2022.8.7 の週報掲載の説教

2022.8.7 の週報掲載の説教

<2022年7月10日説教から>

 
『神の御前で義とされるのは誰か』
ローマの信徒への手紙2章12節~16節

 
牧 師 鈴木美津子

 
律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び
また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれる
(12)」。当時、ユダヤ人たちは、律法を持っていないが故に、異邦

人を罪人と見下していた。自分たちはモーセの律法を持っているか

ら正しく、異邦人は持っていないから罪人であるとさばいたのであ

る。それが彼らの基準であった。パウロは、それもひっくり返した。

神の裁きは、ユダヤ人の基準や彼らの物差しで計られることではな

い。律法を持っているということでユダヤ人が優位になることはな

いからである。

パウロは、律法を持たなくても、御言葉を知らなくても、神の像に

創られた人間には、たとえ不完全であっても必ず良心が与えられ

ている、と言う。なぜなら、聖書を知らない者が父母を敬う時、彼

らは父母を敬え、という律法を知らなくても、律法の通り行ってい

るからである。しかし、間違ってはならないのはその良心で救われ

る、ということではない。

では、裁きの日にどうなるのか。それは、16節の「そのことは、
神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリス
ト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになる」の通りである。

律法を与えられたユダヤ人も、律法を持たない異邦人も、また全て

の者が等しくキリストの御前に立たされ、キリストによって裁かれ

ると、聖書は約束する。滅びる者もまたキリストと無関係には滅び

ない。これが私たちの慰めであり、最後の審判についての聖書の回

答である。この世においては、不公平であると思われたり、納得の

いかないことはいくらでもある。しかし、最後の審判の日、それが

公平な光の中に置かれ、すべての者が納得するばかりか、キリスト

の正しい裁きに圧倒されるのである。このキリストの裁きが、私た

ちの希望である。

私たちは、毎週の礼拝で「かしこより来たりて生けるものと死ぬ
る者とを裁き給わん(使徒信条)」、と告白する。十字架で死ぬほど

に私たちを愛し、滅びに向かって歩んでいた私たちを見つけ出し、

救い出してくださる主イエス。生涯共に歩んでくださる主イエス

が、私たちの裁き主なのである。私たちにとって、これ以上に公平

でしかも安全な裁きがほかにあるだろうか。

2022.7.31 の週報掲載の説教

2022.7.31 の週報掲載の説教
<2022年7月3日説教から>

『神は人を分け隔てしない』
ローマの信徒への手紙2章6節~11節

牧師 鈴木 美津子

聖書は、「神が忍耐強く善を行う者には永遠の命を与え、真理ではなく不義に従う者には怒りと憤りを示される」と一貫して教えている。だから、私たちはそのために、忍耐強く善を行なう努力をしなければならないのか。決してそうではない。なぜなら、聖書における「善」は、神のことであって、「善を行う」とは神の掟に適うことを意味するからである。ユダヤ人はもとより異邦人も、神の掟を行えば命を得ることができ、神の掟に従わないならば滅びを招く。つまり、人間が忍耐強く善を行なったとしても、栄光と誉れと不滅のもの、つまり永遠の命を得ることができる者はだれ一人いないのである。

では、どうすれば、永遠の命の救いを得ることができるのか。キリストの福音を信じ、救いに預かることである。神は、私たち人間を憐れんで、豊かな慈愛と寛容と忍耐を持って、独り子主イエス・キリストを世に遣わされた。主イエスは、私たちが自分の上に蓄え続けた神の怒り、また最後の審判において、私たちの上に下るはずの神の怒りを、すべて代って引き受けて下さったのである。この大いなる神の恵みによって、私たちは悔改めへと導かれた。これが神の救いの御業、これが私たちの救いである。この救いは、私たちが忍耐強く善を行うことによって得られるのではない。私たちが、この救いにあずかるために欠かすことのできないことは、 自分自身の罪をはっきりと知り、その罪に対する神の怒り、裁きを、他人事としてではなく自分の問題として受け止めることである。自分の罪に対する神の怒り、裁きを真正面から見つめることによってこそ、主イエスによる罪の赦し、救いが自分に与えられていることをもはっきりと見ることができるからである。

神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり」。この御言葉は、十字架の死から復活された主イエスにおいて、すでに実現している。そうだからこそ、主イエスを信じる私たちは、栄光と誉れと不滅のものを求めて忍耐強く善を行うことができるのである。

2022.7.24 の週報掲載の説教

2022.7.24 の週報掲載の説教

<2022年6月26日説教から>

『あなたは神の憐みを軽んじるのですか?』
ローマの信徒への手紙2章1節~5節

牧師 鈴木 美津子

「弁解の余地はない」。神の民であるユダヤ人たちに向けられた神の怒りと裁きは、より厳しいものであった。彼らは、神から憐れみを受けた民、また受けている民である。 しかし、彼らは、その神の憐れみを勘違いしてしまった。神の憐れみがあまりも大きすぎたために、自分たちは裁かれることがないかのように考えてしまったのである。そうして、彼らは神の豊かな慈愛と寛容と忍耐を軽んじ、他の人を裁くようになった。そのような彼らに、パウロは「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えている。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現される」(5)、と告げる。

聖書は、常に、自分自身を何よりも先に裁かなければならない、と教えている。自分自身の罪に真剣に向き合うことは、私たちを謙らせ、他の人に対して憐れみ深くさせるからである。それはまた、私たちに罪に対する戦いについての知恵をも備えさせる。そして最も重要なことは、そのことが、クリスチャンの全生涯において悔い改めと真実な信仰をもって生きる、ということを意味しているのである。だからこそ、神が大いなる御恵みによって、私たちを救ってくださったということ、私たちの主イエス・キリストとその十字架上の贖罪の御業によってのみ、私たちは神の御前に立ち得るのだということを、決して忘れてはならない。

神が、主イエスを死者の中から復活させられたことは、すべての人に、神が世を裁かれることを示す確かな証しである。それは、主イエス・キリストの十字架の死と復活が、主の日の裁きの先取りだからである。神の憐れみ、慈しみは、主イエス・キリストを通して、すべての人に現された。だから、ユダヤ人であっても、ギリシア人であっても、誰であっても真に自分の罪を裁く者は救われる。それが福音である。ユダヤ人であっても、ギリシア人であっても、誰であっても真に自分の罪を悔い改める者は救われる。主イエス・キリストの十字架の働きによって、私たちの罪は完全に取り除かれているからである。

十字架に死に引き渡され、三日目に復活させられた神の御子イエス・キリストこそ、来るべき時の神の怒りそして厳しい裁きから私たちを救ってくださるお方である。

2022.7.10 の週報掲載の説教

2022.7.10 の週報掲載の説教

<2022年6月19日の説教から>

『罪は留まるところを知らない』
ローマの信徒への手紙1章24節~32節

牧師 鈴木 美津子

神が、罪人を「無価値な思いに渡された」という時、神がその人を裁きに委ねたということである。最も厳しい神の裁きである。その人が神の御前で最終的な裁きを受ける時、一切の言い訳は赦されない。その人が「自分が好んで選んだ道に行く」ことだからである。

かつて、アダムとエヴァがそうしたように、罪人は自分が選んだ結果が悪いとなると、他者のせいにしたがる。「あの人がこれをしなければ、私はこの道を選ばなかった」と、結局は神のせいにしようとするのだ。すべてを神のせいにして、ますます神を憎み、他者をも憎むようになる。罪人の裁きは、罪人自身の心から生まれてくるものである。それ故、その人には弁解の余地は全くない。罪に引き渡され、留まるところを知らない罪人の歩む道。これこそが恐るべき裁き、逃がれることのできない神の裁きである。その事を私たちはよく覚えておかなければならない。罪人が苦しむのは、その罪人自らが苦しむことを選んだ結果である。人間は罪の欲によって盲目となり、自分自身を騙し、その滅びの実を何よりも美味しいものとして、自ら求めて選ぶ。もし、人が永遠の罰を受けるなら、それは彼らが祝福よりも地獄を選んだからである。罪人が自由に悪を選んだことがその苦しみの源である。

しかし、悔い改める者はそうではない。悔い改める者は、まず自分の心にある罪を憎み、それに対して真剣に戦わなければならない。しかし、戦いはそれだけでは終わらない。悔い改めた者は、今度は愛をもって、互いの徳を高めあうように、そして皆が成長するように、戦うのである。その戦いの中で、私たちはよく失敗し、愚かなこともしてしまう。けれども、私たちがそのことに気付いた時、私たちは真剣に罪を悔い改めて正しい道に戻ることができる。そして、神の御国、神の義しさ、愛なる神への礼拝をもっと熱心に求めるようになるのである。

その道は、罪人とは正反対の道である。神を愛し感謝して、礼拝する道である。私たちが、第一に自分自身の罪に対抗して立ち、そして真剣に罪に対して戦うならば、私たちは主イエス・キリストの十字架のゆえに勝利を得、善において成長するであろう。なぜなら、主イエス・キリストの十字架と復活は、私たちがクリスチャンとして成長するための原動力だからである。

2022.7.3 の週報掲載の説教

2022.7.3 の週報掲載の説教

<2022年6月12日の説教から>

『神の怒り』
ローマの信徒への手紙1章18節~23節

牧師 鈴木 美津子

 
パウロは、「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信
心と不義に対して、神は天から怒りを現され」る、と語る。神は、善

なる愛なるお方である。しかし、神の愛と神の怒りは表裏一体。主イ

エスの十字架の死の出来事は、それが最も現れている。神は、2000

年前に御子を十字架につけられ、そのたった一度の贖いの出来事によ

って、人間の罪を赦された。主イエスの十字架は、神の愛の満ち溢れ

るところである、と同時に神の怒りが最も現されるところでもある。

私たちはその両方を知らなければならない。

この「神の怒り」は、現在進行形でもある。主イエスの復活で、

「めでたし、めでたし」と、全てが終結して、神の怒りが帳消しに

なったわけではない。「神の怒り」は、世の終わりまで、十字架に集

約され続ける。そうであるからこそ、私たちの過去、現在、未来の全

ての罪が帳消しにされているのである。あのゴルゴダの丘で主イエス

がその身に受けた神の怒りは、世の初めから終わりまで、私たち罪人

が犯した罪、そしてこれからも犯すであろう罪の全てなのだ。

しかし、善なる愛なるお方が、ここまで激しい怒りをくだす理由は

どこにあるのか。それは、私に、そしてあなたにあるのではないか。

私たち罪人はそれを深く考えようとはしない。考えたくもないのだ。

あのアダムとエヴァは、神への感謝がないために心が鈍く暗くなり、

「あなたがこの女を与えたので私は罪を犯してしまった。悪いのはあ

なただ。そしてこの女が悪いのだ」と言い訳した。私たちも同じである。愛であり恵みなる神を真に信じるならば、たとえ表面的に理不尽で悪

く見えるようなことであっても、それが神の御手によることを知って、クリスチャンは感謝するのではないか。感謝とは、「ああ、今日も天

気がよくて、よかった」というようなものではない。永遠に滅ぶべき

罪人が、主イエスの十字架と復活によって永遠の地獄から、永遠の生

命へと救われたことへの感謝。これが感謝の始まりである。

私たちは、主の十字架を見つめながら、この世とまた迫り来る罪と

激しい戦いをしながら、神に感謝し、聖霊に助けられ、主日の礼拝を

守る。またこの教会に集められた人々と共に祈りあい、支え合って、

この地上生涯を生きて行くことを願うのである。

2022.6.26 の週報掲載の説教

<2022年5月29日の説教から>

ただ信仰によってのみ生きる

ローマの信徒への手紙1章16節~17節

牧師 鈴木 美津子

パウロにとって、キリストの福音は「救いをもたらす神の力」に

他ならない。人間が成し遂げることができない救いの道を、イエス・キリストが切り開いてくださったからである。しかも、この救いをもたらす神の力は、ユダヤ人だけでなく、ギリシア人をはじめとする異邦人すべてに与えられるものである。ただし、この救いに与ることができるのは、キリストの福音を信じる信仰のみによる。
信仰とは、この救いを受け取る手段である。どんなに救いの恵みを注がれたとしても、それを受け取る器がなければ、救いの恵みを受け取りようがないからである。その器となるものが信仰である。この信仰があるからこそ、ユダヤ人をはじめギリシア人にも救いがもたらされる。信仰がなければ、人はキリストの福音を愚かな言葉として退け、つまずきを与える教えとして、結局のところ、救いから自分を遠ざけてしまうからだ。
パウロは、この福音には神の義が啓示されているという。それは、罪人を裁く義だけではなく、私たち罪人を赦す義でもあり、それをただで受け取るものが信仰である。神の義は信仰に始まり信仰へと至る神の義である。なぜなら、人間が行いによって勝ち取ることのできない義を、キリストが身代わりとなって実現されたからである。

しかし、この信仰を通して実現される救いは、今まで耳にしたこともないような新しい教えではない。旧約聖書の預言者の口を通して、すでに告げ知らされている。旧約聖書ハバクク書2章には、「しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」と告げられている。高慢な者は、主の言葉を信仰によって受け取ることはできない。しかし、神の言葉をただ信仰によって生きる人が、神の義を受けて救いに至るのである。

私たちは、今、約束された天の御国の途上にある旅人。「ただ信仰によってのみ生きる」私たちの辿り着く先には、先に召された愛する方々の笑顔がある。何よりも栄光のキリストが完全な姿で手を広げて待っておられるのである。