2023.8.13 の週報掲載の説教

2023.8.13 の週報掲載の説教
<2023年6月18日の説教から>

良い知らせを伝える者
ローマの信徒への手紙10章14節~21節

牧 師 鈴木 美津子

信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。 聞いたことのない方をどうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。(14)」

「呼び求める」、「信じる」、「聞く」、「宣べ伝える」、「遣わされる」というこの順番は、救われる側からみればまったく逆のように感じるものである。なぜなら、人が信じて、信じる方を呼び求めるには、宣べ伝える人が遣わされ、宣べ伝えられ、「聞かなければ」ならないからである。

パウロは「実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まる(17)」と語る。主イエスも宣教を開始する際に、ナザレの会堂でイザヤ書から引用して「主がわたしを遣わされたのは、囚われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みを告げるため」と語られた。主イエスは、「メシアはもうすでにこの世に遣わされている。この私の口から語られる言葉、この地上に生きる姿によって伝えられる神の救いの福音を、あなたがたは聞くことになっている。ここまでもうすでに父なる神に用意され、その約束が果たされている。これから後は、その福音を聞いた者が信じて、呼び求めさえすれば、神の救いのご計画はその人の上に実現する」と、言われている。イスラエルがこの福音を信じなかったのは聞かなかったからではない。従わなかったのだ。

問題は、「聞く」ということにある。「信仰」は神に遣わされた者の宣べ伝える「福音」を聞くことから始まる。しかし、ただ聞くだけでは、「信仰」は生まれない。福音を聞いて従うことによって「信仰」は生まれ、そして育まれる。福音を聞いて従って、神の御心、愛、真実がすべての源であることに気づかされるからである。従ったものに願いを起こさせ、祈りを起こさせるために宣べ伝える者を遣わすのは神である。私たちの不安と疑いを十二分にご存じの神は、私たちに繰り返し呼びかけ、練り清め、祈りを与え、信仰を与え、育み、導いてくださる。

キリストの教会は、御言葉に聞き続ける群れである。なぜなら、御言葉に聞くことが、教会の生命線であるからだ。キリストの言葉、聖書全体の言葉に生涯聞き続けること、従い続けることがキリスト教信仰であり、キリスト者である。御言葉以外に、私たちを救い、命と喜びを与えるものは他には何一つない。