2023.7.2 の週報掲載の説教

2023.7.2 の週報掲載の説教
<2023年5月7日説教から>

神の選び
ローマの信徒への手紙9章10節~18節

牧 師 鈴木美津子

 
このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。(18)」

神は、イサクとリベカの子どもたちが未だ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」と言われた。兄エサウを神の祝福の担い手として選ばず、弟ヤコブを選ばれたのだ。そうすると、私たちの内に「神に不義があるのではないか?」という反論が生まれて来るかも知れない。神ならどちらにも同じように接するべきではないか?と私たちは考えるからだ。

それに対してパウロは、「決してそうではない」と言う。そして、神がモーセに言われた「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」を引用する。これは、神の自由な主権を教える言葉である。すべてのものを造り、すべてのものを統べ治めておられる神は、「自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」絶対的な主権、絶対的な自由を持っておられる。神の選びは、人の意志や努力ではなく、ただ神の憐れみによるものである。なぜ、神はエサウではなくヤコブを選ばれたのか?ヤコブが神様の祝福を求め、そのために努力する者となることを知っていたからではない。それは神がエサウではなく、ヤコブを憐れまれたからである。選びの根拠は、選ばれた対象にあるのではなくて、選びの主体である神様にある。

しかし、神は憐れみたいと思う者を憐れむだけではない。かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる御方でもある。神の救いの歴史、それは憐れみによって御自分の民イスラエルを選び、導かれるだけではなく、イスラエルに敵対するエジプトの王ファラオをも用いて進められる歴史である。神がファラオの心を頑なにされたからこそ、神の力と御名は全世界に告げ知らされた。そのことは、パウロが問題としているキリストを信じないイスラエルの民においても言えるのである。なぜ、神の民イスラエルが心を頑なにして、キリストを拒み続けているのか?それは、神がその心を頑なにされたからである。そして、そのことによって、神の御名が全世界の人々に告げ知らされ、異邦人である私たちにも、キリストの福音が告げ知らされたのである。選びによる神の御計画は、そのようにして今も進められている。