2021.2.1 の週報掲載の説教

 
<2019年11月10日の説教から>

ペトロの手紙Ⅱ 3章1節~13節

一日は千年のようで、千年は一日のようです』
牧師 三輪地塩

 
かけがえのない素晴らしい一日と出会うことがある。その一日は人生を彩る何にも代えがたい思い出と記憶として心に生き続ける。

ペトロの手紙二は、キリストの再臨待望を強く求めていた時代に書かれた書簡だ。キリストは再臨の約束を与えて昇天した。残された者たちは、再臨の到来を待ちわびて何も手に付かなかったようだ。ローマ帝国の支配を受けていた時代であり、それゆえの再臨待望でもあった。

だが、待てど暮らせど一向に再臨はやって来ない。苛立ちを感じ始めたキリスト者たちは9節にあるように、「なぜ遅れているのか」を問うのだった。これに対してペトロは、遅れている意味を彼らに与える。「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(3章9節)

主は、約束されたキリストの再臨について「遅らせているのではなく、我々人間の側の準備不足である」と語る。

私たちは、再臨を待つ行為が「人間の忍耐」として考えがちである。再臨が遅れているのであれば神の側に問題があると人間本位に考えてしまう。だが待っているのは我々ではなく神の側だ、とペトロは視点の転換を迫ってくる。忍耐しているのは私たちではない、神なのだ、と。

我々は感謝が足りない。「当たり前」を享受しすぎなのだ。「当たり前」が先立つとき、不平や不満が先立ってしまう。だがそうではない。我々の「生」は、「生かす神」によって、生かされる環境、生きる目的、生きがいさえも神に与えられた賜物である。我々は、一日が与えられている。だからこそ、与えられた一日という限りある時間を、大切に用いる必要がある。そのためには、日々希望と共に歩むのだ。素晴らしい未来を見据え、日々喜びを見出し、いつも喜び、絶えず祈り、全てのことに感謝する。その時こそ、「一日が千年のよう」な価値を持つものとなる。

 

2021.1.31 の週報掲載の説教

<2019年11月3日の説教から>

Ⅱペトロ2章1節~22節

『義の道を知っている者』
牧師 三輪地塩

著者が異端者に対する憤慨をあらわにしている。この異端者たちは「グノーシス主義者」という思想運動の者たちであり、「観察、経験によって知ること」を意味する単語「ギノースコー」に由来する。この思想の特徴は、「物質」と「霊」、「肉体」と「精神」など、二元論的な思想を持つ。キリスト教では、人は死んだら骨になり、肉体を地上に置きっぱなしにして魂だけがあの世に行くなどとは考えない。霊肉共に、肉体性も伴って天国に行く。と考える。ゆえに、キリスト教信仰では、遺体に対してそれほど執着していないのだ。ここで問題なのは、肉体は「善か悪か」の問いである。物質が悪ならば「肉体」も悪となる。そこから肉体を離れた「精神こそが尊い」という考えが生まれ、「禁欲主義」が現われる。

しかし肉体を「善」と捉えるならば、禁欲主義とは正反対の、放縦な生活、やりたい放題、欲のままに活動する生活を善とする倫理観をもってしまう。つまり快楽主義である。

この聖書箇所には、「みだらな楽しみ」「欲が深く」「享楽にふけ」などと書かれているのは「快楽主義的なグノーシス」のことを言っている。ここで警鐘を鳴らすのは、快楽主義者たちが「グノーシス的キリスト教」というキリスト教の一派(異端)であったことだ。これは実に厄介だった。他宗教であれば多少寛容に扱うこともできだろうが、この箇所で問題なのは、「キリスト教の変質化」が起こっていることにある。著者はここに憤慨しており、攻撃している。特に、「近親憎悪」に近い感覚を持っているのであろう。手厳しく非難するのである。

そもそも、我々は、まったく異なる考えや、まったく、自分たちの「枠外」に生きている人たちに対しては関心を持たず、ゆえに違いがあっても怒らない。だがその関係が近しいと、人はその違いに怒りを発する。兄弟喧嘩、身内のイザコザも、親族間の遺産相続の争いも同じである。だが我々は、裁かれるのは神である、ことに立ち帰らねばならない。マタイ福音書7章1節以下で、「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」と述べており、裁きは人間の行為ではないことが指摘される。我々は、自分たちの正統性を主張したがるが、信仰も、生き方も、人生も、それを裁くのは神である。このことを心に留めて、日々正しく歩みたい。

2021.1.24 の週報掲載の説教

<2019年10月27日の説教から>

『明けの明星があなたの心に昇るまで』
ペトロの手紙二 1章12節~21節

牧師 三輪地塩

「明けの明星が心の中に昇るときまで」とあるが、この「明けの明星」は何を表わしているのだろうか。言い換えると「気付き」ではないかと思う。福音による「気付き」は「光の差し込み」に似ている、と。つまりこういう意味である。我々は、聖書は読めるし、礼拝への参加も出来る。聖書研究会も行なえる。だがそれらは、キリスト教についての「知識」である。「気付き」とは知識を超えた福音の本質とその価値が、明らかとなるということだろう。

スコットランドの改革長老教会が作成した『ウェストミンスター信仰告白』という信仰問答書があるが、それを解説した文章に次のようなものがあった。

「正典としてまとめられた聖書は、神の言葉として、私たちが神を知り、神を信じるための必要な知恵が与えられる書簡です。これが聖書の「外的照明」です。ただ、すべての人が聖書を読めば、神さまを知り、信じることが出来るか、といえばそうではありません。私たちの側、私たちの心の中に聖霊が働いて下さることが必要です。これが「内的照明」です。内的照明がなければ、私たちはいくら聖書を読んでも、神を受け入れることは出来ず、神を信じることが出来ないのです」。今日の箇所で「明けの明星」と呼ばれているのは聖霊の促し、つまり「内的照明」である。

我々には、聖書の知識は必要である。しかし最も大切なのは、聖書の知識を得ることではなく、それを神の言葉として受けること。それを神の言葉として信じて聞くこと。当然、信仰者であっても、我々のうちには揺れ動く思いや、信じる心と信じられない心は湧き起こる。最も大切なのは、信じることの出来ない状況にあってもなお、「神の聖霊の促しが起こること」、すなわち「心のうちに明けの明星が昇る」のを信じ続け、待ち続けることである。

たとえ感染症禍に疲弊し、心が落ち込み、神の祝福を感じれなかったとしても、私たちには「明けの明星が心の中に昇るとき」が必ず来ることを、聖書から聞き続けたい。心からそう願っている。

2021.1.10 の週報掲載の説教

<2019年10月13日の説教から>

愛を加えなさい
ペトロの手紙二1章1節~11節

牧師 三輪地塩

この箇所のテーマは4節にある。「この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性(ほんせい)にあずからせていただくようになるためです。」

ここには、神の神性、神の性質と、世俗性の対比が見られる。この世には多くの退廃がある。退廃は、健全さや道徳性が失われた状態、病的、堕落的という意味である。この手紙の著者は、神のうちに本質性を見出し、世俗の内に「物質性」を見出している。人間は、見たもの、見えるもの、手で触れるもの、高価なものに心が引かれ、目が奪われがちである。物質性の追求は、その物事の本質を見失わせる。それは政治、経済、教育、学問などの全ての分野で起こりうる。

それゆえ聖書は、これに併せて次のようにも語る。「だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」
全てにおいて「愛」が必要であると語る。「兄弟愛には愛を加えなさい」というのは、原文では、「フィラデルフィアにはアガペーを加えなさい」となっている。かなり近しい間柄に育まれる愛の内に「アガペー」すなわち「無償の愛」つまり「一方的に与え続けていく愛」を加えるのである。ともすれば我々は、愛をギブ&テイクの論理で行ってしまう。あの人が何をしてくれたから何をする。何もしてくれなかったから何もしない。このような原理の中に生きてしまいがちだ。だが、聖書の語る愛の根源には損得はない。この愛は、右の頬を打たれたら左の頬を差し出す愛であり、盗賊に襲われて道に倒れているユダヤ人を、身の危険を顧みないで介抱するあの愛である。十字架に掛けられてさえも、「神よこの人たちをお赦し下さい。自分たちが何をしているのか知らないのです」と、自分を処刑した罪人たちのために祈りを献げ、神の赦しを請う愛。それこそが「アガペー」である。キリストの体なる教会こそが、アガペーの香りが漂う場所であってほしいと、心から願ってやまない。

2021.1.3 の週報掲載の説教

<2019年9月29日の説教から>

身を慎んで目を覚ましていなさい
ペトロの手紙一5章8節~14節

牧師 三輪地塩

人は困難・艱難に見舞われるとき、とかくその苦しみが自分にだけに降りかかった不幸であると考えがちだ。「誰も分かってくれない」「この苦しみをみんなに聞いてもらいたい」と一人で塞ぎ込むことはしばしば起こるだろう。

当該箇所で著者ペトロは、「苦しみの共有」「苦しむ者たちの繋がり」について語っている。「あなた方だけが苦しみ、痛んでいるのではない。今、共に闘っている同労者がいる」と述べ、「ローマ帝国で苦しむ信徒」の声を伝えている。我々は現在、Instagram、Facebook、LINEなど多くのSNSによって世界と繋がる社会に生きている。SNSの素晴らしさは言うまでもない。だが同時に、発信される情報は、個人の裁量に任されている。つまり「人間活動の良い面」が発信されることが多いと言える。自分の不利益、罪の告白、人を傷つけた過去の出来事、迫害され虐げられた生活を赤裸々に発信するよりも、「リア充」(※実生活が充実していることを表す現代用語)を発信する傾向は強いだろう。SNSから発信される有益な諸情報が数多くあったとしても、「人間の心の奥底の痛み」「誰にも相談できない苦しみ」は、「今のところ」デジタル・ネット社会に解決できてはいない。

だが、SNSには苦しんでいる人々の連帯を強める#me tooのような社会運動がある。この視点から考えると、当該箇所はいわば#me too運動さながらである。巨大国家に虐げられ、地域住民から害を受けた、小アジアの片隅で苦しむキリスト者たちの心の叫びを共有し連帯を促している。一人一人では解決できない信仰者たちの痛みの連帯、被迫害者たちのネットワークを、著者ペトロはいわば「ホストサーバー」となって励ましの言葉を与えるのだ。「共に選ばれてバビロンにいる人々」(5章13節)と言われる苦しむ者たちの繋がりの根本が「キリスト」であることを著者は伝え、この手紙を「キリストによる平和」で締めくくる。最後の「平和があるように」の言葉は、ヘブル語では「シャーローム」。シャーロームは「主にある平安」であり、「安全・無事・平々凡々」を意味しない。闘いや苦悩の中にもシャーロームがあり、痛みや迫害の中にもシャーロムは存在する。キリストを信じる仲間たちと共に耐え忍ぶことが出来れば、そこに「シャーローム」が存在する。

2020.12.20 の週報掲載の説教

<2019年9月22日の説教から>

卑しい利得のためにではなく献身的に

ペトロの手紙一5章1節~7節

牧師 三輪地塩

著者は「思い煩い」(7節)について語る。我々は多くの思い煩いを持つ。健康や仕事、目や耳の衰えや体力の低下、子どもの教育、老後の心配、進学や受験等々に至るまで、我々の生活は思い煩いに満ちている。「思い煩う」行為は、読んで字のごとく「思いを」「煩う」のであって、決して手足を動かして労苦することではない。まだ起こっていない未知・未見の出来事をあれこれと考え、自分の理解可能な枠の中に閉じこもり、「神を抜きにして」悩んでいる状態を「思い煩い」であると聖書は言う。

悩むことは誰にでもある。だが悩んだ時、いつも思い起こしたいのは当該書簡5章7節の言葉である。「思い煩いは何もかも神にお任せしなさい。神が、あなた方の事を心にかけていて下さるからです」。我々はこの言葉を心から信じたいと思う。悩む時、神に全てを任せる信仰を持ちたいのだ。詩編55編17節~18節、23節に次のように書かれている。

「私は神を呼ぶ。主は私を救ってくださる。夕べも朝も、そして昼も、私は悩んでうめく。神は私の声を聞いて下さる。」(17~18節)。「あなたの重荷を主に委ねよ。主はあなたを支えて下さる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らって下さる」(23節)

我々の人生を取り巻く思い煩いや悩みは絶えず起こる、だが神は全てを取り計らって下さる方である。神は、決して無意味なことを行なう方ではない。時には喜びを与え、時には苦しみを与え、その全てが我々の生活にとって意味深いものになる。

そのために「信仰にしっかりと踏みとどまって悪魔に抵抗しなさい」(9節)と著者は言う。信仰を持ち、キリストにしっかりと繋がっていることによって、我々は苦難を乗り越えて「完全な者とされるのです」(10節)と、著者ペトロは語る。

謙遜に、身を低くし、慎みをもって、多くの悩みや誘惑から身を守りたい。悪魔の力に勝利したキリストの十字架を見上げつつ、復活によって死から勝利されたキリストに目を向け、いよいよ信仰を強められて歩みたい。