人が受ける試み

2009.11.15  詩編 73:1-28  牧師 中家 誠
 
 わたしたちは、この世に生きる限り、「試み」というものを避けることができない。悪へと誘う誘惑があり、理想を求め成長していく中での行きづまりもある。信仰にも試みがある。信仰は存在をかけて生きるだけに、試みにも厳しいものがる。

 この詩編73編の信仰者の場合もそうであった。彼は、「悪しき者の安泰を見てうらやみ」、「信仰者である自分の空しさを思った」という。神に逆らう者が富み、かつ健康で、大言壮語し、禍いに会うこともない。これを見てねたんだのである。「果たして神は、これを見ておられるのだろうか」と。

 その時、神は彼を、「心の聖所」へと導いてくださったのである。その時、一瞬にして、彼らの行く末を悟った。あたかも稲妻が闇夜を引裂くように、彼の心の闇を照らしたのである。 

 人は永遠者の光のもとに立つとき、何とはかなく、もろいものであることか! この世は自分の中に、永遠の生命をもたない。神のさばきの下には、死と滅びがあるのみである。

 それに対して、神を信じる者は、何と大きなものを与えられていることか! 神ご自身という偉大な御方そのものを与えられているのである。「神こそ、わたしの嗣業、わが宝である」。この御方の愛の御手の中にあることこそ、人間の至福であり、その方との交わりの中に、永遠の生命が宿っていることを。

 この恵みに生きるために、人は自分の思考を止めて、神の思考の中へと移し変えられなければならない。これこそ聖霊の御業なのである。「神と共に生きることの幸い」こそ、人間にとって究極のものなのである。

神さまと隣人を愛して生きる

2009.11.8  マルコ福音書 12:28-34  牧師 中家 誠

 ある人が主イエスに、「神の戒めの中で、何が一番大切なものでしょうか」と問うた。主イエスは、「心を尽くし、力を尽くして神を愛すること、また、自分のように隣人を愛すること」と答えられた。これは、人が生きていく上でなくてならない2本の柱である。

 では、なぜ「神を愛すべき」なのか? それは神がわたしたちの造り主であり、ご自身を与えるほどにわたしたちを愛し、永遠の生命へと導かれる御方だからである。わたしたちの産みの親、育ての親以上の御方だからである。

 では、なぜ「隣人を愛すべき」なのか? それは隣人もまた、神によって造られており、神から愛を受けている者だからである。「目に見える人を愛さないで、どうして目に見えない神を愛することができるだろうか」との御言葉もある
(Ⅰヨハネ4:20)。

 この2つの大きな目標。これは神から与えられた課題であり、わたしたちのこの世で生きていく行い(おこない)の、行きつく先にあるものなのである。これを見失った時、わたしたちは大きな誤ちを犯すことになるのである。この事をいつも忘れないで生きて行きたい。

誘惑に陥らないように祈りなさい

2009.10.18  ルカ福音書 22:34-46  三輪地塩 牧師

 「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけて下さい。しかし私の願いではなく、御心のままに行って下さい」(42節)という主イエスの祈りは、畏れの中にありながら、熱心に神の御心を見つけ出しているように思えます。

 私たちは、自分の祈りが適わなかったとき落胆してしまいます。しかしこの箇所が教えるのは、祈りとは、目をつぶって大願成就のために手を合わせる事ではなく、目を見開いて、サタンの誘惑を見分けると共に、自分の願いを神の願いへと合わせられていく戦いである、という事です。

 弟子たちは「誘惑に陥らないように」と再三言われますが、それは「私の願い」が神の思いを侵食してしまう誘惑、「私の思いこそが神様の思いである」という、「思い上がり」という名の誘惑です。しかしその誘惑に陥らずに、「変わりうるものと変わりえないものを識別する知恵と思慮分別をお与えください」(ラインホルト・ニーバー)と祈ることの出来る戦いが必要なのです。自分の思いや願いが強くそこにあるとき、真っ先に神の思いを見つけねばなりません。そのために、主イエスが苦しみ(アゴーニア)もだえたように、我々もまた、熱心に(アゴーニア)神の御心を求めねばならないのです。

 「祈りが適う」とは、物理的・現象的な成就ではなく、むしろ私たち自身が神の思いに変えられていくことではないでしょうか。私たち自身が変化され、刷新されていくこと。これこそが祈りの意味であり、祈りが聞き入れられる喜びであると思うのです。

恵みは弱さの中に

2009.10.11  ヨハネ福音書 9:35-41  牧師 中家 誠

 ヨハネ福音書9章は、「生まれながらの盲人」が、霊肉共に「見える人」とされて行く物語りである。従って、この「生まれながらの」ということは、わたしたち自身のことであり、人類全体のことを指しているように思われる。わたしたちはまさしく、「生まれながら」には、神を見ることも知ることもできない者たちなのである。

 この開かれて行く盲人は、その後、様々な試練(迫害)に、会いつつ、成長して行くのである。その彼に、主ご自身の方から出会ってくださり、「あなたは人の子を信じるか」と問いたもう。「主よ、その方を信じたいのですが」。「あなたは、もうその人と会っている」。信仰を与え、それを確かなものにしてくださるのは、主ご自身であり、また聖霊の働きである。

 「人の子」とは、ヨハネ福音書では、天地創造の神である方が、この弱くもろい限りある人間の中に、人となって宿ってくださるその恩寵の御姿を表わす言葉と思われる。日本キリスト教会信仰の告白の中にも、「われらが主と崇める神のひとり子イエス・キリストは、真の神にして真の人」とあり、ニカイア信条にも、「御子は御父と本質を同じくし」とあるその内容と同じである。

 このような「秘儀」を、わたしたちに理解させてくださるのは聖霊である。かくして、父・子・聖霊の三位一体の神の恵みにより、わたしたちは神を知り、神を見ることができ(仰ぎ見る)、神との永遠のいのちの交わりの中へと入れていただくのである。

 この恵みは、わたしたちの弱さ(罪人)のただ中で達せられるところのものなのである。(Ⅰヨハネ1:8-10)。

神は裁き、かつ救う

2009.9.27  創世記 19:1-29  牧師 中家 誠

 主なる神はアブラハムに、ソドム、ゴモラの裁きと滅びについて告げられた。その時のアブラハムの執り成しの祈りについては、既に学んだところである。

 今や主の御使いたちが、その実地検分のために訪れるのである。アブラハムの甥ロトは、町の門に座り、期せずして彼らを迎え入れるのである。もてなしの心を失っていなかったゆえに。しかしソドムの人々はこれを暴力的に迎えようとする。これを防ごうとしてロトは自分の無力さを露呈し、かえって旅人に助けられるのである。そして主の使いであることが判明する。

 彼らはロトに命じる。「命がけで逃れよ。後を振り返ってはならない。‥‥山へ逃れよ」と。これに対するロトの反応は鈍く、力強く応えることができない。

 ソドム、ゴモラに対する裁きと滅び。それは今日の時代全体に対する神の警告でもある。今日の人々は非常に貪欲であり、その結果、地球は悲鳴をあげている。また、他者を制圧する強力な武器として、核兵器の所持をもくろんでいる。その行く先は地球の破滅しかないであろう。

 これに対し、神はどう思っておられるであろうか。神は、人類がみ心に添う生き方をしてほしいと切に願っておられるに違いない。そのために「御子をさえ惜しまないでお与えになる神」である。

 私たちはこの神のみ旨に応えて、御顔を仰ぎつつ、御手を握り返し、信仰をもって歩んで行く者でありたいと願う。

我らは神の中に生き、動き、存在している

2009.9.20  使徒言行録 17:22-31  牧師 中家 誠

 1961年、ソヴィエトの宇宙飛行士ガガーリンが、初の宇宙飛行に成功して帰った時、出迎えた人々の中から、「神さまはいましたか」という質問が出たという。「いいえ、いませんでしたよ」と彼は答えた。それはユーモアを含んだやり取りであったが、また人間の素朴な願望をも含んでいる。「神さまの姿を見たい」という願望である。

 神さまは当然見えなかった。何故なら、神は宇宙の中の一存在ではなく、宇宙全体を包含する超越者なのであるから。使徒言行録にあるパウロの伝道説教の中に、「我らは神の中に生き、動き、存在している」というエピメニデスの言葉が引用されている。これをヒントにして言うならば、我を造られた存在は、母の胎にある胎児のようなものである。母の姿が見えないからと言って、母の存在を否定することはできない。自己の存在自体が、母の存在の証明なのだから。

 では次に、神はどのようなお方であるのだろうか。聖書はこう言っている。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ福音書1:18)と。神から遣わされた独り子なる御方こそ、神を現わす者(啓示者)なのである。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らないでは、だれも父のもとに行くことはできない」(ヨハネ福音書14:6)とあるとおりである。

 キリストこそ「神の啓示者」(真の預言者)、神へのとりなし手(真の祭司)、罪と死に対する勝利者(真の王)なのである。これがキリストの三職能と呼ばれるものであり、キリスト教の骨子なのである。