わたしを顧みられる神

2009.6.28  創世記 16:1-16  牧師 中家 誠

 神がアブラハムに、「わたしが示す地に行きなさい」と命じた後、10年の歳月が流れた。その時、彼にはまだ子がなかった。妻サラはアブラハムに言う、「わたしの女奴隷のところに入り、わたしに子を与えてください」と。これは神の意に添う道ではなかった。

 やがて女奴隷ハガルは子を宿し、そこに思いがけない亀裂が生じてくる。女奴隷は女主人を軽んじ、女主人は彼女につらく当たるようになった。そこでハガルは、自分の故郷エジプトを目指して逃れようとする。しかしそれは死を意味したのである。

 その時である。主なる神がハガルに出会って問いたもうたのは。「ハガルよ、あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」。主はすべてをご承知でありつつ、そう問いたもう。そして「あなたはわたしのもとに来なさい。そして生きよ!」と。こうして神は信仰の道、従順の道へと導きたもう。地位も身分もない女奴隷に対してである。

 わたしたちも、人生のただ中で、ただひとり、行くあてのない道を歩いて行く時がある。その途上で、神はわたしたちに出会ってこう言われる。「あなたは何処に行こうとしているのか」と。神はすべての者を顧みたもう神である。それゆえに、わたしたちは天涯の孤児ではなく、永遠の父を持つ者であり、宿なしではなく、来るべき永遠の御国を持つ者たちなのである。

恩寵と召命

2009.6.21  詩編 139:1-18  牧師 中家 誠

 恩寵とは、広辞苑によれば、「罪深い人間が、神から与えられる無償の賜物」とあり、「超自然的な宗教の世界を『恩寵の国』という」とある。

 わたしたち、取るに足りない者が、神の特別な恵の中に遇されることである。昔から、神の恵により、キリストによって贖われた者は皆、この恩寵の世界に生きてきたのである。

 神の恩寵に与かる者は、まず、神の「知遇」(神に知られることの幸い)を受けるのである。創世記のヤコブが(創28:16)、預言者エレミヤが(エレミヤ1:5)、キリストの弟子となったナタナエルが(ヨハネ1:48)、徴税人のザアカイが(ルカ19:5)、そして使徒パウロが(使徒9:4)、皆、自分の名を呼ばれて、神の知遇を受けた。それは、自分が神を知る前に、神に知られていることの不思議な経験である。
 「神を知る」とは、「自分が神に知られている」ことの経験である。詩編139編には、そのことがつぶさに語られている。驚きと喜びをもって。

 そして「召命」とは、その神に知られている自分が、神に捕えられ、神のご栄光を現す者となって行く、その光栄のことである。恩寵に捕えられた人は、必ず、神に応答し、召命(呼ばれること、Calling)に生きる者となって行くのである。聖書はその「証しの書」なのである。

生きた水が川となって

2009.6.14  ヨハネ 7:32-39  牧師 中家 誠

 ユダヤでの仮庵の祭は、秋(9~10月頃)に行われる収穫感謝祭と出エジプトの記念日を兼ねた祭りである。その祭りの最も盛大に祝われる日に、主イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と。

 水は、パレスチナや荒野で生活する人々にとって、真に切実なものである。そこには、出エジプトの際の苦しみが反映している。

 また、わたしたち人間には、常に「渇き」というものがある。今日、経済不況のゆえに、多くの人々が生活上の苦しみを味わっている。そのような生活苦からくる「渇き」。更に、もっと奥深い人間の内奥から来る「心の渇き」がある。しかしこの後者の渇きは、神の御言葉(神のご人格)に触れなければ、知ることのできない渇きであり、この「永遠のいのちの水」に対する渇きこそ、キリストはうながしておられるものである。

 神の御子キリストは、人となってこの世に来られ、父なる神のもとから流れ来る永遠のいのちの水を、わたしたちに注ぐために来られた。このいのちに至らぬとき、人は不完全燃焼となり、欲求不満や時には犯罪となって現われ出るのである。

 キリストは十字架の死をもって、わたしたちの罪を背負い、復活によって永遠のいのちに至る道を開いてくださった。「わたしは道であり、真理であり、いのちである」。

 この尽きない「いのちの水」に与かるよう、御言葉を求め続けて生きたいものである。