イサク誕生の予告

2009.7.26  創世記 18:1-15  牧師 中家 誠

 信仰の父祖アブラハムの生涯は、神との出会いの生涯であった。そしてそれは、神の訪れによるものである。「福音」とは「よきおとずれ=音信」のことであるが、また「神の訪れ」でもある。

 この時も、アブラハムの予期しない時に、神は3人の旅人として訪れてくださった。その旅人に対し、アブラハムは知らずして(ヘブライ書13:1-2)最高のもてなしをしたのである。

 しかし考えて見るに、真のもてなしをしてくださったのは、むしろ神のほうではなかったか。神は彼に、「来年の今ごろ、わたしは再び来る」と言い、「その時、あなたに子が生まれているでしょう」と告げられた。それは「喜ばしいおとずれ」であるはずだった。しかしアブラハムの妻サラは、心ならずも、心の中で笑ってしまったのである。「自分は年をとり、主人も年老いているのに、何の楽しみがあろうか」と。

 このようにわたしたちは、主のご真実に対し、心の中で不信仰を抱く者たちである。その信仰の弱いわたしたちに、主は礼拝において現われ、祈祷会において現われ、「わたしである。しっかりせよ」と励ましてくださるのである。そして不信の笑いに代えて、信仰の喜ばしい笑い(イサク=彼は笑うの意)を与えてくださるのである。

聖なる神

2009.7.19  イザヤ書 6:1-8  牧師 中家 誠

 預言者イザヤ(今から2750年前の人)が、神から召命(神に用いられるために呼ばれること)を受けた時、彼は神殿の中で、聖なる神の栄光が満ちるのを覚えた。それは高く天にそびえ立ち、また全地に満ちる神の栄光であった。

 そのとき、彼が聞いた天来の響きは、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」という讃美の声であった。「聖なる」とは、この世と「異なる」「はるかに超えた」との意であり、神が天地の創造者として持ちたもう尊厳と栄光である。

 彼は、その圧倒される力に打たれて、「災いだ、わたしは滅びるばかりだ。汚れた民の中に住む者であるのに、王なる万軍の主を仰ぎ見たのだから」と、心の内に叫んだとある。

 わたしたち日本人は、「神の聖」の観念がうすいと言われる。創造者と被造物が地続きとなっているのである。しかし両者には、絶対的な相違がある。一方は造り主であり、他方は造られたもの。一方は無限であり、他方は有限である。この高き無限の神が低き者となり、愛のゆえに人となって来られたのがイエス・キリストである。ここにキリスト教の基があるのである。

わたしは世の光である

2009.7.12  ヨハネ 8:12-20  牧師 中家 誠

 仮庵の祭りは、イスラエルにとって秋の収穫感謝祭であり、出エジプトの荒野の生活を想起する時である。この祭りはまた、「水の祭り」「光の祭り」とも呼ばれた。シロアムの池から水を汲んできて祭壇に注ぐ。また燈火を明るくともして人々が歌い踊るのである。

 この祭りの終わりに、主イエスは「わたしは世の光である。わたしに従う者は闇の中を歩くことがない」と言われた。主イエスこそ、神のもとから来られた「真の光、命の光」である。これはキリストの自己宣言であり、わたしたちはそれを信じ、教会の信仰告白ともなっている。

 さて、光は闇の中に輝く。闇とは、①わたしたちの死と隣り合わせの苦しみや不安であり、②人の心の中にある憎しみや敵意の闇である。また③「自分が何処から来て、どこへ行く者であるか」を知らないことである。このような心の闇を照らし、いのちの根源者である父なる神のもとに導いてくださるのが、御子イエス・キリストの使命なのである。

 このキリストの証言を信じ受入れ、キリストと命の交わりを持つ時に、人は闇の中を歩くことがない。これは事実である。この証言を信じ受入れた人たちは、死の恐れから解放され、憎しみや敵意から解き放たれ、愛の人として生きたのである。コルベ神父の勇気、マザーテレサの愛は、これを物語る。そこに至ることは容易ではないが、そこに正しい真の生き方があることをわたしたちは知っている。これらは「世の光」であるキリストから来るのである。