神のみ業(わざ)が現れるため

2009.9.13  ヨハネ 9:1-12  牧師 中家 誠

 ヨハネ福音書9章は、ひとりの盲人の目が開かれて行く物語りである。肉体の目と共に、心の目が次第に開かれて行く、神との出会いの物語である。人生において、神とお会いすることにまさる大きな出来事はない。

 主イエスが弟子たちと共に道を歩いていた時、ひとりの生まれながらの盲人が道ばたに座っていた。弟子たちは尋ねる。「この人が生まれつき盲人なのは、本人が罪を犯したためですか。それとも両親が……」と。これは当時、よく議論されていたことであり、まさしく因果応報論である。日本人の多くがこれに支配され、世界の多くの人々、また多くの宗教が、これに支配されている。それは閉じられた、後向きの人生観であり、宿命論とも言える。

 これに対して主イエスは、「そのどちらでもなく、ただ、彼の上に神のみ業が現われるためである」と言われた。これは将来に向って開かれた、非常に前向きの理解、生き方である。それは、全能の神への深い信頼から来る。

 主は盲人の目にドロをぬり、「『シロアム』(遣わされた者の意)の池に行って洗いなさい」と言われる。すると彼は見えるようになるのである。そして心の目も開かれて行く。神に向って。そこから新しい人生、神に向っての第2の人生が始まるのである。

 「人はキリストにあるならば、新しく造られた者である。見よ、すべてが新しくなった」(Ⅱコリント5:17)と言われている通りである。

 人は皆、神さまにお会いするために造られている。そして真に出会った人は、「神と共に」生きて行く人となるのである。イエス・キリストは、そのための「道(遣わされた者)であり、真理であり、命なのである」(ヨハネ福音書14:6)。