我らは神の中に生き、動き、存在している

2009.9.20  使徒言行録 17:22-31  牧師 中家 誠

 1961年、ソヴィエトの宇宙飛行士ガガーリンが、初の宇宙飛行に成功して帰った時、出迎えた人々の中から、「神さまはいましたか」という質問が出たという。「いいえ、いませんでしたよ」と彼は答えた。それはユーモアを含んだやり取りであったが、また人間の素朴な願望をも含んでいる。「神さまの姿を見たい」という願望である。

 神さまは当然見えなかった。何故なら、神は宇宙の中の一存在ではなく、宇宙全体を包含する超越者なのであるから。使徒言行録にあるパウロの伝道説教の中に、「我らは神の中に生き、動き、存在している」というエピメニデスの言葉が引用されている。これをヒントにして言うならば、我を造られた存在は、母の胎にある胎児のようなものである。母の姿が見えないからと言って、母の存在を否定することはできない。自己の存在自体が、母の存在の証明なのだから。

 では次に、神はどのようなお方であるのだろうか。聖書はこう言っている。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ福音書1:18)と。神から遣わされた独り子なる御方こそ、神を現わす者(啓示者)なのである。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らないでは、だれも父のもとに行くことはできない」(ヨハネ福音書14:6)とあるとおりである。

 キリストこそ「神の啓示者」(真の預言者)、神へのとりなし手(真の祭司)、罪と死に対する勝利者(真の王)なのである。これがキリストの三職能と呼ばれるものであり、キリスト教の骨子なのである。