マタイによる福音書7章1節-6節  『目の中の丸太』 2012年6月3日

 マタイによる福音書7章1節-6節 『目の中の丸太』 2012年6月3日


 今日の箇所を初めて読んだとき、最も印象的な言葉はどれでしょうか。読む人によって印象と言うのは様々でありますが、特に「目の中のおが屑、目の中の丸太」という言葉に驚かせられるのではないでしょうか。
 以前この教会にも伝道礼拝でお呼びした事がありますが、宮田光男という先生がおられます。この方の専門は法学と政治学なのですけれども、キリスト教神学の研究者としても知られております。その著作の中に、「キリスト教と笑い」という本がありまして、その中で彼は、このように述べております。「主イエスが涙を流したという事は書かれているけれども、イエスが笑ったという事は書かれていない。しかし聖書の中にもユーモアや笑いが隠されている」。このように言うわけです。そして新約聖書の中にあるイエスのユーモアの一つとして、実は今日の箇所の言葉が示されております。それこそが「目の中の丸太」という言葉であります。その著書の中でこのように説明しております。「目の中の丸太などという、ありえない事柄が譬えとして誇張されて語られ、それを聞いた民衆は、自分の罪に気付かない自らを省み、自己アイロニー的な笑いを浮かべただろう」、と、このように解説しているわけです。
 確かにこの箇所の言葉は、譬えとしてやや誇張された感があります。自分というのは、もっとも自分が見えていない。自分の罪などは全く見えていない。目の中に丸太ん棒のように大きい罪があったとしても、それにすら気付かない。そのような意味をもって主イエスはこの譬えを語っております。ですから聞いた人の中には少なからず笑った人がいたのでしょう。確かにその通りだな、と感じながら、自分の罪深さを皮肉って笑ったのでしょう。しかし内容的には非常にシュールであります。

 ここには「『あなたの目からおが屑を取らせて下さい』と、どうして言えようか」とありますが、ルカによる福音書では、「『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせて下さい』と、どうして言えるだろうか」とあります。この「さあ」というのは丁寧語でありまして、いかにも親切心や兄弟愛から出ているような、そういう感じが強められている、そのための「さあ」という言葉であります。つまり今日の箇所においても、同じように、親切心を装いながら、実は慇懃無礼なほどに、自分が絶対であるという思いと共にこの言葉が語られるろいう事が伺えます。
 「『あなたの眼の中のおが屑を取らせて下さい』という人は、物腰穏やかに、親切心からそれを言っているように思えるけれども、実はそうではない」と主イエスはいうのです。私たちがこの世の中で最も分からないのは、自分自身であります。一番近くにいても、誰も見る事の出来ないのが自分自身であります。人を裁き、人の欠点にばかり気づき、そこに目をやり、赦す事の出来ない私。それが人間であるのです。

「人を裁くな」という教えは、私たちも度々聞いているところであります。特に教会の中でよく、本当によく聞く言葉であります。しかし度々この事が問題になる。それは教会で度々言われているけれども、この世から一向にそれが無くならない、という事を示すのです。
人を裁く、という事は、そもそも私たちの関心がどこにあるのかを示しているように思います。つまり、「人が何をしているのか」。という事です。人に関心がある。人のやる事に関心を持つ。それだけをとれば、決して悪い事ではないと思います。しかしそれは、人のやる事に、評価を含む、という事に繋がり、そしてその評価の優劣をつける、という事になっていく。つまり人が行う事が、「その人に適っているか」ではなく、「自分に適っているか」という事によって、判断を下すのです。それが人を裁く事であります。結果として人への関心は、自分の考えと異なる点を見つけ、そこを糾弾するという事への関心となっていく。それは主イエスの言われる「人を裁くな」という事なのです。

 では、人が罪を犯していた時はどうなのでしょうか。人が罪を犯しているのを横目でみながら、「人を裁くな」と言われているから何も言うまい、といって、その罪を放置する事はどうなのでしょうか。しかしそれは「無関心」となってしまいます。その行為を指摘する事から逃れている無関心であります。ですからこの違いが大変難しいのではないでしょうか。裁くな、と言われているけれども、何が裁く事であり、何が裁く事でないのか。その判断が難しいのであります。

 ある説教者は、裁くという事に関して次のように言います。
「たとえキリスト者であっても、一人悦に入り、自分こそキリストに従っている唯一の者だと誇っているなら、それは人と自分を分離するだけでなく、キリストと自分を分離しているのです。イエスに従う者は、イエスと結びつきます。それはイエス・キリストを私たちを裁かず、私たちの罪を負って下さったからにほかなりません。それで私たちも、兄弟や隣人に距離を置いて、その観察者となるのではなく、兄弟の罪に対しても、自分の責任を感じ、その兄弟としっかりと結びつくのです。そうでないと、私たちは、イエス・キリストの観察者になり、その結果、隣人をうがって観察し、人の批評の対象とします。」(蓮見和夫『マタイによる福音書127頁』)とあります。

 人への関心を持つ事は素晴らしいことであります。マザーテレサの言うように、愛するとは「関心を持つ事」に他ならないからです。しかし関心が観察になるとき、私たちはそこに責任を持たず、批評家になっていきます。批評は責任を持ちません。愛があっても無くても出来るのです。自分の子どもを叱る時、そこには責任が伴います。その子の成長を願い、良い事悪い事の判断が出来る子になってほしいと望むから叱るのです。しかし叱る自分にも責任が伴います。今叱っている自分が、もし自分の気分や感情によって叱っているなら、無用な叱りになる、そのような事を考えて、自分の行動にハタと気付かされる事もあります。つまりそこには、子どもを観察する親ではなく、子どもに責任を持って関わり愛する親が存在するのです。関心は責任を伴います。責任は愛を伴います。しかし関心から愛が抜け落ちれば、その関心は、単なる「観察」になり、そのとき私たちは「傍観者」となってしまうのです。

 隣人と距離を置き、隣人を観察するとき、その隣人を愛
せよ、と命じられたイエス・キリストを傍観する事になります。キリストを傍観し、あの教えも、あの受難も、そしてあの十字架と流された血をも、私たちの観察対象となっていくのです。その時、私たちは、キリストの救いを傍観します。この救いは私たちには関係ないと。この救いは、人類の罪のためとは言うが、しかしそこには自分の罪はない、と、十字架を観察するのです。もはやそこにいる「私」という存在は、「キリストの第二者」ではなくなり、第三者として、傍観する「私」となるのです。つまり人間とその罪を贖うキリストの繋がりとは、無関係なところに「私」を置く時、それは、「私」の罪を傍観する事になるのです。

 「人を裁くな」という命令は、他者に対する命令でありつつ、しかしそこに立っている自分自身を省みること、もう少し付け加えるならば、そこに立っている自分自身の「罪」を省みる事に他ならないのであります。あなたの罪を見ずして、他者の罪ばかりを見ようとすること。その事を言っているのです。だからこそ、自分の罪を棚に上げて人の罪ばかり見ようとする事に対して、主イエスは、目の中にある、大きな大きな丸太に気付かず、もしくはそれを見ずして、他者の小さな罪を指摘するな。「そのおが屑は、ああであり、こうである。」と述べる事はするな。と、主イエスはおっしゃっているのであります。
 人間の罪と、その罪が贖われるということが、まことに自分の問題であると感じるならば、人の罪ではなく、自分の罪を意識せずにはおれないと思うのです。

 ドイツの神学者カール・バルトが、晩年、刑務所で説教していた時、人にこう言ったそうです。あそこでは「あなた方は罪人です」と言う必要はありません。彼らはその事をよく承知しているからです。あそこで必要なのは、「皆さんに説教している、この私も罪人です」ということなのです、と、このように言ったといいます。(蓮見和夫、前掲書、129頁)
 ここに示されているのは、人間の間にある罪の問題は、神の前ではどれも等しく、罪人である、という事実だけが私たちの実存的な存在として立ち上がっているという事であります。それは、多かれ少なかれ、私たちは罪を犯すし、その違い、その差異に関して、どちらがどうであると罪の度合いを批評し合う事は、そこに神不在の状況を作り出す事になってしまう、という事なのです。私たちは全てが罪人です。しかしあの人の罪は大きい、しかし私の罪は小さい、というやり取りは、そこに神の恵みが立ち上がる事を拒む営みとなるのです。
 すなわち、私たちには、私たち人間という存在には、神の救いが必要なのであると祈り合う事。そして私たちの間には、キリストの罪の贖いが無くては、私たち自身が存在し得ない事を、共に認識し合う事。それなくして、我々人間同士の、本来的な交わりと、関係性は、築きえないと思うのです。

 人を裁く事は、裁き合う事の中には、イエス・キリストの十字架は立ちません。相手を愛し、その罪の中に共に生き、その罪が私の罪と共に贖われている事を、その相手と共有し、共にその恵みを受け取り合う時にのみ、そこにキリストの赦しと贖いの十字架が立ちうるのです。
 私たちは、人を評価し、批評し、主イエスと切り離された生き方を選び取るのではなく、主イエスと結び合わさっている時にこそ、真の意味で他者とも結び合わされる事を、今ここに覚えたいのです。隣人との繋がりは、キリストとの繋がりの中にこそ成り立つのであります。

 (浦和教会主日礼拝説教  2012年6月3日)

浦和教会主日礼拝説教 ヨハネによる福音書3章1節-15節 『ニコデモの救い』

和教会主日礼拝説教 ヨハネによる福音書3章1節-15節 『ニコデモの救い』
 (こどもとおとなの合同礼拝)   

 人が、必ず一度しか経験出来ないものが二つあります。どんなに偉い人でも、どんなに立派な人でも、どんなお金持ちでも、人間である以上一度しか経験できないもの。それが生まれる事と、死ぬ事です。二度も三度も生まれる人はいません。どんな子どもたちでも、お母さんのお腹にいる時は限られていて、一回生まれるともう一度お腹の中に戻るなんて事は出来ません。それとは正反対の、死ぬという事も又同じです。どんなに体が弱っても、どんなに年をとっても、人が経験できる死というのは、一回きりです。死にそうになった、とか九死に一生を得た、などという事はありますが、しかし本当に死ぬのは一度だけです。それが私たちの命です。私たちは生まれる事も、死ぬ事も、それぞれ一回しか与えられていないのです。
 しかしイエス様はこう言いました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。非常に不思議な言葉です。今日はこのイエス様の言葉の意味を皆で考えたいと思います。

 いま読んだ聖書にはニコデモという人が出てきます。この人はユダヤ人の議員であったと書かれています。議員というのは、今でもそうですけれども、大変立派なお仕事です。そして地位も高く、みんなから尊敬されるお仕事です。ニコデモはその議員でした。しかしユダヤ人の議員の多くの者たちはイエス様を憎んでいました。議員よりも立場が低いのに、民衆たちから人気があって、たくさんの奇跡を起こし、注目を集めていたからと考えられます。

 さらにニコデモは「ファリサイ派であった」とも言われています。ファリサイ派というのは、当時最も知恵のある賢い人と考えられていました。律法学者として、旧約聖書に詳しい知識を持っていて、どんなことにでも答えられるように、良く勉強していた優秀なエリート集団でした。しかしファリサイ派の人たちもまたイエス様を憎んでいました。それはイエス様が、ファリサイ派の人たちよりも、民衆から慕われ、聖書の知識が豊富であり、しかもファリサイ派の間違いをたくさん指摘していたからです。しかもイエス様がガリラヤ出身であったという事もあるかもしれません。とにかくファリサイ派の人たちはイエス様に嫉妬し、妬んでいたのです。エリートである自分たちを差し置いて民衆の注目を集め、聖書の事を良く知っている事に腹を立てていたのです。だからファリサイ派の人たちがイエス様に近づく事はあまりありませんでした。近づく事があっても、それはイエス様を攻撃する時、批判し、喧嘩を吹っかけたり、落としいれようとする時でした。「ファリサイ派の人たちはイエスを罠にかけ、どのように殺そうかと考えていた」と色んなところで言われている通りです。ですからユダヤ人の議員もファリサイ派も、どちらであってもイエス様との関係は良いものではなかったのです。

 ニコデモはこの両方でした。ファリサイ派であり。議員でもあったのです。ですからニコデモは堂々とイエス様に近づく事が出来ず、夜になってイエス様に会いに行きます。議員でありファリサイ派である彼にとって、イエス様に会いに行く事は、罪の意識を持つ事だったのかもしれません。誰にも見つからないように、こっそりと会いに行ったのです。
 多分ニコデモはイエス様の事をどこかで聞いていたのでしょう。イエス様という方の教えや聖書解釈の素晴らしさ、愛の深さ、奇跡の凄さ、そんな事を伝え聞いていたのでしょう。そして心のどこかでイエス様を信じたいという思いが芽生えていたのだと思います。

 彼はイエス様の下に来て質問しました。「先生、わたしたちは、あなたが神様のところから来た偉大な教師であることを知っています。神様があなたと共におられなければ、あんなに素晴らしい奇跡を行うことは、誰にもできないからです」。このように立派に信仰を言い表しています。しかしニコデモの信仰にはあと一歩足りないものがありました。それこそが「新たに生まれる」という事でした。「神様の下に新たに生まれなければ、神の国に行く事はできませんよ」とイエス様はおっしゃったのです。このときニコデモはしっかりと理解できていませんでした。彼は言います。「年をとった者が、もう一度お母さんのお腹の中に戻って、もう一度生まれるなんてことはありえません。人間は一度しか生まれませんから」このように言ったのです。確かにニコデモの言う通りかもしれません。人間は生まれる事も、死ぬ事も、一度しか経験できませんから。彼の言う事もそれはそれで正しいのです。けれどもイエス様の言っている「生まれる」とはそういう意味ではありませんでした。それは洗礼を受ける事で生まれる新しい命の事です。自分の罪を告白し、悔い改めて、神様としっかりと繋がった命を結び直される事、それが洗礼です。ですからイエス様はこの事を言っていたのです。

 しかしこの意味を理解していないニコデモに対してイエス様は言います。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」。このイエス様の言っているのは少し難しいと思います。誰でも水と霊によって生まれなければ神の国に入る事はできない、という言葉は洗礼の事を指しているんだな、と言うのは分かります。しかし次の言葉「肉から生まれた者は肉である。霊から生まれた者は霊である」この言葉の意味が分からないのではないかと思います。それは簡単に言うと、人間ではなく、神様の思いに従いなさい、と言い換える事も出来ます。

 ニコデモはここで「年をとった者がどうして生まれる事ができましょう」と言っています。初めてここを読む人は、ニコデモという人が若くて元気の良い男性であるように感じるかもしれません。しかし「年をとった者」と自分で言っているわけですから、多分、ニコデモ自身年を取っていたのではないかと思います。少なくとも若い人ではなかったでしょう。議員の中でもベテラン議員、長老と呼ばれるほどの古参議員だったかもしれません。だから尚更、後輩たちの手前、みんなに見られないように夜に会いに来た、と考えるならば、辻褄があうような気もします。
 このような年配者、もしくは高齢者であったかもしれない
ニコデモは、この年齢になって尚、新しい命を受けるようにと命じられています。彼が何歳であったかは分かりません。しかしこれまでに積み重ねてきたキャリアがあると思います。社会的な地位もあると思います。ユダヤ人の議員として働いてきた人間関係やなどもあるでしょう。その彼に対して、イエス様は新しく生まれよと仰います。

 ここに先ほどのイエス様の言葉の意味があるのです。私たち人間は、あらゆる努力によって立身出世し、人よりも抜きんでて、誰よりも活躍しようとします。それは勉強においても、部活においても、仕事においてもそうです。成果を挙げればみんなから認められ、多くの利益をもたらせばそれだけ価値ある者と見做されます。スポーツを頑張った人がレギュラーを勝ち取る事も、大会で優勝する事も、会社に勤めている人が出世していく事も、小説家や劇作家がベストセラーを出版する事も、それは周りからの支えであると同時に、自分の努力のおかげであると感じるでしょう。そのようにして周囲から、また、友達から認められていき、地位が確立していく。ステータスとして社会的基盤を得て、キャリアを積んでいく。そうして我々人間は多くを経験し、年を取っていくのです。勿論それは悪い事ではありません。むしろ向上心を持つ事は大切な事です。しかしそのステータスが、その地位や名誉が、神様に近づこうとする気持ちを妨げる事になるとしたら、それは有益なものとは言えなくなります。ニコデモはそうだったのかも知れません。つまり堂々とイエス様に会いに来ることが出来ず、信じているのに夜中にこっそりと訪ねてくる彼の行いを見る限り、また彼の頓珍漢な受け答えを聞く限り、彼は本当の意味で神様の御言葉を理解していなかったと言えるのです。それはこの世の肉の思いが、神様の言葉を妨害したと言えるのかもしれません。ニコデモは神を求め、イエス・キリストの救いを求めていた。しかし肉の思いが、彼を妨げた。だからイエス様はそこを見抜いて言われるのです。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」と。つまり、肉から生まれた私たちは、ニコデモのように、肉の思いに囚われてしまい、神様の言葉ではなく、それ以外の事に左右されてしまいがちです。それは肉から生まれたものであるからです。だからイエス様は言うのです。霊から新たに生まれなさいと。洗礼を受け、自らの罪を悔い改め、神様を信じると告白し、神様と共に生きる生活を求めて生きなさいと、イエス様はおっしゃるのです。

 この時ニコデモはあと一歩のところまで来ていました。もう少しで神様の救い、神の国の本当の意味に到達できるところでした。しかし少し足りなかったのです。まだ肉に囚われていたからです。けれどもこのようなあと一歩、いま一つのニコデモに対する不思議な歩みについて、聖書ヨハネ福音書を通して語ります。ヨハネ福音書7章50節に、ニコデモがもう一度出てきます。ここでは祭司長たちやファリサイ派たちが主イエスを捕まえようと相談している場面です。7章51節でニコデモは言います。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」。このように言っているわけです。大勢の者たちがイエスを罠にはめて処刑しようとしている只中で、ニコデモはイエス様を弁護しているのです。しかし「イエスは救い主である」とはっきりと弁護する事はまだできませんでした。しかし、ニコデモなりの信仰告白がここにありました。

 さらに19章39節にも、またニコデモが登場します。十字架上で息を引き取られたイエスの遺体を引き取ったアリマタヤのヨセフの横で、高価な香油を塗るニコデモがここにいます。これもニコデモの大きな一歩でした。彼が公の場で、みんなの見ている場で香油を塗るという事は、イエス様との関係を公に示す事になります。つまりニコデモは自分の身を危険に晒してまで、そのリスクを負ってでも十字架で死んだイエス様の遺体を葬りたかったということです。ここにも「彼なりの信仰告白」があったのです。ニコデモはこのように、ヨハネ福音書を通して、少しずつ、彼なりに、イエス・キリストの真理に向かって変えられていったのです。つまり、あと一歩の信仰が、少しずつ変えられ、最後まで、少しずづ一歩一歩、神の国に向かって、肉の思いを離れ、霊の思いに従って確実にキリストの真理を知っていったのです。
 イエス様は若い人もお年寄りも招きます。救いは、社会的な地位や、これまでキャリアとは無関係に働きます。私たちは、肉の思いに囚われる事が多いと思います。目の前の成果、結果、利益、名声、地位などに翻弄されます。しかし本当に神の国に導かれる為の事はたった一つ。信じることなのです。それはこどもにでもおとなにでも可能なのです。小さな子どもを抱きかかえて「小さな者が天の国に入る」とイエス様は言いました。しかしそれと同時に、ニコデモのような年配者でも神の国に導き入れようとしておられるのです。このイエス様の救いに向かって、あと一歩の信じる思いしかない私たちが、もう一歩踏み出して、本当の救いに到達したいと願うのです。

(浦和教会主日礼拝説教 2012年5月13日)

マタイによる福音書6章24節 『神なのか富なのか』 2012年5月6日

 マタイによる福音書6章24節 『神なのか富なのか』

 「神なのか、富なのか」我々はこの小さな1節だけの、この単純な質問について考えてみたいのです。この御言葉は素直に読むことが出来ます。神に仕えるか、それとも富に仕えるのか。その選択を迫られている言葉です。そして私たちキリスト者はこれに対して簡単に結論を出せます。どちらを選びますか。その答えは「私は神を選びます」。それ以上の答えはありません。ですからこの箇所はある意味において結論は非常に単純で分かりやすいのです。素直に読むことが出来る言葉なののです。この答えは変わりません。

 しかしながら私たちは、それと同時に立ち上がってくる、大きな疑問と向き合わねばなりません。一つ目は「富を得る事、金銭を得る事は罪なのであろうか」という疑問。そして二つ目は、「私たちは金銭の得てはならないのだろうか」というものです。それは私たちにとって大きな問題です。私たちが貨幣経済社会の中に生きているからです。

 果たして聖書は、私たちに富を捨てさせようとしているのでしょうか。なるほど聖書のあらゆる箇所で富を捨てる事が言われております。金持ちが神の国に入るよりはラクダが針の穴を通る方が優しい、という衝撃的な事を言われました。ルカ福音書では、徴税人ザアカイが不正に集めた金銭を放棄し、それを施しの為に使ったとあります。又「富んだ青年の話」は印象的です。神の国に入る為に私は律法を皆守ってきました、と豪語する青年は、主イエスの前に、すごすごと去って行きました。それは、彼が「財産を持っていたから」でありました。

 聖書は我々と金銭との関係をどう扱えと言っているのでしょうか。信仰者は金銭を得てはいけないのでしょうか。
 ある(サイトでの)説教者はこのように言います。「我々キリスト者が求められているのは、金銭から離れ、それを捨てる事である。それが神様の御心である」と、言われておりました。この直球でファンダメンタルな聖書理解には、1つの正しさと、一つの間違いがあると思います。一つの正しさとは、文字通り、我々信仰者は金銭に捕らわれる者たちではないという事です。それは先ほど言った結論と同じであります。そして、一つの間違いというのは、我々の生活はそれでも金銭によって成り立っているという事実を忘れてはならない、という事です。
 確かに、伝道をするにしても、教会を建てるにしても、多額の資金が必要であります。宣教活動を行うにしても運転資金が必要なのです。
 又、多くの困った人々を支えたいと思う時、自分の体が思うように動かない人、もしくは年齢的な問題でそこに駆けつける事が出来ない場合、金銭による支援が最も効果的であると言えるでしょう。3.11の大震災に際し、我々浦和教会においても、今後も募金活動を続けていこうと計画しております。

 このように、―金銭それ自体は、勿論手垢が付いていると言う意味において汚いかも知れませんが―、その性質において決して汚いものではありません。むしろ良い使われ方がなされるのであれば、それは意義深い物となり得るのであります。

 世界経済は大航海時代とアメリカ新大陸発見を経て、17世紀の産業革命によって新たな展開を見せます。それは資本家階級と労働者階級の明らかな区別であります。それによって現れたのは、「格差」です。先週の説教でも触れましたが、金銭の追求によってもたらされる事態は、多く持つ者が少なく持つ者を支配し、更に搾取を続けていくという連鎖であります。多く持つ者は投資をする事が出来、更に多くを持つ者になっていく。しかし少なく持つ者の状況は劇的に変わるという事がほとんどない。少なく持つ者は少ないままで甘んじて行かざるを得ない、という事が起こるわけです。これが私たちの社会の中で起きている経済の流れ、金銭の流れであります。

 又、今日の箇所にあります「仕える」という言葉に着目してみると、この単語は「奴隷になる」もしくは「隷属する」という意味から派生した語であり、ここでは奴隷が主人に仕える事がイメージされている事が分かります。新約聖書が書かれた当時は、普通に奴隷という身分があったようですが、しかし一人の奴隷が二人以上の主人の所有になっている事は稀であったと言われています。つまり当時の一般的な主人と奴隷との関係に例えて主イエスはここでお語りになっているのです。奴隷が複数の主人を持たないように、あなたがたの主人も一人である、と言われる。

 そしてここでは神と富を擬人化して二者択一の事柄として命じているのです。富という単語は、「マモン」という言葉が使われています。マモンというのは、元々アラム語でありましたが、ギリシャ語に取り入れられるようになり、神に敵対する人間の強欲を擬人化した悪魔として描かれるようになりました。
 つまりキリスト教会の長い歴史の中で、金銭を表す単語が、悪魔を表す単語として使われるようになったという面白い現象が起こっているのです。それはカトリック教会的な伝統や、神話に基づいて定着してきたものでありますが、私たちプロテスタント教会でも、金銭は良いものというよりも、むしろ悪い者として考えられてきたのです。それは金銭の持つ魔力と言うべき力であり、金銭そのものが悪いというよりも、それを使う我々の側に問題があると言えるでしょう。

 つまり私たちは今日の箇所において、単純に金銭を全て捨てなさい、あれは無益な産物だ、と言われているのではありません。金銭それ自体は、決して悪いものではなく、我々はこれを社会生活を潤滑させる手段として、道具の一つとして用いているからであります。2000年前も現在も同じようにこれを道具として使っています。勿論新自由主義経済などという現代的な経済観念が主イエスの時代にあったわけではありません。しかし小麦粉を袋いっぱいに詰めたら何デナリオンというような事は、対価交換の道具として使われてきたわけです。それは今も変わりません。

 金銭とは等価交換の“道具”だと言えます。つまり物質としての紙幣とコイン自体には聊かの価値もないのです。1万円札も、1000ドル札も私たちには価値のある物です。しかしこれを2000年前のパレスチナに持って行っても何の価値もありません。ただの紙切れ以外の何物でもないのです。しかし私たちは、この紙切れに、「紙幣
」という価値を与え、価値ある物というルールに則って、価値ある物と「見做している」だけなのです。つまり私たちの使っている金銭というものは、その文化的状況とそのルールの中にあって、その社会の決まり事の枠内のみの価値であって、普遍的価値のあるものではないのです。それが金銭のシステムであり、金銭のルールであります。

 しかし金銭によって人は何でも購入する事が出来ます。それはあたかも“万能”であるかのようにあらゆる物を手に入れる事が出来るのです。家を買うのも、未来に投資するのも、人命の賠償や慰謝料としても使えるてしまうのです。それは全能であり、万能であるかのように錯覚してしまうのです。しかし実際は「ルールの中に留まった価値しか持ち合わせない」、それが金銭というものの実態なのであります。
 私たちはこの事に注目したい。「二人の主人に仕える事は出来ない」と聖書が言う時、私たちは「金銭を使ってはならない」とか、「それを出来るだけ多く捨てよ」と言う事が言われているのとは異なるのです。金銭のルールや金銭の論理に従い、それを神としてはならない、という事が言われているのです。

 金銭は増やす事が出来ます。増えたら更に増やす術を持っている。銀行に預けるだけでも―最近は少なくなったかもしれませんが―しかし、預けるだけで増やす事は出来るのです。金銭は簡単に多く製造してはなりません。需要と供給のバランスを保ちながらでないと急激なインフレーションを引き起こしてしまいます。それは金銭そのものの価値を無くしてしまわないためです。つまり金銭は、出回っている一定量を如何に多く自分のところに集めるかという構造の中で、自分の中で増やしていこうとするものなのです。ある一定の分量しかない金銭を、人々はこぞって自分のところに集めたがる。それが金銭の力です。それは勿論「負の力」です。それを集めようとする構造は、正統な労働の対価としてに留まらず、不当に、つまり、出来るだけ多く、そして手間をかけず、効率よく集める事を人々は求めてしまいます。それが不正を働く構造を作っていくのです。貸金業者の高過ぎる利率が一時期問題になりましたが、あれは効率よく、より多くを求めようとした結果、法のグレーゾーンをかいくぐった結果だと思います。それは我々に対する誘惑です。そこでは人の痛みは無視されます。騙してでも私腹を肥やす事が求められていくのです。自分の為ならば、人の悲しみも、辛さもまるで感じないかのように、ある一定の量しか出回っていない金銭を、自分のところにだけ増やそうとすべく、目的は遂行されるのです。それが金銭のルールに則ったシステムであり、金銭の構造であります。

 ここでお分かりになりますでしょうか。聖書は、この“金銭の論理”を主人とするのではなく、“主イエス・キリストの論理”を主人とせよ、と命じているのです。金銭が、人の痛みを感じさせないのに対し、主イエスは自らを痛み、それも十字架の死に至るまでその身に痛みを受ける事の中で、他者との関わりを持たれました。金銭を追及する事が、他者から奪う事であるのに対し、主イエスは、他者の為に自らを奪われる生涯を送ったのです。それが神の独り子、キリスト・イエスの救いの論理であり、キリストの我々に対する価値であるのです。罪を持つ私たちにはまるで価値がなかったとしても、しかしこの価値無き我をも価値ある者と見做して生かす主であるのです。

 十字架というローマ帝国の処刑方法それ自体には何の価値もありません。凄惨で惨たらしい死刑の方法以外の何物でもありませ。しかしこの価値のない十字架にお掛りになってその上で流された血によって、私たちはキリストに罪贖われた者としての価値を得るのです。価値無い物をあたかも高価なものとして、見做して下さる。「あなた方は世の光であり、地の塩である」と断言して下さり、神の子としての群れの一端に私たちを招き入れてくださるのです。それが我々の主、つまり、我々のマスター、我々の主人である、イエス・キリストであります。あなたはどちらを主人とするのか。あなたが価値ある生き方を追求し、あなた自身の価値を認められ、あなた自身がそれを自覚して生きる真の生き方はどちらなのか。どちらの主人の論理の中で、どちらの主人に従う中であなたは真の命を得ていくだろうか。その二者択一が迫られているのであります。

 金銭という主人は、時として、奪い合い、騙し合う事を求める。又、時として人を愛さず、人よりも抜きん出る事を求めるのです。しかしキリストという主人は、常に与え、真実を求めます。そして常に愛し、人を生かそうと試みるのです。今日の箇所によって私たちに示されるのは、私たちの生き方そのものであります。キリスト者として生きるという事は、生かし、愛し、そして与える生き方であるという事を示しているのです。私たちの主人がそうであったように、私たちも又そのように生き、その主人を価値として、私たちの価値を見出すものでありたいのです。            
(日本キリスト教会浦和教会主日礼拝説教 2012年5月6日)

マタイによる福音書6章19節-23節 『天に富を積みなさい』 2012年4月29日

 マタイによる福音書6章19節-23節 『天に富を積みなさい』

 「原始共産制」という言葉があります。これは通常マルクスやエンゲルスとの関連で使われる言葉ですが、一言で言いますと、財産を共有する原始的な社会制度の事を言います。例えばアメリカ先住民族たちが、彼らの集落の中に富や権力による階層構造を持っていなかったという事、つまり、原始的な人類は、富や財産を集めて確保する事はなく、みんなでそれを共有していた、という仮説です。これは特に狩猟民族に見られる特徴だと言います。狩猟民族は食料を長期保存する事ができず、獲物を捕まえるとすぐに消費しなければなりませんから、余った分を取っておくという習慣が生まれなかったというものです。それが有史以前の社会に起こった自発的な社会システムであり、それが人間の根本原理である、という考え方であります。しかし人間は次第に穀物の栽培を行い、家畜化が進んでいきます。そうなると徐々に「所有物」という概念が生まれていきまして、それが財産や富になっていきます。それが結果として階級制を産み出し、人間は富む事に必死になっていく。そのような経済学的な考え方の事を、「原始共産制」というのであります。

 しかし私自身、この考え方に聊かの疑問を持っています。つまり人間は根本的には共産主義であり、みんなと平等に分け合い、所有する事を知らなかったというのは、相当楽観的であるし、しかもこれは共産主義を進めるためのプロパガンダとしての言説であると思うのです。人間は元々こんなに素晴らしい生活をしていた。しかし貨幣経済がそれを駄目にしてしまった。だから今こそ共産主義を立ち上げようではないか。このような共産主義正当化の論拠として使われる為の言説であると思うのです。

 もし原始共産主制なるものがあったとすれば、随分と古い話であって―進化論を前提にして考えるならば―、我々人間がより動物に近かった頃の事と思います。それを「かつての人間は共産主義であった」などと一括りに出来ないのではないかと思います。人間が他の人間と集落を持ち、社会生活を営むようになれば、人間の根本には「富を集める」という行為が起こり、それは人間に内在する行為であるのではないかと思うのです。狩猟生活をしていようとも、農耕生活であろうとも、貨幣経済が持ち込まれるか否かによってではなく、我々人間に内在する思いと行動が、富を得る事、収集する事ではないかと思うのです。小さな子どもたちが、兄弟でおやつを取り合っているのを見ても微笑ましく感じますが、大の大人が遺産相続によって財産を取り合っているのを微笑ましく感じる事はありません。しかし子どもであれ、大人であれ、やっていることに大差なく、人間の中に内在する富への飽くなき追求心は、原始的生活であれ、現代的生活であれ、人間が人間である以上無くなる事は無いのではないかと思うのです。

 聖書はこれを原罪と呼んできました。アダムとエバが神と同じ知識を得たい、知恵を得たい、という事から始まった人間の堕落への道は「得たい」という思いにその発端があった事が示されています。それは知識の所有であり、神の権利と力の所有を欲する事によって起こった出来事であったと聖書は語ります。

 この飽くなき追求としての富への憧れ、財産を得る事への欲求を考える時、私たちに今日与えられた御言葉がどのように響いてくるでしょうか。
「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」この言葉を聞く時、私たちは何を感じるでしょうか。

 教会に初めて来た人、キリスト教を全く知らない人は恐らく「天に富を積むなんて事は出来ない。具体的にどうやればいいのか」と問うかもしれません。キリスト者やキリスト教信仰を理解している人は「この世で善い行いをする事は、天国に宝を積むことになる」と素直に受け入れるかもしれません。また他宗教に属する人は、善行は自らの徳を積むことになる、と理解するかもしれません。読む者によって色々な印象を与えるこの言葉「天に富を積む」とは一体どういう事なのでしょうか。ともすれば我々はそこまで深く考えて来なかったのではないかと思います。我々キリスト者は、天に宝を積みなさい、という言葉を様々なところで使いますし、私たちは良く聞いてきました。この世での善い行いは神様が見ているのだから、それは後々の為の天国への積み立てとなる。このように捉えてきたと思います。しかし、よくよく考えてみますと少しおかしな感じもするのです。何故ならそれは善行を積む事が、功績を天に残す事、と受けとめられなくもないからです。言い換えるならば、私たちは信仰告白の信仰箇条として「功なくして罪の許しを得、神の子とせらる」。口語文では「功績なくして罪が赦され、神の子とされます」と告白しています。つまり善い行いをすることは何の積立てにもならず、救いはただ神の憐れみによってのみ与えられる恵みである事を私たちは告白しているからです。この事を私たちはどう考えれば良いのでしょうか。それは富の価値と私たちの関係にあると思うのです。
 

 冒頭でも言いましたように、私たち人類は、物を収集し、集め、ため込むという傾向にあります。私たちは差別や格差のない社会を求めたいと願いますが、しかし人間が富や財産をため込むことによって、それに基づいて格差つまり、貧富の差を産み出し、結果的にそれが社会的差別を産み出していくのです。支配階級、被支配階級はこうして生まれます。もちろん富や財産が「貨幣」である必要はありません。ある民族は家畜をどれだけ所有しているかによって判断され、ある国では貴金属や土地の所有によって、又ある種の人たちは株などの取引可能な有価証券の量によって富を判断されます。しかしそれは単に財産を持っているという事に留まらず、「所有」それ自体が社会的地位として判断されていくのです。多くを持つ者は、より価値の高い者として位置づけられ、そこには共同体からの特別な位置付けが与えられます。貴族とか、豪農とか、地主などと呼ばれる人がそれに当たります。その部類の人々は、地域での発言力を持ち、時には政治的な関与を許され、大きな共同体を動かす権力を与
えられます。つまり財産を持ち、富んでいく事は、社会的な地位と密接な関連性の中に置かれている事を示すのです。富を熱望する人は、富を更に富ませていきます。それによって更に人間的価値を高めていきます。否、人間的価値があたかも高いかのように思われ、又そのように評価されていくのです。しかし「富」は単に裕福である事から離れ、人間の価値それ自体を規定し、生きる意味や、生きる価値への判断へと変わっていくのです。例えば、富む者はあたかも価値のある人のように受け止められ、社会的に受け入れられていきます。それは「重用される事」や「蔑ろにされる事」など、人から愛されるという要素にも踏み込んでいきます。富む者は愛され、注目を受け、財産を持つ者は、財産を持つという理由で人々から尊敬され、愛されていく。つまり「富」や「財産」は、所有物・物質的要素を飛び越えて行き、その人自身の価値を決め、その人が愛されるか否かまでも決めてしまう要素となってしまうのです。少々言い過ぎかもしれませんが、人間社会というのは、このような価値観の中にあると思うのです。もちろんそうでなはない価値を持っている人も大勢いるとは思います。しかし得てしてこの世が貨幣経済によって市場経済の原理で回っている現状を考えるならば、中世以来私たちの価値は、つまり人間的価値の多くは財産や富と密接に結びついてこざるを得なかったのではないかと思うのです。

 しかし聖書の言葉は実に良く確信を捉えているのです。そのような富は「虫に食われる」と言います。富は「錆びつく」、又、「盗まれる」と言うのです。これによって人間的価値を判断されてきたその前提となる物。その根拠となる物は、実は小さな虫に抵抗できず、経年劣化や時間に耐えきれず、悪い人の餌食になると言うのです。美しい価値ある衣類や反物は、虫に食われる事でその価値を失います。価値ある美しい工芸品も錆びつく事でその価値を落とします。家畜は病気に罹るし、備蓄していた穀物はカビや虫の害を受ける。株式投資は一瞬で破綻を招き、盗人は獲得した者を奪っていく。

 私たちがその人生のすべてを、否、人から受ける愛情なども含めてその全てを価値付けてきた根拠である「富」とはこんなものだ、と聖書は言うのです。まるでウィットに富んだジョークのように、富そのものの真実性を暴くのです。このような物と結びつくのが私たちの生きる意味であるならば、それは私たちの人生そのものを脆弱にするのではないか。もし私たちが、この富によって立もし倒れもするならば、私たちの人生とは一体なんだろうか。私たちの命とは一体なんだろうか。私たちが幸福に生きるとは、価値ある人生を喜んで生きるとはなんだろうか。その事を聖書は指し示すのです。私たちは、虫に食われ、錆びつき、盗人に奪われていくものと結ばれて生きるのではなく、神と結ばれて生きていくのだ。神と結ばれるということは、虫に食われ、錆びつき、盗まれる事のない物であり、神の価値の中で生きていく事に他ならない。財産の浮き沈みと共に人生も浮き沈んでいくのではなく、全き神の価値によって、神の栄光と共に、価値づけられていく。つまり天に富を積むとは、善行や徳を積んでいく事ではなく、あなたの富とは何か。あなたが最も心を込めて大切にするものとは一体何か。あなたの心の所在がどこにあるのか、その事を示すのです。だから21節で「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」と言われるのです。これを言い換えると、あなたが最も心を込めて大事にしている物こそがあなたの富である。というのです。

 私たちは今日の御言葉を、私たちの財産をどこに貯えるのか、あとあとの事を考えて、善い行いをしておけば天国に行った後に良い事がある、と捉えがちでありましたが、しかしこの御言葉は、富の概念そのものを変えるよう促す言葉であったのです。つまり、あなたを救い、あなたを贖い、あなたを導く神ご自身があなたの財産であるのだ。神と共に生きる事こそが、私たちにとっての宝なのだ。聖書のこの言葉をしっかりと受け止めたいと思います。

(浦和教会主日礼拝説教 2012年4月29日)

マタイによる福音書6章16節-18節 『陰気な顔つきをするな』 (後半)

 マタイによる福音書6章16節-18節 『陰気な顔つきをするな』

≪前半からの続き≫
 しかしこのような人間の思いは主イエスの時代にまで続いて行きます。主イエスの時代、ファリサイ派などの律法の専門家たちが、民の信仰の中心となって指導しておりました。私たちは聖書を読んでいると、どうしてもファリサイ派を悪者として理解しがちであります。確かにイエス様がファリサイ派たちの事を「偽善者」と呼んでおりますから、そこからイマジネーションされるのであろうと思います。しかしそれには様々な歴史的事情があります。セレウコス帝国と呼ばれる国によって支配されていたユダヤ人たちは、律法を厳格に守る事を信仰上の重要な要素として再確認したそのような時代がありました。その中で律法に関して厳しく、忠実に、信仰的行いとして、これを守る事が大事にされてきたのです。それが紀元前160年頃以降の話ですから、イエス様の時代のファリサイ派たちは、そのような時代の要請から、律法をしっかりと解釈し、厳しく取り扱っていたわけです。ですからファリサイ派を悪者とか偽善者というステレオタイプに区切ってしまうのではなく、時代の産物であると考えてよいのではないでしょうか。そして彼らが当初厳格に信仰的行いとして律法を守っていたのに、あのような偽善者的な行為を行うように堕落していった様を知る私たちは、ファリサイ派を馬鹿にすることは決して出来ないのであります。つまり最初は純粋で、高尚な行為であっても、それは偽善的になる要素を「私たち人間が」持っているからであります。つまり私たちには、ファリサイ派的要素がある、という自覚を持たねばならないのではないでしょうか。

 私たちは人に見せ、評価される事によって、それが励みになったり、やる気が増したりも致します。それが私たちのモティベーションとなるわけです。しかし殊、信仰に関して言うならば、それは信仰を立ちもし倒れもする、あなたの信仰それ自体を決定的に価値付ける要素となってしまうのが、「他人からの評価である」と主イエスは言います。つまり信仰が、他者に信仰深さを見せることや、他者からの評価を得るための偽善的なものとなってしまったら、それは既に信仰ではないと主イエスはおっしゃるのです。音楽作品や小説などの文学、テレビドラマや、サービス業、役者や、演奏者、お笑い芸人などに至るまで、他者からの評価によって価値付けられる物は多くあります。視聴率や、発行部数、批評家からの評価などが、それらの力となります。しかし信仰はそうではないのです。あなたの信仰は素晴らしい、と言われる事が第一義的な目的になったとき、その信仰は最も核心的な部分を取り去られたのと同じことになるのです。

 これまで2か月に亘って主の祈りを詳しく見て来ましたから忘れがちなのですが、マタイ福音書6章1節~18節は、一つのまとまりを持って、一つのテーマを持っています。真の施し、真の祈り、そして真の断食、という真実の信仰の3つの要素について語られてきました。真の施しとは何か。人にこれ見よがしに見せて善行をしたフリをするな。人前で恭しく信仰深そうに祈るフリをするな。そして、さも悔い改めたようなフリをして、信仰深そうにするな、という、どれもこれも、大変厳しい言葉であります。しかしこの6章を通して主イエスは、表面的な行いに沈んで行きがちな私たちを支え、励まそうとしているのであります。

 聖書の中にはレプトン銅貨をたった2枚捧げた貧しい女性の献げ物こそが、真の献げ物であると主イエスは言うのです。それは貧しさの象徴であり、それ以上を献げる人がずらずらと立ち並ぶ中で、本当に哀れで、失笑を買いそうな献げ物であったかもしれません。しかし彼女は周囲の目による評価によってではなく、自らの信仰を通して、あの小さな物、たった2枚を献げたのであります。これを主イエスは目に留めて下さったのです。

 また、ナルドの香油を注いだ女性の話も同じであります。非常に高価なナルドの壺を惜しげもなく叩き割って全ての香油を主イエスに注いだあの女性は、人に見せようとしたために行った行為ではありませんでした。むしろあの場面では、評価されるどころか、イエスの弟子たちからの痛烈な批判を浴びているのです。しかし女性は一切語らず、自らの思った通りの信仰の表し方をしたのであります。それは十字架の葬りの準備でありました。もし彼女が名声を得たかったのならば、それを換金し高額な金額として献げ物にしたでしょう。そして主イエスと弟子たち皆からの評価を得るために大判振る舞いしただろうと思います。しかし彼女はそれを惜しげもなく、主イエスの為に使い切ったのです。そこには、十字架と葬りの為の準備、偽善によってではなく、真の信仰からの思いがそうさせたのです。だからこそ聖書は、「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(マルコ14:9)と言われているのです。

 預言者イザヤは、真の行い、真の断食とはこれである、と言って、次のように語ります。
 (イザヤ書58章3節-10節)
58:3 何故あなたはわたしたちの断食を顧みず、苦行しても認めてくださらなかったのか。見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし、お前たちのために労する人々を追い使う。58:4 見よ、お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし、神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては、お前たちの声が天で聞かれることはない。58:5 そのようなものがわたしの選ぶ断食、苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと、それを、お前は断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。58:6 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。58:7 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。58:8 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る。58:9 あなたが呼べば主は答え、あなたが叫べば、「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉をはくことを、あなたの中から取り去るなら、58:10 飢えている人に心を配り、苦し
められている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。


 真の断食とは、自分が苦しい思いをするだけではなく、飢えた人にパンを与える事だ、とイザヤは言います。本当に断食したいなら、つまり本当に信仰者として生きるなら、自分自分と、自らを主張する事を止め、他者に施し、他者を生かし、他者を愛して生きる事。それが主の示される信仰者の生き方であるのです。

 何よりも主イエスは、多くの律法学者たちからは猛烈な批判を浴びましたが、人を生かしました。特に蔑まれた者、生きる気力を無くした者、生きる価値がないと言われた者、粗末に扱われた者、呪われていると言われた者、そのような者たちの苦しさと共に生き、その痛みを共に痛んだのであります。それは十字架の痛みによって示されます。主イエスの痛みによって私たちには、恵みが与えられた。主イエスの断食とは十字架の事であり、真の断食とは、人を生かす、つまり私たちを生かすための痛みの断食であったのです。その十字架の光に照らされる我々は、どのように生き得ましょうか。イザヤは58章10節で言いました。58:10 飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。
 それは、人の為の施しではなく、私たちを包む闇を晴らす光となるというのです。私たちの信仰が曇る事があるとするなら、他者を忘れ、自らの光に没頭する時である。聖書はそのように語るのです。
 復活節の第3週目のこの時、私たちの信仰がキリストの十字架と復活の光に照らされるものでありたいのです。

(浦和教会主日礼拝説教 2012年4月22日)

マタイによる福音書6章16節-18節 『陰気な顔つきをするな』 (前半)

 マタイによる福音書6章16節-18節 『陰気な顔つきをするな』

 一昨日の金曜日、宮城県の東松島市に行ってまいりました。これは中会連合婦人会の働きの一環として、東松島市の仮設住宅の方々への支援をしようと取り組み始めた事によります。私は今回が初めてだったわけですが、高速道を降りてすぐの工業団地内に小さな仮設住宅の集落がありまして、ここに8世帯の方々がお住まいになっております。

 仮設というぐらいですから仮に設置された住宅でありまして、この住宅は様々な問題を持っておりまして。印象的だったのは、この住宅の構造が、阪神淡路大震災の時と同じような構造で建築されている為、温暖な気候が前提にされている造りになっている事でした。薄い壁と一重の窓からは、冷気が入り込み、冬場は大変に寒かったそうです。途中から作り変えて二重窓と断熱材を入れたとはいうものの、完全な寒冷地仕様ではありませんから、はやり問題も多い。特に壁一面が結露して水滴がびっしりとついてしまい、寝ていると天井からぽたぽたと水滴が落ちてきて、顔がびしょびしょになるという話はその大変さを語るお話でした。壁が薄いため、隣の声が丸聞こえであるという事や。一人暮らしの方の場合、4畳一間に住むことを余儀なくされる事など。本当にご苦労なされていると感じました。奥尻島の津波の時は義捐金の金額に対して、被災者の世帯が少なかったため、全て新築で新しい家が賄われたそうです。しかし今回は何万人という人が被害を受けている為、今の義捐金では、人世帯数百万が配られただけで、流された家は帰ってこないという事でありました。

 このような現状に対して、県庁、政府筋の人たちの対応が遅い、という事が問題点として挙げられていましたが、驚いたことに、岩手県では県知事が仮設住宅に1週間住んだという事でありました。宮城県知事はやらなかったようですが、岩手県知事は、この仮設住宅に住んだ場合、どのような問題があるのかを肌で感じてみよう、という事を考えてそのように行ったのであろうと思います。それは大変あっぱれな事であるなと思います。造りっぱなしではなく、そこには生活が続くわけですから、自分の体で感じてみよう、というのは、住民にとっては良くやった、という思いはあるかと思います。

 しかし裏を返せば、1週間という期限が付きますから、ゴールがあるわけです。この一週間何とか耐え凌げば、元の生活に戻る事出来るのです。その間だけ、目に見えて分かる機関だけ我慢すれば良いのです。ですから、本当の意味でそこの住民と同じになる事はできません。むしろキャンプ感覚で、少し不便な経験をすることで、むしろ周囲から「よくやった」という言葉をもらえるという、政治家としての株を挙げ、「支持率」という十分な報酬を頂けるよいパフォーマンスともなり得ると思うわけです。大変穿った、ひねくれた考え方だと仰るかもしれません。この知事にそのような意図が微塵もないのでしたら、大変申し訳ない事を言っているのかもしれません。しかし期間限定の苦しみというのは、そういうものだと思うのです。事柄が本質から離れ、周囲からの評価の問題にすり替わってしまう。あの人は良く頑張っているのね。良く耐え忍んでいるのね、という言葉が自らの行為の意義そのものになってしまうのです。

 何が言いたいがお分かりかと思います。今日の箇所で与えられましたのは、断食の話です。本当の意味での断食とは何か、その事を主イエスは問うておられます。断食という信仰的行為が、その純粋性を失い、その事によって本当に表そうとした断食の意味ではなく、見苦し顔をしてあたかも私は信仰深いのですよ、という事を周囲にアピールする事が第一義的な目的になるのだとするのならば、その断食の意味とは何なのか。本当に断食をしようと、信仰心からするならば、顔をきれいに洗って、人に見えないような仕方でそれを行いなさい、という趣旨であります。

 断食という行為は、そもそも「あるもの」を、「無い物」としてそのように生活することでありましょう。元々目の前にある食料を「あたかもない物」として生活する事が断食であります。断食とは飢えて苦しんでいるから食べられないのではなく、あるけど食べない行為の事を言うのです。それによって悲しみや苦しみを信仰的に共有するという目的として行うのであります。

 そもそも断食とは、聖書の古い記述の中に見られます。モーセ五書であるレビ記16章に既に登場し、使徒言行録27章の時代まで、これが行われた事を示します。これはイスラエル共同体が悔い改めを告白し、神の助けを願うために行われて来たものであります。又信仰行事として国の記念日に行ったり、バビロン捕囚期には年4回これを行い、エルサレム陥落と神殿崩壊の悲しみを覚えて行っていたものであります。またサムエル記では共同体ではなく個人的にこれが行われていた事が示されますし、ある預言者は病の癒しを願って断食したというように祈願として行っていた事も記されております。

 このように断食という習慣は、信仰的なものとして定着しておりました。ですから悔い改めの断食、悲しみを表す断食、記念の断食、神への祈りとしての断食など、これが全て神に対して行う行為として守られてきた事が分かります。

 しかしその目的が人に見せる事に変質した時、それは信仰的な行いから、偽善的な行いへと変化していくのです。信仰的な行いが、形骸化し空洞化した時、その行いは真実な行いから離れ、偽善へと変わっていきます。その事も又、聖書で何度も語られています。

例えばエレミヤ書14章12節 「彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。彼らが焼き尽くす献げ物や穀物の献げ物をささげても、わたしは喜ばない。わたしは剣と、飢饉と、疫病によって、彼らを滅ぼし尽くす。」

ゼカリヤ書7章5節-6節 「国の民すべてに言いなさい。また祭司たちにも言いなさい。五月にも、七月にも、あなたたちは断食し、嘆き悲しんできた。こうして七十年にもなるが、果たして、真にわたしのために断食してきたか。あなたたちは食べるにしても飲むにしても、ただあなたたち自身のために食べたり飲んだりしてきただけではないか。」

 神はこのような痛烈な批判をイスラエルの歴史のあらゆる箇所で浴び
せてきたわけであります。

≪後半に続く≫