2022.5.22 の週報掲載の説教
<2022年5月1日の説教から>
『神に選ばれ、召し出される』
ローマの信徒への手紙1章1-4節
牧 師 鈴木美津子
パウロは、キリストと出会う前にはキリスト者を迫害する者であった。それが、今や、キリストの福音のために神によって選ばれ、特別に召された「使徒」であることを確信している。実に、パウロの人生はキリスト者になった今のために、つまりあらゆる国の人々が、神を信じ、神の御心に従う歩みをするようになる証人となるために、神によって導かれたということである。それまでの彼の育ち、教育、経歴のすべては、彼が特別な使徒として奉仕するために、神が備えられた賜物だったのである。わたしたちの人生も、無秩序に営まれてきたかのように思われたとしても、決してそうではなく、それぞれが目的のある人生だということである。
では、特別な使徒であるパウロの宣べ伝える福音とは何か。それはキリストの福音である。この福音には、私たちの救いのため、また私たちを幸せにするために必要なすべてがある。私たちがキリストを信じることで、罪の赦しがあり、神との和解があり、義と認められ、そして永遠の生命・真の生命が与えられる。神の子となる特権が与えられ、真の自由が与えられる。永遠の御国が保証され、神と共に歩んでいくことができる。死から生命へ、暗闇から光へ、絶望から希望へ、悲しみから喜びへと導かれる。それらすべてが、福音を信じ受け入れた者への恵みなのである。
パウロがこの手紙を書いたのは、57年頃、第三回伝道旅行において、エフェソを追い出されるように出て、コリントに滞在していた三カ月の間といわれている。彼はここからローマ、更にはイスパニア(現在のスペイン)に伝道しようと計画していたが、その前に、エルサレムの貧しいキリスト者に、ギリシア各地で集めた献金を届けようと、彼の思いとは逆の方向へ出発しようとしていた。パウロは、取り急ぎ、ローマの教会へ挨拶の手紙を送り、御霊の賜物を分かち合いたい、互いに信仰によって励ましを受けたいとその熱心な思いを伝えようとしたのだ。ローマの教会はパウロによって建てた教会ではない。つまり、彼には少なくとも、事前に挨拶を送ると同時に、自分の素性を明らかにする必要があったので、自分の信ずるところを隠すことなく記している。私たちは、この手紙を読み進めて行くことで、自分の内面と向き合わされることになる。多くの人にとって、自分の心の内を見つめるのは苦手であろう。しかし、聖書は、自分の内面を見つめ、自分を知り、乗り越える苦しみを通してこそ成長すると教えている。これから、皆さんとこの手紙を読み進めることで、共に心の内面を見つめる旅路を歩みたいと思う。
2022.5.8 の週報掲載の説教
2022.5.8 の週報掲載の説教
<2022年4月24日の説教から>
ルカによる福音書24章1-12節
『あなたがたに平和があるように』
牧師 鈴木美津子
復活の主の手と脇腹には、十字架の時に受けられた傷跡がある。この傷跡は主イエスの私たちへの確かな愛を示す印である。私たちの罪を担って受けられた主の十字架の象徴であるからだ。
十字架の出来事以来、ユダヤ人たちの迫害を恐れて、息をひそめるように部屋に閉じこもっていた弟子たちの前に、復活の主イエスは忽然と現われ、「あなたがたに平和がありますように(19節)」、と言われた。その手と脇腹には、十字架で受けた傷跡があった。弟子たちは、驚愕したが、その姿と言葉で主の復活を信じた。
ところが、弟子のトマス一人だけが不在であった。「主イエスと自分も一緒に死ぬ覚悟だ」と大層な発言をしていた自分が、主の十字架を前に、逃げ出したことをずっと後悔していたトマスにとって、衝撃的な出来事でした。おそらく、「自分だけが取り残されてしまった。自分は主イエスに見捨てられてしまった」と思ったのだろう。傷心のトマスが言い放った「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」という言葉で、後々まで「疑い深いトマス」と言い伝えられるようになってしまった。しかし、本当にそうなのか。トマスの言葉は、彼の心の悲痛な叫びではなかったのか。
さて、復活の主は一週間後の日曜日に、トマスを含む弟子たちの前に再び現れた。トマスに自分が十字架で受けられた傷跡を示し、それを触って見るように言われた(27節)。もちろん、これはトマスが自分からそれを確かめなければ決して信じないと言ったことを受けた主イエスの行為である。しかし、私たちは、この示された傷跡こそが愛の印であることを忘れてはならない。主イエスは、トマスにご自身の愛を示されたのである。「自分はイエス様に見捨てられてしまったに違いない」と、苦しむトマスに主は「決してあなたを見捨ててはいない。そしてこれがあなたを愛している証拠だ」と傷跡を示されたのだ。
ところで、トマスは、主の傷跡に触れたのだろうか。聖書は彼が傷跡に直接触れたとは記していない。むしろ、トマスは主の愛に押し出されて、「わたしの主、わたしの神よ」(28節)と信仰を告白したである。
私たちは、弟子たちのように復活の主の姿をこの目で見ることはできない。しかし、主イエスは言われる。「見ないで信じるものは、幸いである」。
<2022年4月24日の説教から>
ルカによる福音書24章1-12節
『あなたがたに平和があるように』
牧師 鈴木美津子
復活の主の手と脇腹には、十字架の時に受けられた傷跡がある。この傷跡は主イエスの私たちへの確かな愛を示す印である。私たちの罪を担って受けられた主の十字架の象徴であるからだ。
十字架の出来事以来、ユダヤ人たちの迫害を恐れて、息をひそめるように部屋に閉じこもっていた弟子たちの前に、復活の主イエスは忽然と現われ、「あなたがたに平和がありますように(19節)」、と言われた。その手と脇腹には、十字架で受けた傷跡があった。弟子たちは、驚愕したが、その姿と言葉で主の復活を信じた。
ところが、弟子のトマス一人だけが不在であった。「主イエスと自分も一緒に死ぬ覚悟だ」と大層な発言をしていた自分が、主の十字架を前に、逃げ出したことをずっと後悔していたトマスにとって、衝撃的な出来事でした。おそらく、「自分だけが取り残されてしまった。自分は主イエスに見捨てられてしまった」と思ったのだろう。傷心のトマスが言い放った「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」という言葉で、後々まで「疑い深いトマス」と言い伝えられるようになってしまった。しかし、本当にそうなのか。トマスの言葉は、彼の心の悲痛な叫びではなかったのか。
さて、復活の主は一週間後の日曜日に、トマスを含む弟子たちの前に再び現れた。トマスに自分が十字架で受けられた傷跡を示し、それを触って見るように言われた(27節)。もちろん、これはトマスが自分からそれを確かめなければ決して信じないと言ったことを受けた主イエスの行為である。しかし、私たちは、この示された傷跡こそが愛の印であることを忘れてはならない。主イエスは、トマスにご自身の愛を示されたのである。「自分はイエス様に見捨てられてしまったに違いない」と、苦しむトマスに主は「決してあなたを見捨ててはいない。そしてこれがあなたを愛している証拠だ」と傷跡を示されたのだ。
ところで、トマスは、主の傷跡に触れたのだろうか。聖書は彼が傷跡に直接触れたとは記していない。むしろ、トマスは主の愛に押し出されて、「わたしの主、わたしの神よ」(28節)と信仰を告白したである。
私たちは、弟子たちのように復活の主の姿をこの目で見ることはできない。しかし、主イエスは言われる。「見ないで信じるものは、幸いである」。
2022.5.1 の週報掲載の説教
2022.5.1 の週報掲載の説教
<2022年4月17日の説教から>
ルカによる福音書24章1-12節
『死の向こう側にある命の世界』
教師 鈴木美津子
主イエスが復活された日曜の朝の出来事は、四つの福音書に記されている。それぞれ描写の違いはあるが、一貫している事実がある。それは、弟子たちの誰もが、主イエスが生前語られていた復活の出来事を「忘れていた」ということである。ルカ福音書では、イースターの朝、主イエスに従っていた幾人かの婦人たちが主イエスの墓に向かっている。彼女たちは、主イエスの遺体を丁重に葬りたいと、香料と香油を準備していた。彼女たちは、主が復活するということを思い出すこともなく、この世の死者の葬りの習わしを行おうとしていたのである。
墓に到着した婦人たちは、墓を塞いでいた大きな石が取り除けられているのを見ても、主イエスの体のない空っぽの墓を見ても、かつて復活すると言われた主の言葉を思い出さなかった。そのような婦人たちに、御使いは、「生きている主イエスを死者の中に捜すのは無意味なことではないか、まだガリラヤにおられたころ、主イエスがお話になったことを思い出すように」、と語った。この世の常識では、人は必ず死に、その死で全てが終わると結論づける。だから、常識で、生きている主イエスを捜し出そうとしても無意味なのだ。では、別のところとは一体どこか。婦人たちは、御使いに促されて「(主イエス)の言葉を思い出し」(8節)た。主イエスが十字架で死なれ、三日後によみがえられると言われた言葉を思い出したのだ。
今のわたしたちは、聖書の御言葉によって、主イエスを探し出すことができる。しかし、婦人たちが御使いに促されなければ、主イエスの言葉をすっかり忘れていたように、わたしたちも御言葉を聞いても忘れてしまう者である。
では、どうすれば良いのか。主日の礼拝、また毎月および行事毎に主イエスを記念して行われる聖餐式に与かることである。「記念する」ということは、主イエス・キリストがわたしたちにしてくださったこと、要するに十字架の出来事を思い出すことである。
そして、いつ来るかはわからないが確かに来る主の再臨を待ち望むのである。主イエスの死と復活は、わたしたちの死が終わりではなく、その死の向こう側に、命の世界が、わたしたちの復活が確かにあると明示している。それは、御言葉を聞いただけの人ではなく、御言葉を信じた人に起こることである、と聖書は教えている。
<2022年4月17日の説教から>
ルカによる福音書24章1-12節
『死の向こう側にある命の世界』
教師 鈴木美津子
主イエスが復活された日曜の朝の出来事は、四つの福音書に記されている。それぞれ描写の違いはあるが、一貫している事実がある。それは、弟子たちの誰もが、主イエスが生前語られていた復活の出来事を「忘れていた」ということである。ルカ福音書では、イースターの朝、主イエスに従っていた幾人かの婦人たちが主イエスの墓に向かっている。彼女たちは、主イエスの遺体を丁重に葬りたいと、香料と香油を準備していた。彼女たちは、主が復活するということを思い出すこともなく、この世の死者の葬りの習わしを行おうとしていたのである。
墓に到着した婦人たちは、墓を塞いでいた大きな石が取り除けられているのを見ても、主イエスの体のない空っぽの墓を見ても、かつて復活すると言われた主の言葉を思い出さなかった。そのような婦人たちに、御使いは、「生きている主イエスを死者の中に捜すのは無意味なことではないか、まだガリラヤにおられたころ、主イエスがお話になったことを思い出すように」、と語った。この世の常識では、人は必ず死に、その死で全てが終わると結論づける。だから、常識で、生きている主イエスを捜し出そうとしても無意味なのだ。では、別のところとは一体どこか。婦人たちは、御使いに促されて「(主イエス)の言葉を思い出し」(8節)た。主イエスが十字架で死なれ、三日後によみがえられると言われた言葉を思い出したのだ。
今のわたしたちは、聖書の御言葉によって、主イエスを探し出すことができる。しかし、婦人たちが御使いに促されなければ、主イエスの言葉をすっかり忘れていたように、わたしたちも御言葉を聞いても忘れてしまう者である。
では、どうすれば良いのか。主日の礼拝、また毎月および行事毎に主イエスを記念して行われる聖餐式に与かることである。「記念する」ということは、主イエス・キリストがわたしたちにしてくださったこと、要するに十字架の出来事を思い出すことである。
そして、いつ来るかはわからないが確かに来る主の再臨を待ち望むのである。主イエスの死と復活は、わたしたちの死が終わりではなく、その死の向こう側に、命の世界が、わたしたちの復活が確かにあると明示している。それは、御言葉を聞いただけの人ではなく、御言葉を信じた人に起こることである、と聖書は教えている。
2022.4.17 の週報掲載の説教
2022.4.17 の週報掲載の説教
<2022年4月10日の説教から>
『十字架への道』
ヨハネによる福音書18章1節~14節
教師 鈴木 美津子
主イエスは、最後の晩餐の後、弟子たちを引き連れて、祈るためにいつもの園に向かった。しかし、それは祈るためだけではなく、主自ら、逮捕されるためにいつもの園に向かったのである。当然、裏切り者のユダもこの園の存在と主イエスたちの行動を承知していた。主イエスは、ご自分の逮捕という出来事において、ユダの裏切りの計画が実現しやすいように、あえてこの場所を選ばれたのだ。つまり主は、敵対者に不本意な形で逮捕されたのではなく、自らが、主導権を持って彼らに自分の身を渡され、逮捕させたのである。これがヨハネ福音書の主イエス逮捕の出来事についての解釈である。
主イエス逮捕の時が迫った。裏切り者のユダを先頭に祭司長、ファリサイ派が遣わした下役たち、600名ほどのローマの一隊の兵士という多勢が、手に手に松明と武器を持つという物々しさ。主イエス自ら、彼らに進み出て「だれを捜しているのか」と尋ねた。彼らは「ナザレのイエスだ」と答えた。主イエスはそれに「わたしである」(8節)と答えた。「わたしである」という言葉に、捕らえ手たちは耐えられず、後ずさりし、地に倒れた。「わたしである」とは、旧約聖書のモーセの物語で、モーセの前に現れた主なる神がご自分を彼に紹介する言葉である。罪人である人間はそのままでは神に近づくことなどできない。人間とって畏るべき言葉、倒れ伏すか、悪くすれば命を失う言葉である。逮捕する側には何の力もなかった。力があったのはご自身を「わたしである」と語ることができる主イエスのみ。
しかし、力ある主イエスは無抵抗で逮捕された。いや、逮捕させたのである。ペトロが大祭司の手下の右耳を切り落とすというハプニングはあったが、その後、無力な弟子たちは主イエスの前から逃げ出してしまう。しかし、それも弟子たちを守るためのご計画であり、弟子たちはやがて主イエスに従う道を選び、自分の命を省みず、福音を述べ伝える者となるのである。彼らが変えられたのは、自分たちを守ってくださる方が主イエスであることを理解し、真に信頼することができたからだ。彼らは、自分の命さえ惜しまない道を歩むことを選んだ。
主イエス逮捕の重く苦しい出来事さえも、主イエスの力の素晴らしさ、その主に信頼することが信仰の戦いの中で悩み苦しむわたしたちに与えられた真の道であることを聖書は教えている。
<2022年4月10日の説教から>
『十字架への道』
ヨハネによる福音書18章1節~14節
教師 鈴木 美津子
主イエスは、最後の晩餐の後、弟子たちを引き連れて、祈るためにいつもの園に向かった。しかし、それは祈るためだけではなく、主自ら、逮捕されるためにいつもの園に向かったのである。当然、裏切り者のユダもこの園の存在と主イエスたちの行動を承知していた。主イエスは、ご自分の逮捕という出来事において、ユダの裏切りの計画が実現しやすいように、あえてこの場所を選ばれたのだ。つまり主は、敵対者に不本意な形で逮捕されたのではなく、自らが、主導権を持って彼らに自分の身を渡され、逮捕させたのである。これがヨハネ福音書の主イエス逮捕の出来事についての解釈である。
主イエス逮捕の時が迫った。裏切り者のユダを先頭に祭司長、ファリサイ派が遣わした下役たち、600名ほどのローマの一隊の兵士という多勢が、手に手に松明と武器を持つという物々しさ。主イエス自ら、彼らに進み出て「だれを捜しているのか」と尋ねた。彼らは「ナザレのイエスだ」と答えた。主イエスはそれに「わたしである」(8節)と答えた。「わたしである」という言葉に、捕らえ手たちは耐えられず、後ずさりし、地に倒れた。「わたしである」とは、旧約聖書のモーセの物語で、モーセの前に現れた主なる神がご自分を彼に紹介する言葉である。罪人である人間はそのままでは神に近づくことなどできない。人間とって畏るべき言葉、倒れ伏すか、悪くすれば命を失う言葉である。逮捕する側には何の力もなかった。力があったのはご自身を「わたしである」と語ることができる主イエスのみ。
しかし、力ある主イエスは無抵抗で逮捕された。いや、逮捕させたのである。ペトロが大祭司の手下の右耳を切り落とすというハプニングはあったが、その後、無力な弟子たちは主イエスの前から逃げ出してしまう。しかし、それも弟子たちを守るためのご計画であり、弟子たちはやがて主イエスに従う道を選び、自分の命を省みず、福音を述べ伝える者となるのである。彼らが変えられたのは、自分たちを守ってくださる方が主イエスであることを理解し、真に信頼することができたからだ。彼らは、自分の命さえ惜しまない道を歩むことを選んだ。
主イエス逮捕の重く苦しい出来事さえも、主イエスの力の素晴らしさ、その主に信頼することが信仰の戦いの中で悩み苦しむわたしたちに与えられた真の道であることを聖書は教えている。
2022.4.10 の週報掲載の説教
2022.4.10 の週報掲載の説教
「復活のキリストの光が輝く」 教師 鈴木 美津子
“起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で主の栄光があなたの上に輝く。” (イザヤ書60章1-2節)
この言葉の中に「愛」という語は用いられていません。しかし、この言葉の中には、光と闇という表象を通して「愛」が、暗示されています。「光」が愛を意味しているということです。
では、闇は何を表しているのでしょう。この聖書の言葉が語られた背景を踏まえると、不安や混乱を意味していると思われます。この言葉が向けられた先には、これから何処へ向かうのか大きな不安を抱えた人々がいました。更に、そこには人々の悲しみや失望といった、より複雑な感情も入り混じっていました。
他方、光については二つのことが言及されています。第一は神様のことです。これは、世界が暗闇に覆われていると思える時であってもあなたは一人ではない、神様があなたと共にいる、どんなに孤独に思える時であってもあなたは、愛されるべき存在であるということです。
第二には「起きよ、光を放て」との呼びかけは、この預言の聴衆に対してです。これは、人に不可能なことを告げているわけではありません。いかに暗い道を歩んでいる時であっても、人は光となることができる、あなたたち自身が世の暗闇を照らす光であるということなのです。
わたしたちは、生きていく上で自分に何ができるのかと戸惑うことがあります。自分がこれから何処へ向かうのか、不安の中を歩むことがあります。誰かと対立の只中にいるときもあります。そのような暗闇の中でも輝きうるものが愛です。誰かを愛すること、自分が愛されている存在であることを探すこと、このことはどのような場合でも、わたしたちには可能なことであり、その可能性が失われることは決してないのです。
わたしたちは、キリストを信じる者として、この暗闇の世界にあって神様を信じ、祈る教会の姿を示すことができます。孤独な人、寄る辺のない人、病に悩む人などを慰め励ます者、共に喜ぶ者として、復活の希望の光を灯す者として歩むことができます。
今、世界の闇のなかに復活のキリストの光が輝いています。
「復活のキリストの光が輝く」 教師 鈴木 美津子
“起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で主の栄光があなたの上に輝く。” (イザヤ書60章1-2節)
この言葉の中に「愛」という語は用いられていません。しかし、この言葉の中には、光と闇という表象を通して「愛」が、暗示されています。「光」が愛を意味しているということです。
では、闇は何を表しているのでしょう。この聖書の言葉が語られた背景を踏まえると、不安や混乱を意味していると思われます。この言葉が向けられた先には、これから何処へ向かうのか大きな不安を抱えた人々がいました。更に、そこには人々の悲しみや失望といった、より複雑な感情も入り混じっていました。
他方、光については二つのことが言及されています。第一は神様のことです。これは、世界が暗闇に覆われていると思える時であってもあなたは一人ではない、神様があなたと共にいる、どんなに孤独に思える時であってもあなたは、愛されるべき存在であるということです。
第二には「起きよ、光を放て」との呼びかけは、この預言の聴衆に対してです。これは、人に不可能なことを告げているわけではありません。いかに暗い道を歩んでいる時であっても、人は光となることができる、あなたたち自身が世の暗闇を照らす光であるということなのです。
わたしたちは、生きていく上で自分に何ができるのかと戸惑うことがあります。自分がこれから何処へ向かうのか、不安の中を歩むことがあります。誰かと対立の只中にいるときもあります。そのような暗闇の中でも輝きうるものが愛です。誰かを愛すること、自分が愛されている存在であることを探すこと、このことはどのような場合でも、わたしたちには可能なことであり、その可能性が失われることは決してないのです。
わたしたちは、キリストを信じる者として、この暗闇の世界にあって神様を信じ、祈る教会の姿を示すことができます。孤独な人、寄る辺のない人、病に悩む人などを慰め励ます者、共に喜ぶ者として、復活の希望の光を灯す者として歩むことができます。
今、世界の闇のなかに復活のキリストの光が輝いています。
2022.4.3 の週報掲載の説教
2022.4.3 の週報掲載の説教
<2020年9月6日の説教から>
ルカによる福音書8章40節~48節
『安心して行きなさい』 牧師 三輪地塩
イエスは、12年間も出血が止まらない病気を患った女性に遭遇した。この類の出血は、レビ記15章25節以下によれば、宗教的な汚れを持つと考えられており、出血のある女性と接触した人は誰でも汚れる、と考えられていた。レビ記15章が適用されて社会から排除されていたようで、これが婦人病であるならば、思春期かそれ以降にこの病を発症し、多感な時期からそれ以降を闘病してきたことになる。まさに彼女は心身共に痛みの人生を歩んできたのであった。
この女性は、12年も医者の治療を受けたが一向に治らないばかりか「全財産を使い果たした」と述べられている。このことは、12年間社会生活から排除され、深い恥に貶められ、孤独と絶望の中に生きてきたと言える。更に言うと、悪い医者たちに“ぼったくられた”可能性も捨てきれない。つまり、肉体的苦痛のみならず、精神的苦痛と、経済的貧困を同時に受けていたのであった。旧約聖書の続編に「シラの書」38章には、当時の医者がどれだけ尊敬されていたかが記されている。「医者をその仕事のゆえに敬え。主が医者を造られたのだから」「過ちを犯すな。手をけがすな。あらゆる罪から心を清めよ。~。その上で医者にも助けを求めよ。主が医者を作られたのだから」。この当時のユダヤ社会では、信仰と医療が密接に繋がっていたことが分かる。だがこの女性は、信頼していた全ての者たちから裏切られていたのであった。
しかしこのような時にこそ、主の力と恵みは勢いよく激しく降り注がれる。全ての力を使い果たしたとき、全てを失ったときにこそ、神の力が備わるのだ。人間が自らの限界を知り、自らを虚しうして神の御前に立つとき、我々は真実の救いに触れるのだ。この女性もまた同じであった。長い期間の絶望、孤独、疎外感を闘い抜き、肉体も精神も経済も「無一文」になったとき、主に出会ったのだった。
彼女は群衆の中に紛れ込んでいたが、イエスは彼女を人々の前、日の当たる場所に引き出した。もう隠れて生きる必要はないと。旧約律法において、人々の前に出ることが許されなかった彼女が、イエス・キリストという更新された律法の下で、その命を回復するのである。
<2020年9月6日の説教から>
ルカによる福音書8章40節~48節
『安心して行きなさい』 牧師 三輪地塩
イエスは、12年間も出血が止まらない病気を患った女性に遭遇した。この類の出血は、レビ記15章25節以下によれば、宗教的な汚れを持つと考えられており、出血のある女性と接触した人は誰でも汚れる、と考えられていた。レビ記15章が適用されて社会から排除されていたようで、これが婦人病であるならば、思春期かそれ以降にこの病を発症し、多感な時期からそれ以降を闘病してきたことになる。まさに彼女は心身共に痛みの人生を歩んできたのであった。
この女性は、12年も医者の治療を受けたが一向に治らないばかりか「全財産を使い果たした」と述べられている。このことは、12年間社会生活から排除され、深い恥に貶められ、孤独と絶望の中に生きてきたと言える。更に言うと、悪い医者たちに“ぼったくられた”可能性も捨てきれない。つまり、肉体的苦痛のみならず、精神的苦痛と、経済的貧困を同時に受けていたのであった。旧約聖書の続編に「シラの書」38章には、当時の医者がどれだけ尊敬されていたかが記されている。「医者をその仕事のゆえに敬え。主が医者を造られたのだから」「過ちを犯すな。手をけがすな。あらゆる罪から心を清めよ。~。その上で医者にも助けを求めよ。主が医者を作られたのだから」。この当時のユダヤ社会では、信仰と医療が密接に繋がっていたことが分かる。だがこの女性は、信頼していた全ての者たちから裏切られていたのであった。
しかしこのような時にこそ、主の力と恵みは勢いよく激しく降り注がれる。全ての力を使い果たしたとき、全てを失ったときにこそ、神の力が備わるのだ。人間が自らの限界を知り、自らを虚しうして神の御前に立つとき、我々は真実の救いに触れるのだ。この女性もまた同じであった。長い期間の絶望、孤独、疎外感を闘い抜き、肉体も精神も経済も「無一文」になったとき、主に出会ったのだった。
彼女は群衆の中に紛れ込んでいたが、イエスは彼女を人々の前、日の当たる場所に引き出した。もう隠れて生きる必要はないと。旧約律法において、人々の前に出ることが許されなかった彼女が、イエス・キリストという更新された律法の下で、その命を回復するのである。
