2017.08.20の説教から

        820日の説教から>
              『あらゆる人知を超える神の平和』
              フィリピの信徒への手紙44-7
                                      牧師 三輪地塩
 
 本書のテーマ「喜びなさい」という言葉が力強く語られている。だがこれが、エボディアとシンティケの仲違いの直後に書かれているのは、一見すると奇妙にも思われる。仲間との関係を拗(こじ)らせた難しい案件が継続中であるにもかかわらず、「喜びなさい」とは如何なることか。6節「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」との言葉が、「無駄な事を考えず、煩悩を捨てて、諦めて生活しなさい」とでも言っているかのようにも聞こえてしまう。
 
 だがそうではない。このパウロの言葉を解く鍵は「エン・キュリオー」「エン・クリストー」にある。「主にあって」「キリストにあって」を意味するこの言葉は「in Christ」という意味のギリシャ語である。我々は「主にあって」「キリストにあって」歩む民だ、という場所を出発点にしなければならならない。
 
 「主にあって生きる」とはどういう意味か。主に「ある」ということは、単に「主と共に居る」とか「主に従って」という意味よりももっと強い意味で語られる。それは文字通りには「主の中に」(英訳聖書だとIn the Lordと訳される)である。「キリストと共に生きる」だけではなく、我々は「キリストの中に存在している」という意味である。つまり、我々が苦しみ、悲しんでいるのは、キリストが「居ないから」ではない。我々の存在それ自体が「キリストの中」にあり、我々の人生が「主の中で」生かされているのである。苦しみにある時我々は「主がおられない」と嘆くのであるが、そうではなく、主は我々と共に、(主の内に)苦しんで下さっているのである。前回の箇所、エボディアとシンティケの仲たがいの時も、彼女たちと共に主は痛んでおられるのである。
 
 北森嘉蔵という神学者は「神の痛みの神学」と主張した。それは、神が我々と共に痛まれる神であり、それが十字架に表われるものとなった、という事である。神は我々と共に痛まれる神であり、我々の苦しみと共に苦しまれる神である。だから「主の内に」「主の中に」存在する我々は、その痛みも苦しみと、共に主と分かち合うことが出来るのである。
 
 

2017.08.06の説教から

<2017.08.06の説教から>      
『二人の女性ーエポディアとシンティケ』
フィリピの信徒への手紙4章2節~3節
牧師  三輪地塩
 
 エポディアとシンティケ。聖書のここだけにしか出てこないこの二人の女性は、当時のキリスト教界では特に有名ではなかったが、フィリピ教会設立に重要な働きをした奉仕者たちであった。
恐らくヒィリピ教会の(現在で言うところの)役員のような女性たちと思われる。
 
 このエポディアとシンティケは何らかの理由で対立しており、それは単なる痴話喧嘩などではなく、教会の中心的立場にある女性同士の意見の相違と思われる。その事は教会を大きく混乱させた。
 
 このフィリピ教会の状況に対してパウロは、エポディアとシンティケの両者のどちらかをを糾弾する事もなく、又、論争自体を仲裁するつもりもないらしい。これは大変興味深いことである。彼は「真実の協力者よ」と呼びかけ、この二人の女性たちを「支えて欲しい」と願っている。裏を返せば、パウロは論争の内容に興味を持っていないのだ。心を向けているのは、彼女たちの心が折れてしまい、福音から離れてしまわないことであり、彼女たちへのフォローである。

 そもそも「論争」が起きる時、その殆どにおいて、「感情論」に陥ることが多い。その際気を付けなければならないのは、論争している「内容」から大きく離れ、それまで溜まりに溜まっていた鬱憤を、感情的に爆発させてしまうことである。エポディアの目指す教会の姿と、シンティケの目指す教会の姿に違いがあったとしても、それは何とか妥協点を見つけることが出来るし、折衝の余地はある。だが、感情的に相手を糾弾し、憎しみが広がった場合、そこに解決を見出すのは容易ではない。パウロが最も気遣っているのは、そのことであろう。つまり「教会は人間の集まる場所である」ということ。更に言うならば「教会は、罪深き人たちの集まる場所」であり「その罪人たちは、キリストによってのみ「罪赦されたと見做される者たち」である」のである。

 どうして教会員たち同士の仲たがいの只中に、真実の教会が経ち得ようか。人を憎む場所に、神の愛が与えられようか。パウロはその事を述べているのである。

2017.07.30説教

 

 

    <730日の説教から>

     『わたしに倣う者になりなさい』

    フィリピの信徒への手紙317節~41

                    牧師 三輪地塩

 


 「本国は天にある」とパウロは言う。口語訳聖書では「私たちの国籍は天にある」と訳されていた。この世が滅びに向かっても、我々は救いに向かって生きる。だがそれは、この世から乖離した生活をしろと言っているのではない。この世において、地に足のついた生き方をし、この世と共にあり、この世を愛し、この世と共に喜び、この世と共に泣く生き方である。


 主イエスやパウロが批判する「ファリサイ派」は「分裂」の意味を持ち、世俗の一般庶民と切り離された特別意識を内包した呼称であった。だが我々の信仰生活はファリサイ的であってはならない。この世と分裂する生き方は、「この世に関心を持たない生き方」である。あのマザー・テレサが、「愛の反対は憎しみではなく、無関心である」と言ったように、自分がこの世の隣人となる事なく、この世から乖離し、この世を無視し、「われ関せず」と生きていく生活は、この世を愛さない生き方となる。神の創造された世界から離れる生活である。愛は関心を持つ事から始まるのであり、天の国に国籍を持って生きるというのは、天に生きる者としてこの世に関心を持って生きる、ということである。もし、世の中だけに関心を持つ生き方をした場合、目に見える成果、地位や名声、仕事の業績、貯めた財産、そして究極的には自分が「神」となる生き方になってしまう。我々がこの世を愛するのは、この世に自分の銅像を建てて、この世に未来永劫に語り継がれる人物になるのが目的ではなく、十字架のキリストに表わされている。我々は無私なる愛の体現を行うべく、主の使命を受けている。

 

 

 

 

2017.07.23の説教から

         <7月23日の説教から>
         『キリストに捕らえられて』
     フィリピの信徒への手紙3章12節~16節
                    牧師   三輪地塩
 「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に
完全な者となっているわけでもありません。何とかして
捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエス
に捕らえられているからです。」
 これはパウロがローマ兵に、捕えられていたにも関わら
ず、自分が「捕える側」に立っている。大変面白い言い回
しである。人間的な状況や環境から解き放たれて、既に彼
は福音において自由であった。人間の考えでは絶望的な状
況の中で、彼の命が「この世に基づいていない」事を示す。
 讃美歌333番は「主よ われをば とらえたまえ。さらば
わが霊(たま)は 解き放たれん。わがやいばを くだきたま
え、さらばわが仇に 打ち勝つをえん」 と歌う。 これはフ
ィリピ書3:12をモチーフにして書かれている。
 「主よ、私を捕えてください。そうすれば私の魂は、解き放
たれ自由になるでしょう」 と歌っており、 面白い逆説とな
る。「私の自由は、神に捕えられるという不自由の中にあ
る自由である」という逆説だからである。
 この讃美歌を作詞したジョージ・マセゾンという人は、
1842年、 スコットランドのグラスコーに生まれた。生ま
れつき視力の弱かった彼は、徐々に弱っていく目と共に、
18歳の時に完全に失明したのである。だがマセソンは元来
の学問的才能を持っており、姉妹の助けを得ながら、何ケ
国語もの聖書言語を学び、エジンバラ大学で修士号を取
り、その後スコットランド長老教会の優秀な牧師になるの
だった。彼は、聖書を暗記する能力に長けており、更に素
晴らしい説教の能力を持っていたため、それを聞いた人
は、彼が盲目である事を全く気付かなかったという。
 その彼がこの333番の作詞を語った。先天的な弱視を持
ち、後天的に失明した彼は、見ることを、光を奪われた。
一見すると、外の世界から切り離され、囚われの身のなっ
た思いがしたことだろう。だが彼は、キリストと共にあり、
キリストは彼と共にあり、「主よわれをば、 とらえたまえ、
さらば我がたまは、 解き放たれん」と言わしめる「命」を
「得た」のであった。
 

2017.07.16の説教から

 716日の説教から>
                      『誇るべきもの』
              フィリピの信徒への手紙32節~11
                                      牧師 三輪地塩
 
 この箇所ほどパウロが自らについて詳しく語っている手紙はない。5節からがその文章である。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。」
 「パウロは生まれて8日目に割礼を受けた」ので生粋のユダヤ人、正真正銘のヘブライ人、である。「イスラエルの民に属し」は、「由緒正しいヘブライ人」という事である。「ヘブライ人の中のヘブライ人」は、「ヘブライ語を使うヘブライ人」という意味である。パウロは元々タルソスという町で生まれた、離散の(ディアスポラの)ユダヤ人であった。つまり彼はギリシャ語ネイティブであったが、親の母国語であるヘブライ語を話す「バイリンガル」であった。
 「律法に関してはファリサイ派の一員」とは「エリート教育を受けた」と言う事である。更に彼は、「(キリスト)教会の迫害者」とあり、「熱心さ」という言い方は、「激しい弾圧をキリスト者たちに与えていた」という迫害者であった歴史を述べている。これは、自慢のために語ったのではない。むしろ、華々しいルーツを持つ事を「全くの無意味なものであった」と語ろうとしているのである。それは「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。」という言葉に示される。
 つまり、パウロは、彼自身の「出生」「ルーツ」「能力の高さ」「言葉の力強さ」「著作」など、を自身の支えとしてきたが、それがキリストの前では、無意味なものであることを伝えようとしている。フィリピ26節以下にあるように、「キリスト自身は、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執」せず、「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ」、神でありながら、「人間の姿となり、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順で」あったと、パウロ自身が記している。このキリストの姿は、パウロのそれまでの人生、「優越感」「エリート意識」を、根底から覆すものであった。彼はこれまで「・・・有利であった・・・と思われてきた・・ことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったの」だ、と語っている。
 

2017.07.09の説教から

 
 
       79日の説教から>


         『テモテとエパフロディト』


   フィリピの信徒への手紙219節~31


                      牧師 三輪地塩


 パウロは協力者エパフロディトを「一刻も早く送り返さねばならない」と言う。彼が(おそらく)「鬱病」を発症していたからである。そのためエパフロディトはフィリピ教会で評判が悪くなってしまったのだ。「パウロの足手まといになっている」と批判されたのだろう。


 だがパウロは、エパフロディトを温かく迎え入れるようにと促す。「ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています(25節)」とあるが、「帰さねばならない」は「アナグカイオス」という単語であり、「パウロの側で、それを一方的に決定していること」を表す言葉である。つまり「エパフロディトが帰りたいと泣きつくから帰すのではなく、一生懸命私に尽くしてくれたのだから、私の意志によって、(つまり、彼は帰りたくないと言うかもしれないが)、私は彼を帰すのだ」、という、パウロ自身の意思決定として語っているのである。ここにエパフロディトへの配慮を感じさせる。


パウロは、エパフロディトを「彼はわたしの兄弟、協力者、戦友である」と言っているが、「戦友」には「賞賛」の意味が込められる語が使われている。更に「あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれました」の「奉仕者」には「レイトゥールゴス」が使われており、これは「礼拝」を意味する語である。つまり祭司の務めを予想させるような重要な任務に当たっていた、という表現をしている。エパフロディトは、恐らくそこまで働いていないと思われるのだが、フィリピ教会が彼を温かく迎え入れるためにはパウロは何だって言うのである。そのようにして、人が人を批判し、非難する要素を消し止め、教会の一致はパウロによって保たれたのである。