2023.7.23 の週報掲載の説教

2023.7.23 の週報掲載の説教
<2023年5月21日説教から>
『失望しない人生』
ローマの信徒への手紙9章30節~33節
                   牧 師 鈴木美津子
 
見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く(33a)」。

なぜ、ユダヤ人は「行いによる義」という考えに固執してしまったのか。ユダヤ人はどうして、そこから抜け出すことができなかったのか。その理由をパウロは「彼らはつまずきの石につまずいた」のだと言う。「つまずきの石」とは、イエス・キリストのことである。特に十字架にかけられたメシアは、ユダヤ人にとって、つまずきであった。なぜなら、ユダヤ人にとって木にかけられた者は呪われた者だったからである。ユダヤ人たちにとって、そのようなメシアを信じることを通して、神の義を受け取ることができるとは、受け入れがたい「つまずきの石」だったのである。

しかし、神はこのつまずきの石に依り頼む者は、失望することがないと、預言者を通して語って来られた。この十字架のキリストにこそ、真の希望があり、このお方を他にして、救いへの道はない、ということである。
「十字架の死は、呪われた者の死」。そうであれば、今の時代の教会にそびえ立つ十字架も弱さの象徴、愚かさの象徴、不名誉極まりない「しるし」である。だから、この世の力や、この世の論理で、或いは私たちの都合で十字架を仰ぐ時、必ずと言っていいほどつまずくのである。理性では、到底理解できない。信仰の目で見ることができなければ、理解できないのである。だから主イエスにつまずく、福音につまずくのである。

しかし、私たちは、主イエスにつまずくのではなく、主イエスに立ち帰る者、行いで救われようとして、つまずくのではなく、主イエスに立ち帰ることによって救われる者。

私たちは、信仰の目で十字架を見上げる、見上げ続ける者。

私たちは、この世の論理に流されずに、御言葉によって約束された終わりの時に希望を持ち続け、神に感謝して、罪を犯しても悔い改め、そして常に主イエスに立ち帰る。その時、つまずきの石、妨げの岩こそが、我が救いであり、我が盾となるのである。

どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできない。(39b)」私たちは、今日もそしてこれからも御国の完成に向かって、このキリストによって失望しない人生を歩み続けるのである。