つめることがなければ、私たちは、ユダヤ人のように間違った理解に陥って屁理屈をこね、自分の罪を真剣に見つめて悔い改めることをしないで、かえって罪の中に安住するための口実にしてしまうであろう。
私たちが、私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さり、復活して新しい命を与えて下さった主イエスの救いを受け留めるとき、主イエスとの交わりに真に生きるとき、「私たちの罪のゆえに神の真実が無になることはない」という御言葉が私たちをどんな時にも支えるのである。私たちは常に罪に陥ってしまうような愚かで弱い者であるが、この神の真実に支えられているので、御心に適った歩みを求めていくことができるのである。
<2022年7月24日説教から>
『神は真実なお方である』
ローマの信徒への手紙3章1-8節
牧 師 鈴木美津子
神の真実は一体どこに現されたのか?それは主イエス・キリストの十字架の死と復活によってである。パウロは、「救いは律法を善い行いによって得られるのではなく、主イエスの十字架と復活によって罪人を赦し、義として下さった神の恵みを信じることによってのみ与えられる」、と語る。しかし、ユダヤ人は「パウロの言葉は、善への努力や熱意を失わせる。なまじ良い人間であろうとして偽善に陥るならば、罪人であることに徹した方がよいなどという思いを生じる」、と反論する。パウロは「決してそうではない」、とユダヤ人の屁理屈を退ける。
パウロの語る「罪の赦しの福音」は、私たちを、善に熱心でない者、良いことのために努力しないで、むしろ悪に留まろうとする者を生じさせることは決してない。なぜなら、この福音は、十字架につけられた主イエスによって実現したものだからである。人間の罪に対する神の怒りと、神がご自分の約束にどこまでも誠実であるという神の真実は、主イエス・キリストの十字架において現された。
主イエスの十字架と復活は、私たちの不誠実や罪が、神の救いの約束を無にしてしまわないためのもの。私たちが受けるべき神の怒り、裁きを、主イエスが代って受けて下さったことによって、私たちに罪の赦しが与えられた。この主イエスの十字架の苦しみと死においてこそ、神の真実が誰にも明らかにされたのである。
この神の真実を見つめるなら、そこには、「人の犯した罪が救いを明らかにするなら、罪を犯した方がよい」などという屁理屈が入り込む余地はない。逆に言えば、主イエスの十字架における神の真実を真剣に見つめることがなければ、私たちは、ユダヤ人のように間違った理解に陥って屁理屈をこね、自分の罪を真剣に見つめて悔い改めることをしないで、かえって罪の中に安住するための口実にしてしまうであろう。
私たちが、私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さり、復活して新しい命を与えて下さった主イエスの救いを受け留めるとき、主イエスとの交わりに真に生きるとき、「私たちの罪のゆえに神の真実が無になることはない」という御言葉が私たちをどんな時にも支えるのである。私たちは常に罪に陥ってしまうような愚かで弱い者であるが、この神の真実に支えられているので、御心に適った歩みを求めていくことができるのである。
2022.8.14 の週報掲載の説教
2022.8.14 の週報掲載の説教
<2022年7月17日説教から>
『心の割礼』
ローマの信徒への手紙2章17節~29節
牧 師 鈴木美津子
割礼は、ユダヤ人にとって、神の民であることの確かな徴であり、自分たちが世の終わりの裁きにおいて救われることの保証であった。しかし、パウロは、「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではない」と記す。要するに、内面がユダヤ人である者、霊によって心に施された割礼を受けている者こそが真のユダヤ人だ、ということである。
ユダヤ人が絶対なものとしていた肉に施された割礼を、パウロは、なぜ、相対的なものと見なすことができたのか?それは、パウロが神の霊によって心の割礼を受けていたからである。それはパウロだけではない。悔い改めて、主イエス・キリストを信じた私たちも、同様に聖霊による心の割礼を受けた者たちである。それゆえ、私たちこそ、真のユダヤ人なのだ。パウロは、「その誉れは人からではなく、神から来る」と記している。これはユダヤ人という言葉が「ほめたたえる」という意味のユダを起源としていることと関係する。創世記29章35節に「レアはまた身ごもって男の子を産み、『今度こそ主をほめたたえ(ヤダ)よう』と言った。そこで、その子をユダと名付けた」と記されている。新しい命が誕生したその瞬間に、その子は「主をほめたたえる」、と命名された。ユダヤ人たちは、その名前の起源である、「主をほめたたえる」、という大切な役割を忘れて、ただ割礼の徴や、律法遵守に自らの立場を築いていたのである。これがパウロの言う「外見上のユダヤ人、外見上の割礼」ということである。中身がない、上っ面だけ、ということである。
これは、ユダヤ人だけに突きつけられているのではなく、私たちも同様である。洗礼を受けて新しい命をいただくのは、「主をほめたたえる」ためである。私たちが真のキリスト者であり真の受洗者である、という何よりの証は、主を賛美することである。信仰生活を続けるうちに、この賛美や喜びが失われることこそが深刻なことである。自分の信仰が弱いとか、洗礼の記憶が色褪せていくことなど大した問題ではない。大切なのは、遣わされた場所で、そして何よりも毎週の礼拝で、精一杯、主を賛美しているのかいないのか、それが真のキリスト者の指標である。
<2022年7月17日説教から>
『心の割礼』
ローマの信徒への手紙2章17節~29節
牧 師 鈴木美津子
割礼は、ユダヤ人にとって、神の民であることの確かな徴であり、自分たちが世の終わりの裁きにおいて救われることの保証であった。しかし、パウロは、「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではない」と記す。要するに、内面がユダヤ人である者、霊によって心に施された割礼を受けている者こそが真のユダヤ人だ、ということである。
ユダヤ人が絶対なものとしていた肉に施された割礼を、パウロは、なぜ、相対的なものと見なすことができたのか?それは、パウロが神の霊によって心の割礼を受けていたからである。それはパウロだけではない。悔い改めて、主イエス・キリストを信じた私たちも、同様に聖霊による心の割礼を受けた者たちである。それゆえ、私たちこそ、真のユダヤ人なのだ。パウロは、「その誉れは人からではなく、神から来る」と記している。これはユダヤ人という言葉が「ほめたたえる」という意味のユダを起源としていることと関係する。創世記29章35節に「レアはまた身ごもって男の子を産み、『今度こそ主をほめたたえ(ヤダ)よう』と言った。そこで、その子をユダと名付けた」と記されている。新しい命が誕生したその瞬間に、その子は「主をほめたたえる」、と命名された。ユダヤ人たちは、その名前の起源である、「主をほめたたえる」、という大切な役割を忘れて、ただ割礼の徴や、律法遵守に自らの立場を築いていたのである。これがパウロの言う「外見上のユダヤ人、外見上の割礼」ということである。中身がない、上っ面だけ、ということである。
これは、ユダヤ人だけに突きつけられているのではなく、私たちも同様である。洗礼を受けて新しい命をいただくのは、「主をほめたたえる」ためである。私たちが真のキリスト者であり真の受洗者である、という何よりの証は、主を賛美することである。信仰生活を続けるうちに、この賛美や喜びが失われることこそが深刻なことである。自分の信仰が弱いとか、洗礼の記憶が色褪せていくことなど大した問題ではない。大切なのは、遣わされた場所で、そして何よりも毎週の礼拝で、精一杯、主を賛美しているのかいないのか、それが真のキリスト者の指標である。
2022.8.7 の週報掲載の説教
2022.8.7 の週報掲載の説教
<2022年7月10日説教から>
『神の御前で義とされるのは誰か』
ローマの信徒への手紙2章12節~16節
牧 師 鈴木美津子
「律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び
また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれる
(12)」。当時、ユダヤ人たちは、律法を持っていないが故に、異邦
人を罪人と見下していた。自分たちはモーセの律法を持っているか
ら正しく、異邦人は持っていないから罪人であるとさばいたのであ
る。それが彼らの基準であった。パウロは、それもひっくり返した。
神の裁きは、ユダヤ人の基準や彼らの物差しで計られることではな
い。律法を持っているということでユダヤ人が優位になることはな
いからである。
パウロは、律法を持たなくても、御言葉を知らなくても、神の像に
創られた人間には、たとえ不完全であっても必ず良心が与えられ
ている、と言う。なぜなら、聖書を知らない者が父母を敬う時、彼
らは父母を敬え、という律法を知らなくても、律法の通り行ってい
るからである。しかし、間違ってはならないのはその良心で救われ
る、ということではない。
では、裁きの日にどうなるのか。それは、16節の「そのことは、
神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリス
ト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになる」の通りである。
律法を与えられたユダヤ人も、律法を持たない異邦人も、また全て
の者が等しくキリストの御前に立たされ、キリストによって裁かれ
ると、聖書は約束する。滅びる者もまたキリストと無関係には滅び
ない。これが私たちの慰めであり、最後の審判についての聖書の回
答である。この世においては、不公平であると思われたり、納得の
いかないことはいくらでもある。しかし、最後の審判の日、それが
公平な光の中に置かれ、すべての者が納得するばかりか、キリスト
の正しい裁きに圧倒されるのである。このキリストの裁きが、私た
ちの希望である。
私たちは、毎週の礼拝で「かしこより来たりて生けるものと死ぬ
る者とを裁き給わん(使徒信条)」、と告白する。十字架で死ぬほど
に私たちを愛し、滅びに向かって歩んでいた私たちを見つけ出し、
救い出してくださる主イエス。生涯共に歩んでくださる主イエス
が、私たちの裁き主なのである。私たちにとって、これ以上に公平
でしかも安全な裁きがほかにあるだろうか。
<2022年7月10日説教から>
『神の御前で義とされるのは誰か』
ローマの信徒への手紙2章12節~16節
牧 師 鈴木美津子
「律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び
また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれる
(12)」。当時、ユダヤ人たちは、律法を持っていないが故に、異邦
人を罪人と見下していた。自分たちはモーセの律法を持っているか
ら正しく、異邦人は持っていないから罪人であるとさばいたのであ
る。それが彼らの基準であった。パウロは、それもひっくり返した。
神の裁きは、ユダヤ人の基準や彼らの物差しで計られることではな
い。律法を持っているということでユダヤ人が優位になることはな
いからである。
パウロは、律法を持たなくても、御言葉を知らなくても、神の像に
創られた人間には、たとえ不完全であっても必ず良心が与えられ
ている、と言う。なぜなら、聖書を知らない者が父母を敬う時、彼
らは父母を敬え、という律法を知らなくても、律法の通り行ってい
るからである。しかし、間違ってはならないのはその良心で救われ
る、ということではない。
では、裁きの日にどうなるのか。それは、16節の「そのことは、
神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリス
ト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになる」の通りである。
律法を与えられたユダヤ人も、律法を持たない異邦人も、また全て
の者が等しくキリストの御前に立たされ、キリストによって裁かれ
ると、聖書は約束する。滅びる者もまたキリストと無関係には滅び
ない。これが私たちの慰めであり、最後の審判についての聖書の回
答である。この世においては、不公平であると思われたり、納得の
いかないことはいくらでもある。しかし、最後の審判の日、それが
公平な光の中に置かれ、すべての者が納得するばかりか、キリスト
の正しい裁きに圧倒されるのである。このキリストの裁きが、私た
ちの希望である。
私たちは、毎週の礼拝で「かしこより来たりて生けるものと死ぬ
る者とを裁き給わん(使徒信条)」、と告白する。十字架で死ぬほど
に私たちを愛し、滅びに向かって歩んでいた私たちを見つけ出し、
救い出してくださる主イエス。生涯共に歩んでくださる主イエス
が、私たちの裁き主なのである。私たちにとって、これ以上に公平
でしかも安全な裁きがほかにあるだろうか。
2022.7.31 の週報掲載の説教
2022.7.31 の週報掲載の説教
<2022年7月3日説教から>
『神は人を分け隔てしない』
ローマの信徒への手紙2章6節~11節
牧師 鈴木 美津子
聖書は、「神が忍耐強く善を行う者には永遠の命を与え、真理ではなく不義に従う者には怒りと憤りを示される」と一貫して教えている。だから、私たちはそのために、忍耐強く善を行なう努力をしなければならないのか。決してそうではない。なぜなら、聖書における「善」は、神のことであって、「善を行う」とは神の掟に適うことを意味するからである。ユダヤ人はもとより異邦人も、神の掟を行えば命を得ることができ、神の掟に従わないならば滅びを招く。つまり、人間が忍耐強く善を行なったとしても、栄光と誉れと不滅のもの、つまり永遠の命を得ることができる者はだれ一人いないのである。
では、どうすれば、永遠の命の救いを得ることができるのか。キリストの福音を信じ、救いに預かることである。神は、私たち人間を憐れんで、豊かな慈愛と寛容と忍耐を持って、独り子主イエス・キリストを世に遣わされた。主イエスは、私たちが自分の上に蓄え続けた神の怒り、また最後の審判において、私たちの上に下るはずの神の怒りを、すべて代って引き受けて下さったのである。この大いなる神の恵みによって、私たちは悔改めへと導かれた。これが神の救いの御業、これが私たちの救いである。この救いは、私たちが忍耐強く善を行うことによって得られるのではない。私たちが、この救いにあずかるために欠かすことのできないことは、 自分自身の罪をはっきりと知り、その罪に対する神の怒り、裁きを、他人事としてではなく自分の問題として受け止めることである。自分の罪に対する神の怒り、裁きを真正面から見つめることによってこそ、主イエスによる罪の赦し、救いが自分に与えられていることをもはっきりと見ることができるからである。
「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり」。この御言葉は、十字架の死から復活された主イエスにおいて、すでに実現している。そうだからこそ、主イエスを信じる私たちは、栄光と誉れと不滅のものを求めて忍耐強く善を行うことができるのである。
<2022年7月3日説教から>
『神は人を分け隔てしない』
ローマの信徒への手紙2章6節~11節
牧師 鈴木 美津子
聖書は、「神が忍耐強く善を行う者には永遠の命を与え、真理ではなく不義に従う者には怒りと憤りを示される」と一貫して教えている。だから、私たちはそのために、忍耐強く善を行なう努力をしなければならないのか。決してそうではない。なぜなら、聖書における「善」は、神のことであって、「善を行う」とは神の掟に適うことを意味するからである。ユダヤ人はもとより異邦人も、神の掟を行えば命を得ることができ、神の掟に従わないならば滅びを招く。つまり、人間が忍耐強く善を行なったとしても、栄光と誉れと不滅のもの、つまり永遠の命を得ることができる者はだれ一人いないのである。
では、どうすれば、永遠の命の救いを得ることができるのか。キリストの福音を信じ、救いに預かることである。神は、私たち人間を憐れんで、豊かな慈愛と寛容と忍耐を持って、独り子主イエス・キリストを世に遣わされた。主イエスは、私たちが自分の上に蓄え続けた神の怒り、また最後の審判において、私たちの上に下るはずの神の怒りを、すべて代って引き受けて下さったのである。この大いなる神の恵みによって、私たちは悔改めへと導かれた。これが神の救いの御業、これが私たちの救いである。この救いは、私たちが忍耐強く善を行うことによって得られるのではない。私たちが、この救いにあずかるために欠かすことのできないことは、 自分自身の罪をはっきりと知り、その罪に対する神の怒り、裁きを、他人事としてではなく自分の問題として受け止めることである。自分の罪に対する神の怒り、裁きを真正面から見つめることによってこそ、主イエスによる罪の赦し、救いが自分に与えられていることをもはっきりと見ることができるからである。
「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり」。この御言葉は、十字架の死から復活された主イエスにおいて、すでに実現している。そうだからこそ、主イエスを信じる私たちは、栄光と誉れと不滅のものを求めて忍耐強く善を行うことができるのである。
2022.7.24 の週報掲載の説教
2022.7.24 の週報掲載の説教
<2022年6月26日説教から>
『あなたは神の憐みを軽んじるのですか?』
ローマの信徒への手紙2章1節~5節
牧師 鈴木 美津子
「弁解の余地はない」。神の民であるユダヤ人たちに向けられた神の怒りと裁きは、より厳しいものであった。彼らは、神から憐れみを受けた民、また受けている民である。 しかし、彼らは、その神の憐れみを勘違いしてしまった。神の憐れみがあまりも大きすぎたために、自分たちは裁かれることがないかのように考えてしまったのである。そうして、彼らは神の豊かな慈愛と寛容と忍耐を軽んじ、他の人を裁くようになった。そのような彼らに、パウロは「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えている。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現される」(5)、と告げる。
聖書は、常に、自分自身を何よりも先に裁かなければならない、と教えている。自分自身の罪に真剣に向き合うことは、私たちを謙らせ、他の人に対して憐れみ深くさせるからである。それはまた、私たちに罪に対する戦いについての知恵をも備えさせる。そして最も重要なことは、そのことが、クリスチャンの全生涯において悔い改めと真実な信仰をもって生きる、ということを意味しているのである。だからこそ、神が大いなる御恵みによって、私たちを救ってくださったということ、私たちの主イエス・キリストとその十字架上の贖罪の御業によってのみ、私たちは神の御前に立ち得るのだということを、決して忘れてはならない。
神が、主イエスを死者の中から復活させられたことは、すべての人に、神が世を裁かれることを示す確かな証しである。それは、主イエス・キリストの十字架の死と復活が、主の日の裁きの先取りだからである。神の憐れみ、慈しみは、主イエス・キリストを通して、すべての人に現された。だから、ユダヤ人であっても、ギリシア人であっても、誰であっても真に自分の罪を裁く者は救われる。それが福音である。ユダヤ人であっても、ギリシア人であっても、誰であっても真に自分の罪を悔い改める者は救われる。主イエス・キリストの十字架の働きによって、私たちの罪は完全に取り除かれているからである。
十字架に死に引き渡され、三日目に復活させられた神の御子イエス・キリストこそ、来るべき時の神の怒りそして厳しい裁きから私たちを救ってくださるお方である。
<2022年6月26日説教から>
『あなたは神の憐みを軽んじるのですか?』
ローマの信徒への手紙2章1節~5節
牧師 鈴木 美津子
「弁解の余地はない」。神の民であるユダヤ人たちに向けられた神の怒りと裁きは、より厳しいものであった。彼らは、神から憐れみを受けた民、また受けている民である。 しかし、彼らは、その神の憐れみを勘違いしてしまった。神の憐れみがあまりも大きすぎたために、自分たちは裁かれることがないかのように考えてしまったのである。そうして、彼らは神の豊かな慈愛と寛容と忍耐を軽んじ、他の人を裁くようになった。そのような彼らに、パウロは「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えている。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現される」(5)、と告げる。
聖書は、常に、自分自身を何よりも先に裁かなければならない、と教えている。自分自身の罪に真剣に向き合うことは、私たちを謙らせ、他の人に対して憐れみ深くさせるからである。それはまた、私たちに罪に対する戦いについての知恵をも備えさせる。そして最も重要なことは、そのことが、クリスチャンの全生涯において悔い改めと真実な信仰をもって生きる、ということを意味しているのである。だからこそ、神が大いなる御恵みによって、私たちを救ってくださったということ、私たちの主イエス・キリストとその十字架上の贖罪の御業によってのみ、私たちは神の御前に立ち得るのだということを、決して忘れてはならない。
神が、主イエスを死者の中から復活させられたことは、すべての人に、神が世を裁かれることを示す確かな証しである。それは、主イエス・キリストの十字架の死と復活が、主の日の裁きの先取りだからである。神の憐れみ、慈しみは、主イエス・キリストを通して、すべての人に現された。だから、ユダヤ人であっても、ギリシア人であっても、誰であっても真に自分の罪を裁く者は救われる。それが福音である。ユダヤ人であっても、ギリシア人であっても、誰であっても真に自分の罪を悔い改める者は救われる。主イエス・キリストの十字架の働きによって、私たちの罪は完全に取り除かれているからである。
十字架に死に引き渡され、三日目に復活させられた神の御子イエス・キリストこそ、来るべき時の神の怒りそして厳しい裁きから私たちを救ってくださるお方である。
