2022.10.23 の週報掲載の説教

2022.10.23 の週報掲載の説教
2022911日の説教から>
アブラハムと割礼
ローマの信徒への手紙4章9節~12節

牧 師 鈴木美津子

 
更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです(12)」。

ユダヤ人が信仰の父と敬い、異邦人とは縁もゆかりもないと思って疑わなかったアブラハムこそが、その原点において無割礼の異邦人であり、また異邦人が神の民にされる恩恵の先がけであった。パウロは、信仰が、割礼の民イスラエル、そして無割礼の異邦人を結び付けて、神の民を形成するのだと、言っているのである。信仰義認こそが、全世界に普くおびただしい信徒の群れとなる神の民を形成する原理であり力である、ということである。

そして、その信仰によって義と認められる、その契約のしるしが旧約の時代では割礼であったが、新約の時代には洗礼に代わったのである。

大切なことは、旧約時代の割礼であっても、新約時代の洗礼であっても、それは神の契約のしるしであり、それ自体に人を救う機能はなく、救いが保証されるというようなものではない、ということである。その源泉にある神の契約にこそ罪人の救いがある。神の契約とは、滅ぶべき罪人を救い出すために、神の一方的なへりくだりと恩恵によって与えられた救いの約束であり、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、神が与えて下さるものである。その全き幸いが、「洗礼というしるし」によって、私たちに刻みつけられる。洗礼を受けることによって私たちは、神の恵みによる罪の赦しが自分に与えられていることを確信して、その幸いの中で生きる者となるのだ。

そして、週ごとの礼拝を通して、また毎月の聖餐にあずかりつつ、アブラハムに与えられた、「行いによらずに神から義と認められた人の幸い」を、私たちの心と体に刻みつけ、生きるのである。 また、そのような者の群れとして、共に励まし合いながら、生きることである。

人間を罪から救うことのできるのは、十字架の主イエス・キリストのみである。私たちに与えられる洗礼は、この十字架のしるしであり、十字架のイエス・キリストの割礼である。