<2019年2月3日の説教から>
『今後も決してないほどの苦難が来る』
マルコによる福音書13章14節~23節
牧師 三輪地塩
1995年の地下鉄サリン事件によって明らかとなったカルト集団は、日本の全国民を恐怖に陥れた。この教団のやり方は至ってシンプルな「終末思想の強調」であった。世の終わりに自らの正当性が明らかになると語り、結果的に教団の意にそぐわない者を殺人するという、残忍で、幼稚なやり方である。
我々は、あの事件から多くを学んだ。とりわけこの聖句、
「『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい」とマルコ福音書が語るこの言葉を心に留めたい。
我々は、信じるべき方を見誤らないように、いつもそれを悟ることが出来るように、くまなく世を見続けねばならない。
あの教団の極端な終末観を今日的に言うならば、「極端な二元論」である。「救済されるか」「消し去られるか」、という二元論は、正義と悪を極端に分ける。異なる意見を排除し、敵対視し、攻撃する。逆の立場の人を受け入れない。
こういった現象は、我々の身の回りにも起こりうる。だからこそ、偽メシア、偽預言者の登場に対して、真の神の言葉に、耳を傾けねばならない。世の中に横行するフェイクニュース。歴史修正論などは、社会がカルト化する前触れなのかもしれない。
このような不安な中にあっても、尚も我々信仰者は、神の御言葉という堅い土台に立っていることを覚えておきたい。マタイ福音書7章のイエスのたとえ話には、固い岩の上にしっかりと両足を下ろしている時、迷わず、惑わされず、キリストに於いて真実を見、真実に生きる事が出来るのだと聖書は語る。たとえ信仰者であっても、迷う事はあるだろう。だが恐れることはない。イエス・キリストこそが真実の救済者、真実の預言者である。この方こそが、我々の要であり、守りであり、救いであることを固く信じ続けるとき、この世の、多くの惑わしから、自由になることが出来るのです。
2019.8.25 週報掲載の説教
<1月27日の説教から>
『マルコの小黙示録』
マルコによる福音書13章1節~13節
牧師 三輪地塩
弟子たちはイエスに問う。「そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが全て実現するときには、どんな徴があるのですか」と。イエスは次のように答えた。「人に惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎやうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは、起こるに決っているが、まだ世の終わりではない」。現代社会において、あたかも自らを救い主であるかのように語る「自称メシア」の何と多い事であろうか。
また、今の世を見回すと、いたずらに格差を広げ、富める者の優越感を助長し、同時に、弱者をより弱者にさせていく。新自由主義経済だの、リベラリズムだの、ていの良い言葉を使うが、世で起こるのは、人種や国民を分断し、憎しみを助長するだけである。
キリストは「人に惑わされないように気をつけなさい」と言われた。そして「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」との言葉は真実である。
キリストは、「戦争が起こるに決っている」と言う。しかし、「慌ててはいけない、惑わされてはいけない」と語る。
弟子の一人が「先生ご覧下さい、なんとすばらしい石、なんと素晴らしい建物でしょう」と言う(1節)。神殿の美しさを見た弟子が、その見た目の美しさや、華やかさ、細工技術の高さを評価している言葉。プラクティカルで、実益的な言葉である。
だがこれに対するイエスの答えは「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石も、ここで崩されずに他の石の上に残ることはない」であった。イエスの意図は、「人は目に見えるもので判断しがちであるが、その全ては永遠ではない」と答えたのだ。目に見える希望、目に見える豊かさ、目に見える強さなど、表面的なものに一喜一憂するのではなく、真理に導こうとされる主の声をいつも聞き続け、本当に主が示そうとされる場所を見極め、そこに向かって歩んで行くことが大切なのである。
『マルコの小黙示録』
マルコによる福音書13章1節~13節
牧師 三輪地塩
弟子たちはイエスに問う。「そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが全て実現するときには、どんな徴があるのですか」と。イエスは次のように答えた。「人に惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎやうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは、起こるに決っているが、まだ世の終わりではない」。現代社会において、あたかも自らを救い主であるかのように語る「自称メシア」の何と多い事であろうか。
また、今の世を見回すと、いたずらに格差を広げ、富める者の優越感を助長し、同時に、弱者をより弱者にさせていく。新自由主義経済だの、リベラリズムだの、ていの良い言葉を使うが、世で起こるのは、人種や国民を分断し、憎しみを助長するだけである。
キリストは「人に惑わされないように気をつけなさい」と言われた。そして「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」との言葉は真実である。
キリストは、「戦争が起こるに決っている」と言う。しかし、「慌ててはいけない、惑わされてはいけない」と語る。
弟子の一人が「先生ご覧下さい、なんとすばらしい石、なんと素晴らしい建物でしょう」と言う(1節)。神殿の美しさを見た弟子が、その見た目の美しさや、華やかさ、細工技術の高さを評価している言葉。プラクティカルで、実益的な言葉である。
だがこれに対するイエスの答えは「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石も、ここで崩されずに他の石の上に残ることはない」であった。イエスの意図は、「人は目に見えるもので判断しがちであるが、その全ては永遠ではない」と答えたのだ。目に見える希望、目に見える豊かさ、目に見える強さなど、表面的なものに一喜一憂するのではなく、真理に導こうとされる主の声をいつも聞き続け、本当に主が示そうとされる場所を見極め、そこに向かって歩んで行くことが大切なのである。
2019.8.11 週報掲載の説教
<2019年1月20日の説教から>
『真実の祈りと真実の献金』
マルコによる福音書12章38節~44節 牧師 三輪地塩
一人の貧しいやもめがやって来てレプトン銅貨2枚(1クァドランス)を献げた。これは当時の日当を5000円とすると、78円程度の金額である。日当が10000円ぐらい出ると考えても156円。このやもめの女性は、神殿の献金箱に約100円前後の「なけなしのお金」を献げたのだった。
イエスは神殿で、大勢の金持ちの献げ物と、貧しいやもめの献げ物の両方を見て、弟子たちをわざわざ「呼び寄せ」、このやもめが一番多くの物を献げた、と言うのである。「はっきり言っておく」という、イエスが注意喚起をするために使う定型句を加え、「これを見なさい」と念を押すかのように語る。それこそがこのやもめのささげっぷりであった。
この箇所を読んでいて腑に落ちない思いが起こるとすれば、お金持ちがたくさんの献げ物をしているにも関わらず、「それは有り余るものの中から捧げた「はした金」である」と言われているように聞こえることだろう。彼らだって、いくらたくさん貰っているからと言っても、大金を献げるのは、それは褒められて良いのではないか、と思うかもしれない。
しかし、この金持ちと、やもめの彼女にとって、「お金」が意味する事柄がそもそも違うのである。彼女にとって1クァドランスは「生活費」として数えられる。つまり、金持ちのお金が、「財産」「資産」として数えられるのに対し、やもめの彼女の「お金」とは「命そのもの」であり、「彼女の全て」という意味を持つ。つまり彼女は、彼女の生きる全存在を献げた、という意味がある。ここで言われるのは、金額の大小ではなく、献げたものが「命そのものである」と言っても良い。
この出来事の終わりには、イエスのまとめの言葉がない。「あなたも行って、このようにしなさい」とか「あなたの信仰があなたを救った」という模範を示す言葉がないのである。それは、この箇所のメッセージが、「倫理的、道徳的な教訓」を示すものではないからだ。つまり「献金のススメ」ではなく、イエス自らが歩もうとしている十字架の道が、命を献げる道であることを示そうとしているのだ。彼女の行為を、受難の道を行こうとする自らと重ね合わせて弟子たちに示しているのである。我々は、讃美歌332番から、献げるキリストと応答する我々を見比べて学びたい。
『真実の祈りと真実の献金』
マルコによる福音書12章38節~44節 牧師 三輪地塩
一人の貧しいやもめがやって来てレプトン銅貨2枚(1クァドランス)を献げた。これは当時の日当を5000円とすると、78円程度の金額である。日当が10000円ぐらい出ると考えても156円。このやもめの女性は、神殿の献金箱に約100円前後の「なけなしのお金」を献げたのだった。
イエスは神殿で、大勢の金持ちの献げ物と、貧しいやもめの献げ物の両方を見て、弟子たちをわざわざ「呼び寄せ」、このやもめが一番多くの物を献げた、と言うのである。「はっきり言っておく」という、イエスが注意喚起をするために使う定型句を加え、「これを見なさい」と念を押すかのように語る。それこそがこのやもめのささげっぷりであった。
この箇所を読んでいて腑に落ちない思いが起こるとすれば、お金持ちがたくさんの献げ物をしているにも関わらず、「それは有り余るものの中から捧げた「はした金」である」と言われているように聞こえることだろう。彼らだって、いくらたくさん貰っているからと言っても、大金を献げるのは、それは褒められて良いのではないか、と思うかもしれない。
しかし、この金持ちと、やもめの彼女にとって、「お金」が意味する事柄がそもそも違うのである。彼女にとって1クァドランスは「生活費」として数えられる。つまり、金持ちのお金が、「財産」「資産」として数えられるのに対し、やもめの彼女の「お金」とは「命そのもの」であり、「彼女の全て」という意味を持つ。つまり彼女は、彼女の生きる全存在を献げた、という意味がある。ここで言われるのは、金額の大小ではなく、献げたものが「命そのものである」と言っても良い。
この出来事の終わりには、イエスのまとめの言葉がない。「あなたも行って、このようにしなさい」とか「あなたの信仰があなたを救った」という模範を示す言葉がないのである。それは、この箇所のメッセージが、「倫理的、道徳的な教訓」を示すものではないからだ。つまり「献金のススメ」ではなく、イエス自らが歩もうとしている十字架の道が、命を献げる道であることを示そうとしているのだ。彼女の行為を、受難の道を行こうとする自らと重ね合わせて弟子たちに示しているのである。我々は、讃美歌332番から、献げるキリストと応答する我々を見比べて学びたい。
2019.8.4 週報掲載の説教
<2019年1月13日の説教から>
『ダビデの子』
マルコによる福音書12章35節~37節
牧師 三輪地塩
紀元前600年~500年頃から、「メシアはダビデの末裔から生まれる」という「メシア待望」がユダヤ教の中で生まれた。ユダヤ人たちはメシアの到来を待ち望んでいた。イエスの時代、ユダヤ人たちはローマの圧政を受ける中で、強いメシア、解放者、戦う救世主の到来を願っていた。ダビデのように、南と北を統治し、統一王国を作るほどのリーダーの資質を持った者であり、戦闘民族ペリシテ人の「身長3メートルのゴリアト」を、投石一撃で倒してしまった、あの武勲に長けた人物。それが、民衆の望むメシアの姿であった。
しかしイエスは、今日の箇所で「どうしてメシアがダビデの子なのか」と、否定的に語る。それは、この時のユダヤ人たちが、単に「英雄」を求めていたからに他ならない。
エイブラハム・リンカンを英雄として信じる者たちは、リンカンを神と同じと考え、神格化されたリンカン像を待望するわけです(そこにバラク・オバマがリンカンを彷彿とさせる仕方で登場し、当時の米国は熱狂した)。
当時のユダヤ人たちは、イエスに対し、自分たちの勝手な「英雄像」を当て嵌めて「神格化」したのである。イエス・キリストを神格化した、というのは言葉の矛盾ではあるが、しかし、「神格化されたダビデ」を当て嵌めて「イエスを神と呼んでいる」ところが問題なのである。
旧約聖書の「サムエル記」は、ダビデを神格化することを殊更に嫌い、彼を徹頭徹尾「罪ある」「間違いを犯す」「人間」として描くことを是としている。ダビデは立派な王であったのは事実かもしれないが、結局人間の域を超えることのできない弱い人間でしかなかった。しかしユダヤの人々は、彼を英雄視しすぎてしまい、過剰な期待を込めて、到来するメシアが「ダビデの子」であると信じ込んでしまっていたのだ。そのためイエスは言うのである。「ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」と。
イエスが、明らかに「父なる神の独り子であった」ということは、英雄であったからではない。最も端的に、そして目に見える仕方で、「神の愛」を示されたからに他ならない。彼はダビデのような武勲はない。領土を広げることに心血を注いだのでもない。彼は十字架の上で「神の独り子」であることを証しした。人を殺めて英雄になるのではなく、人に殺められて、神の子であることを証しした「真の人にして、真の神」であった。
『ダビデの子』
マルコによる福音書12章35節~37節
牧師 三輪地塩
紀元前600年~500年頃から、「メシアはダビデの末裔から生まれる」という「メシア待望」がユダヤ教の中で生まれた。ユダヤ人たちはメシアの到来を待ち望んでいた。イエスの時代、ユダヤ人たちはローマの圧政を受ける中で、強いメシア、解放者、戦う救世主の到来を願っていた。ダビデのように、南と北を統治し、統一王国を作るほどのリーダーの資質を持った者であり、戦闘民族ペリシテ人の「身長3メートルのゴリアト」を、投石一撃で倒してしまった、あの武勲に長けた人物。それが、民衆の望むメシアの姿であった。
しかしイエスは、今日の箇所で「どうしてメシアがダビデの子なのか」と、否定的に語る。それは、この時のユダヤ人たちが、単に「英雄」を求めていたからに他ならない。
エイブラハム・リンカンを英雄として信じる者たちは、リンカンを神と同じと考え、神格化されたリンカン像を待望するわけです(そこにバラク・オバマがリンカンを彷彿とさせる仕方で登場し、当時の米国は熱狂した)。
当時のユダヤ人たちは、イエスに対し、自分たちの勝手な「英雄像」を当て嵌めて「神格化」したのである。イエス・キリストを神格化した、というのは言葉の矛盾ではあるが、しかし、「神格化されたダビデ」を当て嵌めて「イエスを神と呼んでいる」ところが問題なのである。
旧約聖書の「サムエル記」は、ダビデを神格化することを殊更に嫌い、彼を徹頭徹尾「罪ある」「間違いを犯す」「人間」として描くことを是としている。ダビデは立派な王であったのは事実かもしれないが、結局人間の域を超えることのできない弱い人間でしかなかった。しかしユダヤの人々は、彼を英雄視しすぎてしまい、過剰な期待を込めて、到来するメシアが「ダビデの子」であると信じ込んでしまっていたのだ。そのためイエスは言うのである。「ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」と。
イエスが、明らかに「父なる神の独り子であった」ということは、英雄であったからではない。最も端的に、そして目に見える仕方で、「神の愛」を示されたからに他ならない。彼はダビデのような武勲はない。領土を広げることに心血を注いだのでもない。彼は十字架の上で「神の独り子」であることを証しした。人を殺めて英雄になるのではなく、人に殺められて、神の子であることを証しした「真の人にして、真の神」であった。
2019.7.28週報掲載の説教
<12月30日の説教から>
『神と隣人とを愛する』 マルコによる福音書12章28節~34節
牧師 三輪地塩
三浦綾子の『ひつじが丘』という作品の話。主人公は牧師家庭に生まれた娘。牧師(父)に反抗を繰り返し、父に言われることの反対ばかり行なっていた。しかしその結果、大変な人(厄介な男性)と出会ってしまい、苦しい人生を歩むことになってしまう。心が折れ、ボロボロになる中で、父は娘に言う「愛するとは赦すことだよ」と。最初はその言葉を受け入れることが出来なかった娘も、次第に心がほぐれ「愛とは赦すこと」の深淵なる意味に触れるようになっていく。決してハッピーエンドではないが、「愛とは赦すこと」という言葉が作品全体に響き渡る、印象的なストーリーである。
キリスト者である我々は、「愛とは赦すこと」という言葉に共感し、これを真っ向から否定することは少ないと思う。だが、これを実践せよ、と言われた途端、この言葉が重くのしかかってくるだろう。
だが、ここで考えたいのは、本当に我々の心は「敵対する人を愛する」という方向に向いているのか、ということである。つまり、最初から赦すつもりになっていないのではないか。それなのに、やれ「赦せない」だの、やれ「私にはできない」だの、結局「出来ない」という前提の枠の中に、自らを閉じ込めてしまっているのである。
だが、よく考えてほしい。「敵を赦す」という言葉には、既に「敵」という否定語が使われている。つまり、心から敵を愛することなど出来ないのだ。「隣人を愛する」と「敵を愛する」という事柄が、同等の意味を持つのだとするならば、我々は、「愛する」ということを、一生懸命頑張って行わねば達成できないことなのだ。心のままに自然体のままで敵を赦すことが出来れば何も言うことはない。しかしそんな人はよほどの「鈍感力」「無痛症」でなければできない。人間はそんなに強くないのだ。人間はそんなに立派ではないのだ。むしろ、一生懸命頑張って人を愛し、一生懸命頑張って赦そうと努力する。そのことなくして、「私にはできない」と諦めてはならない。
イエスのゲツセマネの祈りを見て欲しい。「もし可能であればこの苦しみの杯を取り除いて下さい」と切実に祈った。あの祈りは、自分を殺そうとする者たちをどう赦せば良いのか。どう受け止め、その悪の感情をどう昇華していけば良いのか、という祈りだったのではないか。イエス・キリストは、死の瞬間まで「真の神にして、真の人」であり続けたのだ。
『神と隣人とを愛する』 マルコによる福音書12章28節~34節
牧師 三輪地塩
三浦綾子の『ひつじが丘』という作品の話。主人公は牧師家庭に生まれた娘。牧師(父)に反抗を繰り返し、父に言われることの反対ばかり行なっていた。しかしその結果、大変な人(厄介な男性)と出会ってしまい、苦しい人生を歩むことになってしまう。心が折れ、ボロボロになる中で、父は娘に言う「愛するとは赦すことだよ」と。最初はその言葉を受け入れることが出来なかった娘も、次第に心がほぐれ「愛とは赦すこと」の深淵なる意味に触れるようになっていく。決してハッピーエンドではないが、「愛とは赦すこと」という言葉が作品全体に響き渡る、印象的なストーリーである。
キリスト者である我々は、「愛とは赦すこと」という言葉に共感し、これを真っ向から否定することは少ないと思う。だが、これを実践せよ、と言われた途端、この言葉が重くのしかかってくるだろう。
だが、ここで考えたいのは、本当に我々の心は「敵対する人を愛する」という方向に向いているのか、ということである。つまり、最初から赦すつもりになっていないのではないか。それなのに、やれ「赦せない」だの、やれ「私にはできない」だの、結局「出来ない」という前提の枠の中に、自らを閉じ込めてしまっているのである。
だが、よく考えてほしい。「敵を赦す」という言葉には、既に「敵」という否定語が使われている。つまり、心から敵を愛することなど出来ないのだ。「隣人を愛する」と「敵を愛する」という事柄が、同等の意味を持つのだとするならば、我々は、「愛する」ということを、一生懸命頑張って行わねば達成できないことなのだ。心のままに自然体のままで敵を赦すことが出来れば何も言うことはない。しかしそんな人はよほどの「鈍感力」「無痛症」でなければできない。人間はそんなに強くないのだ。人間はそんなに立派ではないのだ。むしろ、一生懸命頑張って人を愛し、一生懸命頑張って赦そうと努力する。そのことなくして、「私にはできない」と諦めてはならない。
イエスのゲツセマネの祈りを見て欲しい。「もし可能であればこの苦しみの杯を取り除いて下さい」と切実に祈った。あの祈りは、自分を殺そうとする者たちをどう赦せば良いのか。どう受け止め、その悪の感情をどう昇華していけば良いのか、という祈りだったのではないか。イエス・キリストは、死の瞬間まで「真の神にして、真の人」であり続けたのだ。
2019.7.21週報掲載の説教
<2018.12月9日の説教から>
『復活の問答』
マルコによる福音書12章18節~27節
牧師 三輪地塩
復活を信じないサドカイ派たちは、イエスに詰め寄る。復活などがあったとしたら、ややこしくなるではないかと。「第一の夫、第二の夫というように、七人と結婚したけれども、最後まで子が与えられないまま、その女性が死んでしまった場合、復活の時が来たら、この妻は誰の妻であると言えるのか。7人全員の妻になったではないか。だから死者の復活などはあり得ない。そんなことがあれば、混乱してしまうし、律法と矛盾したことになってしまうだろう」。このようにイエスに議論を仕掛けて来た。
ある種の上げ足取り、あるいは屁理屈のようにも感じさせる。サドカイ派は、貴族・祭司族として、特権階級を生きることが出来ればそれで良かったし、社会構造やそれまで信じていたことを根本から変えられては困ると思っていた。
サドカイ派たちは、復活という出来事を、彼らが想像できる範囲の中でしか理解していなかった。人は死んだ後どうなるのか。夫あるいは妻はどうなるのか。復活したときどんな服を着るのか。若くして死んだ人は若いまま復活し、老人は老人の姿で復活するのか、という理解であり。つまり、復活を地上の延長でしか考えることが出来ていなかったのだ。
だがこれは、現代の我々にも同じことが言える。主イエスが言われた25節の言葉、「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」、これを聞いて我々はどう思うか。これを簡単に理解することは難しい。我々は心のどこかで、恐らくこうつぶやくのだ。「死ぬと「家族との繋がりや、親しい友人たちとの繋がりもなくなってしまうのだろうか」と。
カール・バルトという神学者が、牧師をしていた頃、あるご婦人に「先生、私が死んだら、この愛する人たちといつまでも永遠に一緒に過ごす事が出来るのでしょうか。とても楽しみにしているのです」と質問された。これに対しバルトは、「ええ、もちろんその通りです。しかしあなたが苦手とする、あの奥さんも同じ場所に行きますがね」と答えたという。
バルトの皮肉はさておき、彼の言っていることは間違いではない。天国についても、復活の命についても、それは、私たちの願いたい願いのように、私たちの都合の良い形でそれが起こる、と信じるのは間違っている、ということである。天の国、復活の命は、我々の理解を超えて到来するのだ。
『復活の問答』
マルコによる福音書12章18節~27節
牧師 三輪地塩
復活を信じないサドカイ派たちは、イエスに詰め寄る。復活などがあったとしたら、ややこしくなるではないかと。「第一の夫、第二の夫というように、七人と結婚したけれども、最後まで子が与えられないまま、その女性が死んでしまった場合、復活の時が来たら、この妻は誰の妻であると言えるのか。7人全員の妻になったではないか。だから死者の復活などはあり得ない。そんなことがあれば、混乱してしまうし、律法と矛盾したことになってしまうだろう」。このようにイエスに議論を仕掛けて来た。
ある種の上げ足取り、あるいは屁理屈のようにも感じさせる。サドカイ派は、貴族・祭司族として、特権階級を生きることが出来ればそれで良かったし、社会構造やそれまで信じていたことを根本から変えられては困ると思っていた。
サドカイ派たちは、復活という出来事を、彼らが想像できる範囲の中でしか理解していなかった。人は死んだ後どうなるのか。夫あるいは妻はどうなるのか。復活したときどんな服を着るのか。若くして死んだ人は若いまま復活し、老人は老人の姿で復活するのか、という理解であり。つまり、復活を地上の延長でしか考えることが出来ていなかったのだ。
だがこれは、現代の我々にも同じことが言える。主イエスが言われた25節の言葉、「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」、これを聞いて我々はどう思うか。これを簡単に理解することは難しい。我々は心のどこかで、恐らくこうつぶやくのだ。「死ぬと「家族との繋がりや、親しい友人たちとの繋がりもなくなってしまうのだろうか」と。
カール・バルトという神学者が、牧師をしていた頃、あるご婦人に「先生、私が死んだら、この愛する人たちといつまでも永遠に一緒に過ごす事が出来るのでしょうか。とても楽しみにしているのです」と質問された。これに対しバルトは、「ええ、もちろんその通りです。しかしあなたが苦手とする、あの奥さんも同じ場所に行きますがね」と答えたという。
バルトの皮肉はさておき、彼の言っていることは間違いではない。天国についても、復活の命についても、それは、私たちの願いたい願いのように、私たちの都合の良い形でそれが起こる、と信じるのは間違っている、ということである。天の国、復活の命は、我々の理解を超えて到来するのだ。
