<2020年1月19日の説教録音から>
『神の御心に適う方』
ルカによる福音書3章21節~22節
牧師 三輪地塩
イエスが洗礼を受けたとき「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた」と象徴的な表し方をしている。鳩は聖書に頻出の鳥。特にノアの箱舟に出てくる鳩を思い出す。洪水の後、地面の乾きを確かめるためカラスを放ったが、どこにも止まる木が無かったためそのまま帰って来た。数日が経ち、今度は鳩を放った。この鳩が口にオリーブの葉をくわえてきたのを見て水が引き始めたのを知った。再度鳩を放つと帰って来なかったため、水が引いたと判断し、舟から出た(創世記8章)。ここで鳩は「良い知らせを運ぶ動物」として現われる。ノアの経験は、大洪水であり、生物の滅びを意味する恐ろしい出来事だった。それまで豊かで祝福された大地が消え去った。大地は不毛の場所、混沌の場所と化したのだ。だが、洪水後の「鳩の知らせ」は、神の祝福の到来を示すものとなった。不毛の場所が命の場所に再生されたという象徴的な場面である。ここに鳩が重要な役割を担っている。
当該箇所で、「天が開かれた」というイメージは、「閉じられていた天」が「洗礼と同時に開かれ、祝福に変わった」ことを示している。「聖霊」を「鳩」になぞらえ、不毛の場所に「命が吹き込まれたことを告げ知らせるのである。キリスト以前の世は、まさにノアの大洪水のようであったが、キリストと共に、不毛な世が命の世に変わり、命ある豊かな場所となることへの約束を示す。「鳩のように」という比喩の意味である。
イエスに聖霊が降ると、天から声が聞こえた。「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声だった。この天の声はイエスに「愛する子」と言っている。ギリシャ語には3つの「愛」という語があると言われる。一つ目は「エロース」(恋愛的愛)、二つ目は「フィレオー」(友愛)、三つ目が「アガペー」(無償の愛)。この三つ目が聖書の愛である。
天の声はイエスに「あなたは私のアガペーの子」と言う。つまり「あなたは私の無償の愛の子」だと。だが我々は神のアガペーの子を十字架に掛けた。それは赦されない罪である。この神のアガペーを無にした存在。それが我々人間である。だがこのことが、十字架の赦しの深さを、かえって強烈に浮き彫りにするのだ。
2021.5.23 の週報掲載の説教
2021年5月9日の説教から
『18年の束縛から解かれた婦人』
ルカによる福音書13章10節~17節
長老 松谷信司
安息日をめぐる同じような論争が福音書には複数登場する。昨年4月のオンライン礼拝で語られたルカによる福音書6章6~11節の説教では、「七日目に休まれた」という創造の出来事に由来する「安息日」には、「断ち切る」「復元する」という原意があると教えられた。
13章10節で「病気は治った」と訳されたイエスの宣言は、「解放された」「赦された」という意味を含む。当時、蔑まれていたであろう婦人が18年も治らなかった病から解放されるという出来事を前に、会堂長は腹を立てた。イエスが「偽善者たちよ」と複数形で呼びかけている通り、それに賛同する群衆もいたに違いない。
コロナ禍で「自粛警察」という言葉が耳目を集めた折、ネット上では「聖書にこう書いてあるではないか」「だからあなたは間違っている」というような「聖書警察」と呼ばれる現象も目にした。律法は人を縛るのではなく、むしろこの世の悪しきとらわれから解放するためのものであるはず。安息日のために人々がいるのではなく、人々のために安息日があることを忘れてはならない。
既存のルールに従った方が楽だし、その方が分かりやすい。安息日を守っている、聖書を読んでいる、献金をしている。しかし、手段が目的化してはいないかと主は問われる。何のために安息日を守り、聖書に聞き従うのか。本来、安息日に捧げられる礼拝には、18年もの病から解放されるほどの恵みがあるにもかかわらず、それよりも目に見えるルールに則っているかどうかを気にしてしまう弱さが私たちにはある。牧師とは、信徒とは、礼拝とは「こうあるべき」という観念にとらわれ、安息日なのに奉仕に忙しく「安息」できない教会もあると聞く。
狭い会堂に留まることのない主の偉大な祝福を、自らの思いやプライドだけで閉じ込めてはいないだろうか。安息日であっても、いやむしろ安息日「だからこそ」、あらゆる束縛から解き放たれる主のみ業を信じ、従いたい。
『18年の束縛から解かれた婦人』
ルカによる福音書13章10節~17節
長老 松谷信司
安息日をめぐる同じような論争が福音書には複数登場する。昨年4月のオンライン礼拝で語られたルカによる福音書6章6~11節の説教では、「七日目に休まれた」という創造の出来事に由来する「安息日」には、「断ち切る」「復元する」という原意があると教えられた。
13章10節で「病気は治った」と訳されたイエスの宣言は、「解放された」「赦された」という意味を含む。当時、蔑まれていたであろう婦人が18年も治らなかった病から解放されるという出来事を前に、会堂長は腹を立てた。イエスが「偽善者たちよ」と複数形で呼びかけている通り、それに賛同する群衆もいたに違いない。
コロナ禍で「自粛警察」という言葉が耳目を集めた折、ネット上では「聖書にこう書いてあるではないか」「だからあなたは間違っている」というような「聖書警察」と呼ばれる現象も目にした。律法は人を縛るのではなく、むしろこの世の悪しきとらわれから解放するためのものであるはず。安息日のために人々がいるのではなく、人々のために安息日があることを忘れてはならない。
既存のルールに従った方が楽だし、その方が分かりやすい。安息日を守っている、聖書を読んでいる、献金をしている。しかし、手段が目的化してはいないかと主は問われる。何のために安息日を守り、聖書に聞き従うのか。本来、安息日に捧げられる礼拝には、18年もの病から解放されるほどの恵みがあるにもかかわらず、それよりも目に見えるルールに則っているかどうかを気にしてしまう弱さが私たちにはある。牧師とは、信徒とは、礼拝とは「こうあるべき」という観念にとらわれ、安息日なのに奉仕に忙しく「安息」できない教会もあると聞く。
狭い会堂に留まることのない主の偉大な祝福を、自らの思いやプライドだけで閉じ込めてはいないだろうか。安息日であっても、いやむしろ安息日「だからこそ」、あらゆる束縛から解き放たれる主のみ業を信じ、従いたい。
2021.5.2 の週報掲載の説教
<2020年1月5日の説教から>
ルカによる福音書2章39節~52節
『少年イエス物語』
牧師 三輪地塩
ヨセフとマリアはイエスを連れ、毎年の過ぎ越し祭にエルサレム神殿に旅をした。イエスの家庭は、実に信仰的な生活をしていたことが分かる。イエスは幼い時からラディカルな宗教改革者だったのではなく、極めてオーソドックスな基本的なユダヤ信仰を持つ家庭で育ったことが分かる。
ヨセフ一行はエルサレム神殿での務めを終えてナザレに帰る途中にあった。「イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい」(44節)とある。この「道連れ」は「キャラバン」のこと。荒れ野の真ん中を単独で渡るのは危険が伴う。盗賊や危険な動物に遭遇する可能性があるからだ。その為、何人もの人が固まって行動する「キャラバン隊」を形成し、荒れ野を渡るのが一般的であった。
ヨセフたちは、その中にイエスがいると思い込み、一日分の道のりを歩いていた。一日分の道のりは「20~30㎞」ぐらいである。ヨセフは随分とおっちょこちょいだったようにも思える。彼らはすぐ引き返し、結局3日たってようやく神殿にいるイエスを見つけたのだった。ようやく見つかった時、イエスは神殿の境内で、学者たちの中に座り、なにやら話をしていた。母マリアは真っ先にこう言った「何故こんな事をしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです」。このマリアの言葉は心配から生まれる言葉である。我々も同じ事をいうだろう。不安と共に3日間、捜し続けたマリアに同情してしまう。だがイエスは「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるのは当たり前だという事を、知らなかったのですか」と言う。あまりにそっけない返答だ。
我々は、このイエスの言葉がイマイチ腑に落ちない。心配をかけておきながら「なぜ探すのか」はないだろう、と。
だがこの福音書は、神殿とイエスの関係性をここで指摘しているのである。イエスが十字架に掛けられる前「私は神殿を打ちこわし、三日でそれを建て直す」と言った。つまり主イエスこそが「真の神殿である」という意味である。
神殿は、「私の岩」「私の救い」「砦の塔」と詩編で言われている。この堅固な場所こそが神殿であり、イエス・キリストこそが真の神殿となる。
ルカによる福音書2章39節~52節
『少年イエス物語』
牧師 三輪地塩
ヨセフとマリアはイエスを連れ、毎年の過ぎ越し祭にエルサレム神殿に旅をした。イエスの家庭は、実に信仰的な生活をしていたことが分かる。イエスは幼い時からラディカルな宗教改革者だったのではなく、極めてオーソドックスな基本的なユダヤ信仰を持つ家庭で育ったことが分かる。
ヨセフ一行はエルサレム神殿での務めを終えてナザレに帰る途中にあった。「イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい」(44節)とある。この「道連れ」は「キャラバン」のこと。荒れ野の真ん中を単独で渡るのは危険が伴う。盗賊や危険な動物に遭遇する可能性があるからだ。その為、何人もの人が固まって行動する「キャラバン隊」を形成し、荒れ野を渡るのが一般的であった。
ヨセフたちは、その中にイエスがいると思い込み、一日分の道のりを歩いていた。一日分の道のりは「20~30㎞」ぐらいである。ヨセフは随分とおっちょこちょいだったようにも思える。彼らはすぐ引き返し、結局3日たってようやく神殿にいるイエスを見つけたのだった。ようやく見つかった時、イエスは神殿の境内で、学者たちの中に座り、なにやら話をしていた。母マリアは真っ先にこう言った「何故こんな事をしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです」。このマリアの言葉は心配から生まれる言葉である。我々も同じ事をいうだろう。不安と共に3日間、捜し続けたマリアに同情してしまう。だがイエスは「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるのは当たり前だという事を、知らなかったのですか」と言う。あまりにそっけない返答だ。
我々は、このイエスの言葉がイマイチ腑に落ちない。心配をかけておきながら「なぜ探すのか」はないだろう、と。
だがこの福音書は、神殿とイエスの関係性をここで指摘しているのである。イエスが十字架に掛けられる前「私は神殿を打ちこわし、三日でそれを建て直す」と言った。つまり主イエスこそが「真の神殿である」という意味である。
神殿は、「私の岩」「私の救い」「砦の塔」と詩編で言われている。この堅固な場所こそが神殿であり、イエス・キリストこそが真の神殿となる。
2021.4.25 の週報掲載の説教
NEW! 2021.4.25 の週報掲載の説教
<2019年12月29日の説教から>
ルカによる福音書2章22節~38節
『救いを待ち望む人々』
牧師 三輪地塩
シメオンは「老人と思われる男性」である。彼は「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」と言われている。これは「祈りの人だった」という意味である。いつも祈りと共にある生活、常に祈りをもって神に応答していた人生であった。
このシメオンが、神殿に詣でて来た幼子イエスに出会う。彼はイエスを腕に抱き、神を讃美し言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉通り、このしもべを安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万人の為に整えて下さった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」。シメオンは救いの現実性を目の当たりにする。幼子を抱き、それを目で見、待ち望んでいた救いである事を、リアルに感じたのだった。
アンナという女預言者も出てくる。彼女は84歳であった。この当時の寿命からは想像できない長寿である。彼女は、「若いとき嫁いでから7年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ」とある。このような境遇の場合、未亡人としての人生がどれだけ苦難に満ちていたかは想像に難くない。彼女は「預言者だった」とあり、おそらく神殿に従事する預言者と考えられる。彼女は「神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」。つまり、彼女の行き着いた生活が「神」と共にある生活だったというのだ。
この二人の老人の出来事について、聖書は何を伝えているのか。老いることで得るものは人それぞれだと思うが、大きく分けて二通りの老い方がある。「積極的に老いること」と「消極的に老いること」の二通りである。シメオンとアンナはどうだったか。エルサレムの神殿で、神の御子に最初に気づいたのは若者でも、青年でもなく、生涯の殆んどを歩み終えた老人であったというのがこの箇所のメッセージである。聖霊に満たされていたのは老人だった。箴言20章29節に「力は若者の栄光。白髪は老人の尊厳」とあるように、老齢者にしか成しえない形で、神の計画への参与の仕方があると聖書は言う。それこそが「積極的な老い」なのだ。生産世代ではないかもしれない。だが「霊性に富んだ世代」こそが老齢者である、と聖書は言う。
<2019年12月29日の説教から>
ルカによる福音書2章22節~38節
『救いを待ち望む人々』
牧師 三輪地塩
シメオンは「老人と思われる男性」である。彼は「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」と言われている。これは「祈りの人だった」という意味である。いつも祈りと共にある生活、常に祈りをもって神に応答していた人生であった。
このシメオンが、神殿に詣でて来た幼子イエスに出会う。彼はイエスを腕に抱き、神を讃美し言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉通り、このしもべを安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万人の為に整えて下さった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」。シメオンは救いの現実性を目の当たりにする。幼子を抱き、それを目で見、待ち望んでいた救いである事を、リアルに感じたのだった。
アンナという女預言者も出てくる。彼女は84歳であった。この当時の寿命からは想像できない長寿である。彼女は、「若いとき嫁いでから7年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ」とある。このような境遇の場合、未亡人としての人生がどれだけ苦難に満ちていたかは想像に難くない。彼女は「預言者だった」とあり、おそらく神殿に従事する預言者と考えられる。彼女は「神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」。つまり、彼女の行き着いた生活が「神」と共にある生活だったというのだ。
この二人の老人の出来事について、聖書は何を伝えているのか。老いることで得るものは人それぞれだと思うが、大きく分けて二通りの老い方がある。「積極的に老いること」と「消極的に老いること」の二通りである。シメオンとアンナはどうだったか。エルサレムの神殿で、神の御子に最初に気づいたのは若者でも、青年でもなく、生涯の殆んどを歩み終えた老人であったというのがこの箇所のメッセージである。聖霊に満たされていたのは老人だった。箴言20章29節に「力は若者の栄光。白髪は老人の尊厳」とあるように、老齢者にしか成しえない形で、神の計画への参与の仕方があると聖書は言う。それこそが「積極的な老い」なのだ。生産世代ではないかもしれない。だが「霊性に富んだ世代」こそが老齢者である、と聖書は言う。
2021.4.18 主日礼拝 録画映像
主日礼拝録画映像 2021年4月18日(日) 10時30分~
スマホおよびPADでも視聴できます!

URL; https://youtu.be/BKMnJmzm8SQ
上記,下線の部分をクリックしてください。
YouTubeが立ち上がります。
スマホおよびPADでも視聴できます!
************************************主 日 礼 拝 2021年4月18日 午前10:30から
奏楽 板 垣 玲 子
<神の招き>
招 詞 ヨハネによる福音書12章24節
*讃 詠 546
*罪の告白と赦し 交読詩編96編10節~13節
聖 書 ヨハネによる福音書20章24節~29節
(新約P.210)
日曜学校説教「イエスとトマス」 三 輪 地 塩
*讃美歌 454
<神の言葉>
聖 書 民数記15章27節~31節 (旧約P.239)
ルカによる福音書12章35節~48節
(新約P.132)
祈 り 三 浦 勇 二
*讃美歌 288〔1-2〕
説 教 「忠実で賢い管理人」三 輪 地 塩
<神への応答>
*讃美歌 Ⅱ184〔1-2〕
公 告
*主の祈り
*頌 栄 543
*派遣と祝福
*後 奏
************************************
今こそ私たちの祈りを結集させ、主により頼みつつこの難局を乗り切りましょう。主の守りと支えとが、これまで同様、今も、永遠に、世々限りなくありますように。
2021.4.11 の週報掲載の説教
<2019年12月22日の説教から>
ルカによる福音書2章1節~21節
『神には栄光、地に平和』
牧師 三輪地塩
アウグストゥスは勅令を出して人口調査をしたため、ベツレヘム周辺はとても込み合っていた。泊まる宿屋がどこも一杯だったという。「彼らの泊まる場所がなかった」というのは、場所の問題でなく、「宿泊拒否」「泊めてもらえなかった」ということなのかもしれない。だとすれば、「失望の言葉」であり「絶望の言葉」となる。聖書は、ヨセフとマリアの状況を我々に提示することで、キリストが我々の「絶望」や「困窮」と共にいることを伝える。
マリアは馬小屋で出産をしたと考えられている。暖かさではなく寒さがあり、人々からの受け入れではなく拒否があり、温かな布団ではなく一枚の布があり、清潔な産湯ではなく飼い葉桶があったのだ。この全ての状況によって、聖書は我々に、キリスト誕生の意味をつぶさに示す。
この嬰児は、この世に生まれてくるどの子どもとも同じように、弱く、小さく、頼りなく生まれた。母親はこの嬰児が凍えないように、おくるみに包んだ。しかしそれは暖かな布団でも毛布でもない「布切れ」だった。飼い葉桶の中に寝かせられていたことは、この嬰児が帰る場所(故郷)を失っていたことを伝える。この弱く、小さく、頼りない幼子。帰る場所がなく、世(間に見放され、一枚の布で包まれたこの乳飲み子は、小さく頼りなく、帰る場所にも、世間にも見放され、一畳一間の部屋にうずくまる小さな者たちに対しても福音を語るのだ。すなわち、現代に生きる、居場所を失った全ての人々、暗く寒い場所で凍えている人々、心を塞いでいる人々、喪失感・絶望感の中を生きている全ての人々と共に、キリストは生まれたと聖書は語っている。我々が考え得る限りの、貧しさの極みの中に入り込み、如何なる者もこれ以上に低く、弱く、助けなき者となったことがないところにまで来て下さった。イエス・キリストは、我々の困窮の中に来て下さった。
救いはすぐ近くにある、と聖書は言う。救いとは、遠く離れた場所にある、人間の貧しさと苦しさとは無縁の美しさにあるのではなく、我々の苦しみの真っ只中に存在している。神はまさにそこに居られる。日々心を悩ませ、労苦する者たちと共に、主は居られるのだ。それが「インマヌエル」の主である。
ルカによる福音書2章1節~21節
『神には栄光、地に平和』
牧師 三輪地塩
アウグストゥスは勅令を出して人口調査をしたため、ベツレヘム周辺はとても込み合っていた。泊まる宿屋がどこも一杯だったという。「彼らの泊まる場所がなかった」というのは、場所の問題でなく、「宿泊拒否」「泊めてもらえなかった」ということなのかもしれない。だとすれば、「失望の言葉」であり「絶望の言葉」となる。聖書は、ヨセフとマリアの状況を我々に提示することで、キリストが我々の「絶望」や「困窮」と共にいることを伝える。
マリアは馬小屋で出産をしたと考えられている。暖かさではなく寒さがあり、人々からの受け入れではなく拒否があり、温かな布団ではなく一枚の布があり、清潔な産湯ではなく飼い葉桶があったのだ。この全ての状況によって、聖書は我々に、キリスト誕生の意味をつぶさに示す。
この嬰児は、この世に生まれてくるどの子どもとも同じように、弱く、小さく、頼りなく生まれた。母親はこの嬰児が凍えないように、おくるみに包んだ。しかしそれは暖かな布団でも毛布でもない「布切れ」だった。飼い葉桶の中に寝かせられていたことは、この嬰児が帰る場所(故郷)を失っていたことを伝える。この弱く、小さく、頼りない幼子。帰る場所がなく、世(間に見放され、一枚の布で包まれたこの乳飲み子は、小さく頼りなく、帰る場所にも、世間にも見放され、一畳一間の部屋にうずくまる小さな者たちに対しても福音を語るのだ。すなわち、現代に生きる、居場所を失った全ての人々、暗く寒い場所で凍えている人々、心を塞いでいる人々、喪失感・絶望感の中を生きている全ての人々と共に、キリストは生まれたと聖書は語っている。我々が考え得る限りの、貧しさの極みの中に入り込み、如何なる者もこれ以上に低く、弱く、助けなき者となったことがないところにまで来て下さった。イエス・キリストは、我々の困窮の中に来て下さった。
救いはすぐ近くにある、と聖書は言う。救いとは、遠く離れた場所にある、人間の貧しさと苦しさとは無縁の美しさにあるのではなく、我々の苦しみの真っ只中に存在している。神はまさにそこに居られる。日々心を悩ませ、労苦する者たちと共に、主は居られるのだ。それが「インマヌエル」の主である。
