2022.7.3 の週報掲載の説教

2022.7.3 の週報掲載の説教

<2022年6月12日の説教から>

『神の怒り』
ローマの信徒への手紙1章18節~23節

牧師 鈴木 美津子

 
パウロは、「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信
心と不義に対して、神は天から怒りを現され」る、と語る。神は、善

なる愛なるお方である。しかし、神の愛と神の怒りは表裏一体。主イ

エスの十字架の死の出来事は、それが最も現れている。神は、2000

年前に御子を十字架につけられ、そのたった一度の贖いの出来事によ

って、人間の罪を赦された。主イエスの十字架は、神の愛の満ち溢れ

るところである、と同時に神の怒りが最も現されるところでもある。

私たちはその両方を知らなければならない。

この「神の怒り」は、現在進行形でもある。主イエスの復活で、

「めでたし、めでたし」と、全てが終結して、神の怒りが帳消しに

なったわけではない。「神の怒り」は、世の終わりまで、十字架に集

約され続ける。そうであるからこそ、私たちの過去、現在、未来の全

ての罪が帳消しにされているのである。あのゴルゴダの丘で主イエス

がその身に受けた神の怒りは、世の初めから終わりまで、私たち罪人

が犯した罪、そしてこれからも犯すであろう罪の全てなのだ。

しかし、善なる愛なるお方が、ここまで激しい怒りをくだす理由は

どこにあるのか。それは、私に、そしてあなたにあるのではないか。

私たち罪人はそれを深く考えようとはしない。考えたくもないのだ。

あのアダムとエヴァは、神への感謝がないために心が鈍く暗くなり、

「あなたがこの女を与えたので私は罪を犯してしまった。悪いのはあ

なただ。そしてこの女が悪いのだ」と言い訳した。私たちも同じである。愛であり恵みなる神を真に信じるならば、たとえ表面的に理不尽で悪

く見えるようなことであっても、それが神の御手によることを知って、クリスチャンは感謝するのではないか。感謝とは、「ああ、今日も天

気がよくて、よかった」というようなものではない。永遠に滅ぶべき

罪人が、主イエスの十字架と復活によって永遠の地獄から、永遠の生

命へと救われたことへの感謝。これが感謝の始まりである。

私たちは、主の十字架を見つめながら、この世とまた迫り来る罪と

激しい戦いをしながら、神に感謝し、聖霊に助けられ、主日の礼拝を

守る。またこの教会に集められた人々と共に祈りあい、支え合って、

この地上生涯を生きて行くことを願うのである。