2017.04.02の説教から

  
  <42日の説教から>
                    153匹の大きな魚
            ヨハネによる福音書21114
                                           牧師 三輪地塩
 
子たちは、舟に乗り、夜通し漁をしても何も収穫がなかった。だが岸の方から誰か分からない声が聞こえ、その言葉に従ったとき、彼らの持っていた網はいっぱいになった。もはや網を引き揚げることすら出来ないほどの大漁となったのである。その声の主は、復活のキリストであった。
 この物語が意味するのは、キリストと共にあなた方は歩んでいるか、を問うのである。人間の力だけで何かを成し遂げようと湖に繰り出しても、何も獲れず、何も起こらなかった。だがそこに主イエスが、――主イエスの復活の命、神の御言葉――が共にあるとき、我々の生涯は豊かに溢れ、引き上げることが出来ないほど網に一杯に満ちるのだ、と聖書は言う。
 「153匹」という数字は、様々な解釈がなされるが、エゼキエル書47章との関わりで読むべきであろうと思う。
 エゼキエル479節~10節には「川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水が、きれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。漁師たちは岸辺に立ち、エン・ゲディからエン・エグライムに至るまで、網を広げて干す所とする。そこの魚は、いろいろな種類に増え、大海の魚のように非常に多くなる」とある。この「エン・エグライム」という地名のアルファベットを数字化すると「153」となる。すなわち、キリストが共にあるところに、命があり、その場所でこそ、全ての者が生き返る場所をなりうる、という事が言われているのである。
 キリストこそが命であり、泉である。我々は、キリストと共に居るかという事をいつも問われている。その問い掛けに答えるべくして歩みたいと切に願うものである。

2017.03.26の説教から 『わたしは決して信じない』

  <326日の説教から>
 『わたしは決して信じない』
       ヨハネによる福音書202431
                              牧師 三輪地塩
 
代社会は、五感と体感で「知る」事を大事にする世界である。「実体」がなければ、「存在しない」と見做される時代。それが実証主義のこの世である。
 
復活のイエスに出会う前のトマスは、まさに我々の写し鏡のようである。疑い深く、実証主義的に、イエスの復活を「五感で知ろう」とする。だがイエスが現れた。その時既に五感を超えて「私の主、私の神よ」と信仰を告白した。
 
 他の弟子たちもトマスとは異なる疑い、つまり世間に対して疑心暗鬼になっていた、彼らは怖がって家の戸に鍵をかけ、ひっそりと隠れて過ごしていたのである。当然我々も同じような状況に立たされる事がしばしば起こる。「恐れて」「自分に鍵をかける」のだ。どんなに明るく、前向きな性格であっても、「恐れて自分自身に鍵をかける」事は、起こりうるのである。「周囲からの疎外感を理由に」「人の目を気にして」「誰とも接触したくない思いから」、我々はあらゆる場面で自らの心に鍵をかけるのだ。そう、我々の心は極めて閉鎖的なのである。
 
けれども聖書は、「それで良い」と語る。なぜなら自分の殻に閉じこもった弟子たちの「真ん中に」主は立ち給うからだ。「あなたに平和が(シャーロームが)あるように」と、鍵を閉めて嘆き悲しんでいる彼ら(そして我々の!)間に、立ち給う。我々は何も恐れる事は無い。主が来られる事をただ待ち望みたい。
 
 パスカルという宗教思想家は次のように言った。
「『奇跡を見たら、私の信仰は強められるであろうに』と人は言う。人がそう言うのは、奇跡を見ないときである。……ところが、そこに達すると、さらにその先を眺めようとする。何ものも、我々の精神の回転を止める事はできない」
 
つまり、人間という生き物は、「奇跡を見れば信じられる」と言うけれども、もし本当に奇跡を見たとしても、「それは手品ではないのか」「カラクリや仕掛けがあるに違いない」、などと言って、それを疑う心が新たに起こってくるだけなのだ」と。確かにパスカルの言う通りだと思う。
 
 だが主イエスは、このような疑い深い我々に対し、御自分の側から近づき、ご自分の復活を見せて下さる。我々からではなく、主が我々に近づいて下さる。我々は、その近づかれる主を受け入れ、信じるだけである。

2017年3月19日の説教から

 <319日の説教から>
            Ερήνηשָׁלוֹם
     ヨハネによる福音書201923
                     牧師 三輪地塩
 
  復活の主イエスが弟子たちの真ん中に立ち「あなたがた
 に平和があるように」と話しかけられた場面である。
 聖書はこの時の「平和」という言葉を「Ερήνη」(エイ
 レーネー)と記している。ギリシャ語のΕρήνηは、「民
 族や国家間の調和」や「心の平穏」を意味する。だがここ
 でイエスは、ギリシャ語ではなく、ヘブル語で(厳密に
 はアラム語で)そう言われたのである。それこそが「שָׁלוֹם
 (シャーローム)という言葉である。
  
  「シャーローム」は挨拶にも使う語であり「こんにちは」
 「さようなら」でも用いる。ここで考えたいのは、Ερήνη
 とשָׁלוֹםが同じ「平和」を表すと共に、ある部分におい
 て異なる概念を持っているという事である。
  
   シャーロームは、「שָׁ(Sh・シェン)、「 ל(L・ラメド)
 「ם(M・メム)3文字によって成り立つが、この3つの
  文字によって「健全さ」「完全性」という意味が生まれる。
  そこから「友情」「健やかさ」「健康」「安全」「救い」とい
  う幅広い意味がシャーロームの概念に含まれるのである。
  
   例えば「シャーローム」には「健康と繁栄を含む完全な
  幸福」という意味があるが、それは「神から与えられた賜
  物」としての「健康と繁栄」、つまり「人間が自分の力で手
  に入れ、奪い取った健康と繁栄」ではなく、あくまでも「神
  から与えられた「グッド・ヘルス」」という意味である。
 
   この場面、弟子たちは「部屋の鍵を閉めていた」とある
 ように「心の内の鍵」「心の閉ざし」の中にいた。彼らは   イエスの死と共に「霊的な命を失った」状態にあった。だが
そこにイエスは「シャーローム」という言葉と共に、「友情」「健やかさ」「健康」「安全」「救い」などの多くの意味 を持つこの言葉と共に、――喪失感によって精神さえも病 んでいたかもしれない虚ろな弟子たちの前に――、、主は「シャーローム」と言われ、立たれたのである。そこに「復活」の真の意味が示される。
 
  迫害者から狙われる事を恐れ、息をひそめて逃げ隠れて
 いる弟子たちの真ん中で、主は「シャーローム」と立ち給
 う。単なる「平和の挨拶」ではない。究極的な痛みや苦
 みの中にさえも、主の平和、主の平安、主の救いが共に居
 られることの確信がここにある。マタイ福音書1章の「主
 我らと共に居まし給う」(インマヌエル)とはこの事である。
 
 

2017年3月12日の説教から

2017.03.12の説教から>
『主の晩餐』
マタイによる福音書2626節~30
              牧師 三輪地塩
 
N
PO法人「駿河裂き織り倶楽部」という団体が「すいとん会」というのを行った記事があった。「すいとん」は、子供には馴染みがないが、浦和教会の大勢の年配者たちは、すいとんという言葉と共に、懐かしさを覚えるだろう。
 このNPO法人の代表者は、子どもの頃に終戦を迎えた戦争体験者の女性である。戦時中の味を再現し、豪華ではなく質素な食べ物を口にすることにより、昔を思い出し、戦時中の記憶を追体験する事を目的にしているそうである。理事長は「すいとんでさえ当時はごちそうでした。物が多くある現代の人たちに幸せとは何なのか感じて欲しいために、これを開催した」と語る。
食べ物は、その時の記憶を甦らせる。あの日、あの時に口にした食べ物、その香りが漂った瞬間、その記憶が甦り、その時の情景や空気も思い出される。食事とは味覚・嗅覚・触覚・視覚・聴覚の全ての五感を働かせて(人間の全ての感覚を使って)行うものである。
「「すいとんの会」に参加した若者たちや子供たちは、戦争を体験していません。しかし体験者と共に、その時の体験、ひもじい思いや、苦しく、辛い思い出と共に、それを一緒に食する時、その体験者の体験を、未経験者も共に体験することになるのです。」とNPOの理事長は語る。
 聖餐式の中でパンとブドウ酒を口にする時、(それは「すいとん」ではないけれども)そこに居る者たち全員が追体験として主の晩餐を味わう。教会の人たち(洗礼を受けた者たち)全員が、キリストの十字架と共に生きることを、幾度となく繰り返し追体験するのである。聖餐は単なる「記念」や、「形式」ではないし、「特効薬」や「魔術的な食べ物の摂取」ではない。我々の教会が行なう聖餐式は、マタイ福音書26章に書かれているような、「キリストの出来事」を、いつも心で受け止め、体で感じ、いつまでも忘れないために経験し続けるのが目的である。29節の言葉、「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」と言うのは、未来に向かって語られた言葉である。「その喜ばしい日を共に迎えたい。すぐ近くまで迫っているのだから」という終末的な救済の確信を告げる言葉である。

<2017.03.05の説教から>【なぜ泣いているのか】

<2017.03.05の説教から>
『なぜ泣いているのか』
ヨハネによる福音書20章11節~18節
牧師  三輪地塩
 復活のイエスのもとに喜び駆け寄ったマグダラのマリアは
       冷たい言葉を掛けられている。「わたしにすがりつくのは よし
       なさい(17節)」と。こんなひどいことを言わなくてもいいじゃ
       ないか、と思ってしまう。しかしイエスは、その理由を「まだ父
       のもとへ上がっていない」というのは「昇天」をしめしている。
       イエスの復活は、イエス自身だけの復活ではなく、我々の終りの
       時の復活を示している。イエスは「わたしの父の家には住む所が
       たくさんある。…行ってあなたがたのために場所を用意したら、
       戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。」(ヨハネ14:2)
      と約束されている。つまり、マリアに「すがりついてはならない
      (「すがりつく」は英訳でholdと訳される」と命じるのは「ただつかまれたく
      なかったから」ではなく、抽象的な意味で「すがりつく・つかむこと」
      を禁じているのである。イエスにすがりつくことは、この場所に
      イエスの復活の栄光をとどめておくということが暗示されている。
      「山上の変貌」で、モーセ、エリヤ、イエスの光り輝く姿を目にした
      ペテロが「ここに3つの仮小屋を建てましょう」と提案し、この世に
      イエスの栄光をとどめようとした事に似ている。イエスの十字架を
      考えず、栄光だけに目を留めるペテロをイエスはお叱りになった。
      十字架を見失って栄光だけを留めることがあってはならない、と。
      神の計画は人間の思惑の中で進められるのではなく、目に見え
      て美しいことや、素晴らしい事だけをその場所に留めてはならない、
      と、イエスは言うのである。神の計画は神ご自身の主体的行為で
      あり、その主体的行為こそが、我々への救いをもたらすのである。
      救いに人間は関与せず、神のみが為し給う。
 

2017.02.26の説教から 

<2017年2月26日の説教から>
『見て、信じた』
ヨハネによる福音書20章1節~10節
牧師  三輪地塩
 ここに消息が途絶えていた弟子が再登場する。シモン・ペトロである。イエスの裁判が行われていた大祭司邸の庭で、彼は3回も弟子であることを打ち消し、その時「鶏が鳴いた」のであった。聖書はその後の彼の行動について何も伝えていない。そのペトロは十字架の後になってやってくる。我々は彼が悔い改めたのだと信じたい。彼はマクダラのマリアの証言に促され、愛弟子と共にイエスの墓に急行する。
  
 墓につくと「石」は「取り除けられて」いた。「取り除け「られていた」」と、慎重にそして的確に聖書は語っている。これは「神的受動態」(Divine Passive)と呼ばれる、「行動する主体」を明示せずに神の存在を示すよう用法である。マクダラもペトロも愛弟子も誰も動かしていない。誰が動かしたのでもなく、石が自然に動いたのでもない。ここには「誰か」の存在が明確に表れるように記されている。
 この時、「まだ暗いうち」であったという。「人間が活動を始める前」「人間が関与する事が出来ないときに」「活ける神は自らの主体性をもって」この石を動かした、という意味で「まだ暗いうち」は重要である。人の思いに先んじて、人間の思いを超えて神は働かれる。神の先導性、神のイニシアチブ、先行する恩寵を、「空虚な墓」は示すのである。つまり、復活は、徹頭徹尾「神の行為」である。
 ペトロも愛弟子も「二人はまだ理解していなかった」(9節)との言葉は、「まだ〰していなかった」という意味のギリシャ語「ウーデポー」が使われている。「まだ理解していない」という翻訳語はネガティブに聞こえるかもしれない。だが「ウーデポー」は「今のところはまだ理解していない」という意味を持っている。それは「完全な理解」ではないが、「今後に希望を持ちうる無理解」であり、今はまだ理解していないが、今後はっきりと理解する事が出来る「ようになるであろう「希望的観測」を含んだ、ポジティブな否定詞である。
 我々の信仰においても同じことが言える。我々もまた「ウーデポー」の信仰なのかもしれない。今はまだはっきりとは見えない、いつも信仰の途上にある「希望に向かう民」である。神の主権と支配の中で、共に成長し、歩んでいきたいと願う。