<2019年5月5日の説教から>
マルコによる福音書15章16節-20節
『唾を吐きかけて拝む』
三輪 地塩
宮崎駿の映画『千と千尋の神隠し』で、千尋(ちひろ)という主人公が、湯婆婆(ゆばーば)と呼ばれる魔女の下で働く時、名前から下の部分を取られ、「千」(せん)と呼ばれ、湯婆婆に支配される場面がある。名前を奪われることは、その人自身にある尊厳を失うことになる。よく知られたことだが、アウシュビッツの看守も、ユダヤ人たちを氏名ではなく番号で呼ぶことによって、「そのひと性」を失わせるという手法を取り、ナンバリングされた「物」として扱った。
この聖書の場面でも同様に、「イエス」とは呼ばず「王」と呼ぶ。これは侮辱としての呼び名である。意図的に実名を伏せたのかどうかは分からないが、少なくとも、政治・軍事権力者たちが「全員揃って」、イエスを孤立させ、尊厳を侵害し、孤立させたことは明らかであろう。このような侮辱行為の中に「十字架」がある。
この侮辱をしたローマ兵について、考古学的なことであるが、この時のローマ兵は、本物のローマ人ではなく、サラリーを得て従事している外国人傭兵であった。だが、イタリア半島からエルサレムに多くのローマ人を連れてくるのはコスト的にも無駄なため、現地募集の方法を採っていたと考えられる。この時、ローマ軍を構成していたのは、イスラエルとは仲が悪かったシリア人であった。イスラエルはシリアと何度も戦争を繰り返し(現在に至るまで!)、喧嘩が絶えない関係であった。このような隣国との不和を巧みに利用した傭兵制度は、ユダヤ地方を抑え付けるには十分だった。傭兵たちの暴力はそれゆえに憎悪に満ちたものになっていたかもしれない。マルコによる福音書の読者は、ここで、あらゆる軽蔑と恥辱を受けながらも神に忠実を尽くした「預言者イザヤ」の「苦難の僕」(53章)を思い起こす。
キリスト教の「罪」概念を伝えると、たびたび「キリストを十字架に架けたのは私じゃないのに、なぜ我々は罪人と呼ばれるのか」と質問される。確かに「罪」に飛躍があるように思われるかもしれない。しかし、キリスト教信仰における「罪」とは、「実行犯」に対する罪だけではなく、その罪の計画者となり得る全ての者の罪、すなわち我々が本質的に持っている「内在的罪」の全てを含んでいるのである。
2020.1.5 の礼拝案内
週 報 75巻1号 2020.1.5
すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。 (ルカによる福音書2章49節~50節)
主 日 礼 拝 午前 10:30
<新年合同礼拝・聖餐式>
奏楽 板 垣 玲 子
<神の招き>
招 詞 詩編119編105節
*讃 詠 545b
*罪の告白と赦し 交読詩編5編12節~13節
*讃美歌 74
<神の言葉>
聖 書 申命記16章16節~17節(旧約P.307)
ルカによる福音書2章39節~52節 (新約P.104)
祈 り
*讃美歌 411
説 教 「少年イエス物語」 三 輪 地 塩
<神への応答>
*讃美歌 Ⅱ182
*日本キリスト教会信仰の告白
聖餐式 204
公 告
*献金感謝
*主の祈り (座席前そなえつけ)
*頌 栄 541
*派遣と祝福
*後 奏
聖餐補佐 松谷、三浦、安井、増田
*********************************************************
礼拝当番 (今週) 加藤、新畑、武政み、中山莉
(次週) 松谷、岩本、浜田、浜野
****************************************************
掃除当番 (今週) 松本、浜田、佐藤真、加藤ヨ
板垣、草野
(次週) 薄田、青木、志賀洋、越智
加藤純、平野、白川
☆礼拝・掃除当番が困難な方は遠慮なくお申出ください
すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。 (ルカによる福音書2章49節~50節)
主 日 礼 拝 午前 10:30
<新年合同礼拝・聖餐式>
奏楽 板 垣 玲 子
<神の招き>
招 詞 詩編119編105節
*讃 詠 545b
*罪の告白と赦し 交読詩編5編12節~13節
*讃美歌 74
<神の言葉>
聖 書 申命記16章16節~17節(旧約P.307)
ルカによる福音書2章39節~52節 (新約P.104)
祈 り
*讃美歌 411
説 教 「少年イエス物語」 三 輪 地 塩
<神への応答>
*讃美歌 Ⅱ182
*日本キリスト教会信仰の告白
聖餐式 204
公 告
*献金感謝
*主の祈り (座席前そなえつけ)
*頌 栄 541
*派遣と祝福
*後 奏
聖餐補佐 松谷、三浦、安井、増田
*********************************************************
礼拝当番 (今週) 加藤、新畑、武政み、中山莉
(次週) 松谷、岩本、浜田、浜野
****************************************************
掃除当番 (今週) 松本、浜田、佐藤真、加藤ヨ
板垣、草野
(次週) 薄田、青木、志賀洋、越智
加藤純、平野、白川
☆礼拝・掃除当番が困難な方は遠慮なくお申出ください
2020.1.5 週報掲載の説教
<2019年4月28日の説教から>
マルコによる福音書15章1節-15節
『イエスとバラバ』
三輪 地塩
2020年を新しい思いで迎えようとしている我々に「犯罪者バラバ」の箇所が示された。明けましておめでとうと言えない「バラバ釈放」について聖書は語る。
ピラトは、毎年ユダヤの慣習となっている「過越祭の恩赦」について民衆に「誰を釈放して欲しいかと」問うた。当時牢獄に入っていた者の一人に「バラバ」という男がおり、彼は政治犯であった。群衆は彼を釈放しろと要求する。もっと正確に言うならば「祭司長たちは、群衆を煽動し、イエスではなく「バラバを釈放せよ」と言わせた」のであった。
その結果釈放されたのはバラバであった。ピラトはイエスを群衆に示し、「この男が一体どんな悪事を働いたというのか」と問うも、群衆は取り合わず「イエスを十字架につけろ」「バラバを釈放せよ」と騒ぎ立てるのであった。ピラトは、これ以上群衆に騒がれてしまうと、混乱をきたすと考えたのだろう、祭司長たちの要求通りイエスを鞭で打ち、十字架の準備をするのである。
この箇所で重要なのは、10節「祭司長たちは、ねたみのためにイエスを引き渡した」ということにある。彼らの妬みの原因は「イエスが真実な人物であったから」である。祭司長たちは人一倍権威欲と名誉欲があり、誰からも尊敬されて一目置かれたいという欲を持っていたと思われる。だが自分たちにではなく、イエスに大勢の人たちが従った。イエスが、神の真実を語れば語るほど、人々は励まされ、神の言葉の恵みに気づいていく。しかし反比例するように、祭司長たちの権威は失われ、焦り、妬みを膨らませていくのである。イエスを排除しようとする彼らの企みと、その権力を持つ彼らは、民衆を煽動し、焚きつけ、イエスを悪人に仕立てて行こうとする。民衆はまんまと乗せられてしまう、無思慮な群衆の行動が、「十字架につけろ」「十字架につけろ」と繰り返される言葉で表現されている。心が痛くなる場面である。
我々の国はどうだろうか。我々の住んでいる町はどうだろうか。新しい年を迎え、われわれ民衆が無思慮であることを肝に銘じつつ、しかしキリストの福音と共に、「鳩のような素直さと、蛇のような賢さ」(マタイ10:16)によって、為政者に煽動されることなく、思慮深く歩む一年でありたい。
マルコによる福音書15章1節-15節
『イエスとバラバ』
三輪 地塩
2020年を新しい思いで迎えようとしている我々に「犯罪者バラバ」の箇所が示された。明けましておめでとうと言えない「バラバ釈放」について聖書は語る。
ピラトは、毎年ユダヤの慣習となっている「過越祭の恩赦」について民衆に「誰を釈放して欲しいかと」問うた。当時牢獄に入っていた者の一人に「バラバ」という男がおり、彼は政治犯であった。群衆は彼を釈放しろと要求する。もっと正確に言うならば「祭司長たちは、群衆を煽動し、イエスではなく「バラバを釈放せよ」と言わせた」のであった。
その結果釈放されたのはバラバであった。ピラトはイエスを群衆に示し、「この男が一体どんな悪事を働いたというのか」と問うも、群衆は取り合わず「イエスを十字架につけろ」「バラバを釈放せよ」と騒ぎ立てるのであった。ピラトは、これ以上群衆に騒がれてしまうと、混乱をきたすと考えたのだろう、祭司長たちの要求通りイエスを鞭で打ち、十字架の準備をするのである。
この箇所で重要なのは、10節「祭司長たちは、ねたみのためにイエスを引き渡した」ということにある。彼らの妬みの原因は「イエスが真実な人物であったから」である。祭司長たちは人一倍権威欲と名誉欲があり、誰からも尊敬されて一目置かれたいという欲を持っていたと思われる。だが自分たちにではなく、イエスに大勢の人たちが従った。イエスが、神の真実を語れば語るほど、人々は励まされ、神の言葉の恵みに気づいていく。しかし反比例するように、祭司長たちの権威は失われ、焦り、妬みを膨らませていくのである。イエスを排除しようとする彼らの企みと、その権力を持つ彼らは、民衆を煽動し、焚きつけ、イエスを悪人に仕立てて行こうとする。民衆はまんまと乗せられてしまう、無思慮な群衆の行動が、「十字架につけろ」「十字架につけろ」と繰り返される言葉で表現されている。心が痛くなる場面である。
我々の国はどうだろうか。我々の住んでいる町はどうだろうか。新しい年を迎え、われわれ民衆が無思慮であることを肝に銘じつつ、しかしキリストの福音と共に、「鳩のような素直さと、蛇のような賢さ」(マタイ10:16)によって、為政者に煽動されることなく、思慮深く歩む一年でありたい。
2019.12.29 週報掲載の説教
<2019年4月14日の説教から>
『イエスを三度知らないという』
マルコによる福音書14章66節~72節
牧師 三輪地塩
この箇所は、レントや受難週の時期になると、何度も読む機会があるため、教会に長く来ている方々は、そらんじる事も出来るほど聞いてきただろう。弟子ペトロが、大祭司の邸宅の庭で、イエスとの関係を三度否定したのであるが、その理由は「周りが敵だらけの中、イエスとの関係を肯定してしまうと、自分の命が危うかったから」、つまり「恐怖が彼を否定させた」と解釈されうる。だが、ヨハネ福音書18章15節以下には、「シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は~~」と書かれており、イエスの「もう一人の弟子」と言われる人物が大祭司カイアファと知り合いであったことが示される。そうであるならば、この「三度の否認」は「命の危険」によるものではなく、他の蓋然性の高い理由を考えるならば「恥ずかしかったから否認した」ということにでもなり得るだろうか。遠藤周作の『沈黙』のテーマにもなるが、(踏絵の)キリストは、命の危険を押して殉教の道を行こうとする宣教師に対し「わたしを踏め」と迫る。このことについての信仰的判断については当該の小説に譲ることとして、もしペトロに命の危険が生じていなかったとすれば、情状酌量の余地はなくなる。ペトロは思ったのかもしれない。「今、目の前で裁かれようとしている、この犯罪者(とされている)、イエスの仲間であると思われるのは恥ずかしい」と。或いは「ガリラヤの片田舎から出てきたおのぼりさんが、意気揚々とエルサレムに入城してきたが、今や見る影もなく弱々しく、惨めに立たされ、尋問されている、あの人の仲間であると見られることが「恥ずかしい」と。少々極端な言い方をするならば、ここで起こっている出来事は、キリシタンの「踏み絵」のような信仰の戦いではなく、「クリスチャンであることを友人やご近所さんに隠そうとしてしまう、私たちの心の中の「それ」なのである。ペトロの三度の否認は、ペトロの「高尚な信仰の戦い」ではない。私たちの「日常に溢れている信仰者の内的な戦い」なのである。
『イエスを三度知らないという』
マルコによる福音書14章66節~72節
牧師 三輪地塩
この箇所は、レントや受難週の時期になると、何度も読む機会があるため、教会に長く来ている方々は、そらんじる事も出来るほど聞いてきただろう。弟子ペトロが、大祭司の邸宅の庭で、イエスとの関係を三度否定したのであるが、その理由は「周りが敵だらけの中、イエスとの関係を肯定してしまうと、自分の命が危うかったから」、つまり「恐怖が彼を否定させた」と解釈されうる。だが、ヨハネ福音書18章15節以下には、「シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は~~」と書かれており、イエスの「もう一人の弟子」と言われる人物が大祭司カイアファと知り合いであったことが示される。そうであるならば、この「三度の否認」は「命の危険」によるものではなく、他の蓋然性の高い理由を考えるならば「恥ずかしかったから否認した」ということにでもなり得るだろうか。遠藤周作の『沈黙』のテーマにもなるが、(踏絵の)キリストは、命の危険を押して殉教の道を行こうとする宣教師に対し「わたしを踏め」と迫る。このことについての信仰的判断については当該の小説に譲ることとして、もしペトロに命の危険が生じていなかったとすれば、情状酌量の余地はなくなる。ペトロは思ったのかもしれない。「今、目の前で裁かれようとしている、この犯罪者(とされている)、イエスの仲間であると思われるのは恥ずかしい」と。或いは「ガリラヤの片田舎から出てきたおのぼりさんが、意気揚々とエルサレムに入城してきたが、今や見る影もなく弱々しく、惨めに立たされ、尋問されている、あの人の仲間であると見られることが「恥ずかしい」と。少々極端な言い方をするならば、ここで起こっている出来事は、キリシタンの「踏み絵」のような信仰の戦いではなく、「クリスチャンであることを友人やご近所さんに隠そうとしてしまう、私たちの心の中の「それ」なのである。ペトロの三度の否認は、ペトロの「高尚な信仰の戦い」ではない。私たちの「日常に溢れている信仰者の内的な戦い」なのである。
2019.12.15 週報掲載の説教
<2019年4月7日説教から>
『イエスの裁判』
マルコによる福音書14章53節~65節
牧師 三輪地塩
イエスの活動は、律法学者たちの反感を買った。イエスが神の律法に違反しいるように、律法学者たちの目に映ったからである。しかしイエスは彼らの間違いを臆することなく追求した。
主イエスは、彼らとことなり、律法を文字どおりにではなく、律法の「文字」にではなく、「守るべき内容の意味」を大切にしようとされた。イエスは、神から与えられた律法の意味は「愛すること」であると再解釈したのであった。「神を愛し、隣人を愛する」ことこそが「最も重要な掟である」とイエスは述べた。
また、当時は罪人と見做されていた病人や障がい者たちを次々に癒やした。困っているからでも、不自由そうだからでもない。それは救いの副産物であり、最も重要なのは、魂の救い、永遠の命をうけること、にあった。「この人をもう誰も罪に問うことのないように」と語り、体の癒やしはその証拠となって表出した現象であった。
律法によって「罪人」と見做された者たち、社会の中で疎外されている者たちを、共に同じ食卓に呼び寄せ、主にある交わりに加えた。人間は特定の人だけが罪深い者であるのではなく、格差も価値の差もなく、皆が罪深く、皆が救いに値することを示す行為であった。しかしこのような行動は、律法学者には受入れがたく、そこに「殺意」が芽生えたのであった。
過越祭になり、イエスがエルサレムに入城した時、神殿を訪れたイエスは、境内で不当な商売がなされている様子と、それを許可している祭司・律法学者たちの姿を見て、「ここは強盗の巣だ。あなたがたが祈りの家を強盗の巣にしてしまった」と非難し、商売人たちの台をひっくり返した。これこそが、祭司長たちの目に「神殿への暴挙」「神に対する冒涜」と映り、十字架刑への道を決定的とした。表面的な「律法の遵守」を求めた律法学者に対し、その内実(つまり神の愛の豊かさ)を求めたイエスは、「文字を」遵守する者たちに十字架にかけられた。それは、「神の言」(ヨハネ福音書1章)が、「文字信奉者」によって極刑に処されることであった。だが我々は、神の「文字」ではなく「神の言」が真実であり、その言葉が、「愛の言葉」であることを知っている。クリスマスを迎える我々は、この「神の言」が来られたことの意味と、神の救いの内実に思いを寄せたい。
『イエスの裁判』
マルコによる福音書14章53節~65節
牧師 三輪地塩
イエスの活動は、律法学者たちの反感を買った。イエスが神の律法に違反しいるように、律法学者たちの目に映ったからである。しかしイエスは彼らの間違いを臆することなく追求した。
主イエスは、彼らとことなり、律法を文字どおりにではなく、律法の「文字」にではなく、「守るべき内容の意味」を大切にしようとされた。イエスは、神から与えられた律法の意味は「愛すること」であると再解釈したのであった。「神を愛し、隣人を愛する」ことこそが「最も重要な掟である」とイエスは述べた。
また、当時は罪人と見做されていた病人や障がい者たちを次々に癒やした。困っているからでも、不自由そうだからでもない。それは救いの副産物であり、最も重要なのは、魂の救い、永遠の命をうけること、にあった。「この人をもう誰も罪に問うことのないように」と語り、体の癒やしはその証拠となって表出した現象であった。
律法によって「罪人」と見做された者たち、社会の中で疎外されている者たちを、共に同じ食卓に呼び寄せ、主にある交わりに加えた。人間は特定の人だけが罪深い者であるのではなく、格差も価値の差もなく、皆が罪深く、皆が救いに値することを示す行為であった。しかしこのような行動は、律法学者には受入れがたく、そこに「殺意」が芽生えたのであった。
過越祭になり、イエスがエルサレムに入城した時、神殿を訪れたイエスは、境内で不当な商売がなされている様子と、それを許可している祭司・律法学者たちの姿を見て、「ここは強盗の巣だ。あなたがたが祈りの家を強盗の巣にしてしまった」と非難し、商売人たちの台をひっくり返した。これこそが、祭司長たちの目に「神殿への暴挙」「神に対する冒涜」と映り、十字架刑への道を決定的とした。表面的な「律法の遵守」を求めた律法学者に対し、その内実(つまり神の愛の豊かさ)を求めたイエスは、「文字を」遵守する者たちに十字架にかけられた。それは、「神の言」(ヨハネ福音書1章)が、「文字信奉者」によって極刑に処されることであった。だが我々は、神の「文字」ではなく「神の言」が真実であり、その言葉が、「愛の言葉」であることを知っている。クリスマスを迎える我々は、この「神の言」が来られたことの意味と、神の救いの内実に思いを寄せたい。
2019.12.1 週報掲載の説教
<2019年3月31日の説教から>
『ユダに裏切られ、イエス逮捕される』
マルコによる福音書14章43節~52節
牧師 三輪地塩
「たとえ、ご一緒に死なねばならなくても、あなたのことを知らないとは決して申しません」というペトロの力強い約束は、気の利いたおべっかになってしまった。この箇所は、「ユダの裏切り」であると共に「ペトロの裏切り」でもあり、「弟子たち全員の裏切り」でもある。
この箇所の最後51‐52節には、更に逃げる者がいた。この人物は、「裸で逃げ去る」という不思議な逃げ方をしている。聖書解釈者たちによって、この人は「ヨハネ」「ヤコブ」あるいはこの聖書記者である「マルコ本人」などと考えられてきた。だが、我々はこの記事が語り、問いかけらているのが、「人間の弱さと罪」であることに気づくべきであろう。困難やパニックに陥ってしまうと、人は自分を優先して神を捨てる。「裸」であることは、この人が、何よりも一目散に逃げていることを示している。更に、この人がキリストのもとから離れたことによって「もう何も残されていない」ことを表している。新約学者アドルフ・シュラッターはこの箇所を、「マルコ自身の信仰告白であると同時に、我々の信仰告白でもある」と語る。我々は身の危険を感じて逃げる者たちである。昨日まで「何があっても主に従う」と約束していても、状況が変われば人間の意志などひとたまりもない。恥ずかしさや見苦しさをそっちのけで、とにかく神から逃げるのである。
キリストの十字架の贖いは、この逃げた弟子、逃げた我々のためにある。神を捨てる弱さをはらむ我々の罪こそが、主イエスを十字架にかけたのだ。キリストはただ一人、置いて行かれても尚、神の示す道を進んだ。罪びとを救う道を歩まれた。逃げた者のために、逃げない神の子が、痛みと苦しみを、死に至るまで受けたのである。
『ユダに裏切られ、イエス逮捕される』
マルコによる福音書14章43節~52節
牧師 三輪地塩
「たとえ、ご一緒に死なねばならなくても、あなたのことを知らないとは決して申しません」というペトロの力強い約束は、気の利いたおべっかになってしまった。この箇所は、「ユダの裏切り」であると共に「ペトロの裏切り」でもあり、「弟子たち全員の裏切り」でもある。
この箇所の最後51‐52節には、更に逃げる者がいた。この人物は、「裸で逃げ去る」という不思議な逃げ方をしている。聖書解釈者たちによって、この人は「ヨハネ」「ヤコブ」あるいはこの聖書記者である「マルコ本人」などと考えられてきた。だが、我々はこの記事が語り、問いかけらているのが、「人間の弱さと罪」であることに気づくべきであろう。困難やパニックに陥ってしまうと、人は自分を優先して神を捨てる。「裸」であることは、この人が、何よりも一目散に逃げていることを示している。更に、この人がキリストのもとから離れたことによって「もう何も残されていない」ことを表している。新約学者アドルフ・シュラッターはこの箇所を、「マルコ自身の信仰告白であると同時に、我々の信仰告白でもある」と語る。我々は身の危険を感じて逃げる者たちである。昨日まで「何があっても主に従う」と約束していても、状況が変われば人間の意志などひとたまりもない。恥ずかしさや見苦しさをそっちのけで、とにかく神から逃げるのである。
キリストの十字架の贖いは、この逃げた弟子、逃げた我々のためにある。神を捨てる弱さをはらむ我々の罪こそが、主イエスを十字架にかけたのだ。キリストはただ一人、置いて行かれても尚、神の示す道を進んだ。罪びとを救う道を歩まれた。逃げた者のために、逃げない神の子が、痛みと苦しみを、死に至るまで受けたのである。
