2018.07..15 説教

715日の説教から>
『信じる者には何でもできる』
        マルコによる福音書914節~29
                       牧師 三輪地塩
 
癲癇(てんかん)を持つ子の父親が、イエスの弟子に癒しを求めたが、癒すことは出来なかった。イエスは弟子たちに対し「何と信仰のない時代なのか」と、癒やせない事が「不信仰によるもの」と述べている。
だが、弟子のみならず、この父親も信仰と不信仰の狭間にいたのであった。22「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助け下さい」と彼は言う。「おできになるなら」という言葉から、父親の思いを読み取る事ができる。彼の「もし出来れば」は、「弟子たちが出来なかったのだからこの人もできないのではないか?」という、疑いと迷いの表われである。
だが、これを聞いてイエスは言う。「『出来れば』と言うか。信じる者には何でも出来る」。ここに信仰の本質が表現される。絶望をもってキリストを信じるか、希望を持ってキリストを信じるか。ここに我々の信仰のあり方が問われている。
 この主イエスの言葉に対して父親は「信じます。信仰のない私をお助け下さい」と答えた。これはとても逆説的な言葉である。「信じる」と言っておきながら「自分は信仰が無い」とも言っているからである。一見すると矛盾しているようにも感じるがそうではない。我々の多くが、信じることと信じられないことの中にいるからだ。この父親の姿はあたかも我々の姿を投影するかのように描かれる。彼は、イエスのもとに息子を連れてくるほどの信仰を持ちながら、しかし尚も「もし出来るなら」と、疑いを隠し切れない不信仰を持っている。そして我々こそが、この父親のように、信仰と不信仰との狭間を、葛藤と共に歩むのである。時には堅い信仰心を持って、しかし時には疑いを持ちつつ、そうして練られて鍛えられた鋼のように、いつしか信仰は鋼鉄のように堅く確固たるものへと変化していくのである。
 
 

2018.07.08の説教から 

 
78日の説教から>
『モーセ・エリヤ・キリストの栄光』
        マルコによる福音書92節~13
                      牧師 三輪地塩
     
 山上でキリストの変貌を見たペトロは「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と提案した。仮小屋を建てようとした理由は明確ではないが、これを「栄光の保存」という言葉に置き換えることができよう。記念碑を建て、永遠にこの栄光を保存したいという欲求である。
 筆者は記念碑を否定するつもりはないが、「記念碑の建立」という作業は、我々人間にとって、「瞬間の切り取りと保存」という意味を持っている。パリの凱旋門はナポレオンがオーストリア帝国とロシア帝国を打ち破ったアウステルリッツの戦いの戦勝記念として1836年に建てられた。だが完成する15年前に、彼は既にセントヘレナ島に幽閉されそこで非業の死を遂げていた。なんとも皮肉なことである。
 記念碑とは、まさにこのような一瞬の出来事、輝かしい事柄の保存、という意味はあるが、逆に「その意味しか無い」とも言えるだろう。つまり「永遠ではない」のである。その人の素晴らしく立派な行いとその生涯を、一瞬だけ切り取ったとしても、その一瞬は、その人自身のすべてを表わすものではないのだから。
 つまり「キリストの栄光」の瞬間を留めたとしても、キリストの生涯にとって何の意味もないのである。キリストは、美しく煌びやかで輝かしい生涯を送ったのではない。彼の存在の意味、意義、理由、性質においては、まことに輝かしい神の独り子であり、「肉をとり言葉となった神」である。だが、その栄光や輝かしさには「十字架」がない。キリストは美しく死んだのではなく、謂われのない罪に問われ、人間社会において「法的に正しく裁かれ」死んだのであった。その「正しさ」は、正に人間の罪における「正しさ」でしかなかった。人間の正義がまやかしであることを示したのがキリストの十字架である。そこには輝かしさはない。だがそれがキリストであり、我々は、そのキリストの痛みと苦しみによって生かされているのである

2018.07.01 説教から

        <7月1日の説教から>
         『キリストに従う者は』
       マルコによる福音書8章31節~9章1節
                         牧師 三輪地塩

 ペトロはイエスを「わきへお連れした」というのは「子
供や病人を世話するために連れて行く」というニュアンス
の単語である。又「いさめ始めた」というのは、これまで
イエスが行ってきた、「悪霊や嵐を叱った」時の「叱る」
と同じ語である。つまりペトロは、「主イエスを諭すため、
叱りつけるために、わきへ連れて行った」のである。彼は
「あなたはキリストです」と告白した。だがその彼が、イ
エスの十字架を否定し「そんな事を言ってはいけません」
と諭している。換言すれば、ペトロはイエスの上に立ち、
主導権を握ろうとしていたとも言える。神の上に立とうと
する時、神からの叱責がある。それがイエスの叱責である。

 あのモーセが、シナイ山で十戒を授かった時、彼が帰っ
て来ないことを心配した麓の民らは、それぞれ所有する金
を集め、金の子牛を鋳造した。金の子牛は当時の周辺諸国
で信奉されていた神の姿であった。印象深い神の姿。彼ら
はヤハウェの神を、自分たちの知る神の姿に矮小化させた
のである。まばゆい黄金の輝きに照らされる理想的な神の
形。「目に見えるようにそれを作った」のであった。
 
 イエスを「いさめた」ペトロは、この金の子牛の鋳造に
も匹敵する「神の姿の矮小化」を行なっている。マルコ福
音書は、弟子たちの無理解が一つのテーマであるが、それ
は人間という存在そのものの無理解を示しているだろう。
 
 ペトロの言葉の裏にあるのは、「自分自身」である。「メ
シアには、私(ペトロ)の思うように歩んでほしい」とい
う彼の願いが先行したため、イエスをいさめたのである。
だが、神の計画には「十字架の苦難」があった。痛みと苦
しみがあった。メシアを待ちわびる者たちが予想だにしな
かった救世主の姿である。だが、イエスにとっては通らね
ばならないプロセスであった。目を背けてはならない道筋
であった。それを取りのけて下さいと願う、ペトロの思い
は良く分かると共感できる。だが、神の計画のプロセスに
十字架は不可欠であった人間の思いを超えて、神の思い
が働く。それがイエスの叱責の意味である。

2018.06.24の説教から

624日の説教から>
『私を何者だというのか』
          マルコによる福音書827節~30
                      牧師 三輪地塩
 
 「人々はわたしのことを何者だと言っているのか」この質問は非常に深い。周囲の人々(民衆たち)の客観的な評価ではなく「あなたがたはどうなのか」と、弟子たちの主体的信仰告白を問うている。これは我々への問い掛けでもある。
 この問いは、ゲーテ、トルストイ、ニーチェ、太宰治、遠藤周作など多くの文学者たちの関心事でもあった。文学者の関心は、「史実のイエス像」に迫ることではない。彼ら文学者たちが、イエスをどう理解し、どう聖書から読み取るか。また、彼らにとってイエスとは誰なのか、という問いである。あらゆる文学作品には、書く者の人間観、信仰観、人生観などが反映され、ロマンティックな人はロマンティックなイエスを、革命的な人はイエスを革命家として描き出してきた。
 だが、この箇所の「私を誰というか」の問いは、必ずしも文学者たちの関心事を言っているのではない。「あなたたちにとって、イエスとは何なのか」である。
 我々にとって、人と人との関係はいつも決断的である。例えばこんなことがあるだろう。自分の親友の悪い噂を聞いた時、我々はどうするか。本人に何も確認することなく、その噂話を信じるのか。それとも自分が知っている親友を信じて、噂話を一蹴するのか。そこには、我々の決断がある。「いじめの構造」なんかも、似た構造をしているかもしれないが、重要なのは、その人が(親友)が、あなたにとって誰なのか、あなたにとってどういう存在であるのか、に掛かっている。問題は人の噂ではない。自分の主体性である。人がなんと言おうと、私はその人をどう理解し、どう信じるか、である。
我々の信仰もこれに似ている。あなたにとってキリストとは誰かの問いに対し、ペトロが躊躇せずに「あなたはメシアです」と答えたように、告白したいものである。
 

2018.06.10 説教から

 
610日の説教から>
『今の時代の者たちはしるしを欲しがる』
         マルコによる福音書811節~21
                     牧師 三輪地塩
 例えば近くの公園はどこかに泉が湧き出したとする。その湧き水を飲むと難病が治ったり、その水で患部を洗うと重い皮膚病が治ったり、という事があった場合、人はこの泉についてどう考えるだろうか。「素晴らしい泉が湧き出た」ことよりも、この「泉」「水」自体を、自分の理解の範疇に置こうとするだろう。この泉によって癒やされた人々の苦しみや、悲しみが癒やされたことに注目するのではなく、この泉はどこを源泉とした水なのか。この水の成分は何か?その奇跡は本物か?その奇跡を合理的に説明できるのか?・・・等のような議論が生まれると思われる。つまり我々は、神の奇跡、神から与えられた恵みの出来事に対し、それを疑って見ることをやめず、何とかそれを「科学的」或いは「理知的に」証明可能なものに転化しようとするだろう。それは、神の次元・神の領域でしか分からないことを、我々人間の理解可能な場所へと引きずり下ろそうとする行為に他ならない。
 この箇所においてファリサイ派たちは、神の奇跡や、神の恵みという事に自分の身を置こうとする活動をしているのではなく、「人間の行い」に注目を向ける活動をしていた。当然「神のために」とか「神の言葉を守るため」と彼らは言うのであるが、それが「律法を文字通り事細かに守ること」を人々に強いるのである。安息日規定を守り、食物規定を守り、宗教的穢れを犯すことなく、手を洗い、身を清め、宗教儀礼を重んじることを推奨する。そこに「心」がなかったとしても、それを行うことこそが「信仰である」と解釈して。
 我々の信仰は、「理知的」「理性的」であることをよしとする事が多い。だが、神を信じるとは、「不条理なるが故に我信ず」(ラテン語: Credo quia absurdum)と古代教父テルトゥリアヌス(AD160-220年)が言うように、我々の知覚を超えて、起こされる出来事を信じることである。処女マリアから生まれることも、三日目に死者のうちから復活することも、まさにその信仰である。