2022.1.1.2 の週報掲載の説教
<2020年7月12日の説教から>
ルカによる福音書7章18節~23節
『わたしにつまづかない人は幸いである』
牧師 三輪地塩
ユダヤ民衆の英雄である洗礼者ヨハネは、冤罪によって投獄されていた。時の権力者ヘロデの罪を糾弾したからである。現代日本においては、権力者の顔色を伺って忖度し、権力の意向に沿う行動を取ることが今やお家芸となって久しいが、“空気の読めない男”ヨハネは、ヘロデと真っ向から対立し、牢獄に入れられたのだった。ヨハネの誠実で正義に溢れる行動を、手放しで賞賛する人もいるだろうが、「賢さ」の行使に疑問を呈する人もいるだろう。神の名の下に賢い行動だったかどうかは分からない。だが少なくとも、神の名の下に「間違いのない言葉」だったのは事実であろう。
本来なら既に処刑されるはずの状況で、ヨハネは生き延びていたのは民衆たちからの絶大な支持による。だが、生き延びることが必ずしも幸福であるとは限らない。ヨハネは生き続ける苦しみを受けていたのだった。完全に自由が奪われるのみならず、ヘロデ家が存続するために飼い殺しにされる日々を牢獄で過ごしてたのだ。正しい言葉を発したがゆえに苦しむというこの状況から、不誠実で横暴な人間社会の縮図を見ることも出来よう。
絶望のヨハネは二人の使いによってイエスに質問をした。「神の国は一向にやってこない。正義は必ずしも勝つわけではなく、悪人は蔓延り裁かれない。この世とは一体何なのか」と。ヨハネはイエスに尋ねた。「あなたは本当に救い主ですか。それとも他にメシアが来るのですか?」と。
これに対してイエスは自身のメシア性を明言しない。それは人は苦しみに立つ時、即効性のある救いを求めるからだ。一刻も早く苦しみから抜け出したいと願う思いが、救いを矮小化させる。それは往々にして、身体的で物理的な救いの求めとなる。つまり、苦しみが無くなった途端に、救いも忘れてしまう。喉元過ぎれば何とやら、である。
イエスはここで救いの本質について問うている。「何が救いか」、ではなく「それを救いであると信じることが出来るか」と。真の神の救いとは、あなたの欲することが満たされるものではなく、それを超えたところにこそあるのだと。
2021.12.12 の週報掲載の説教
2021.12.12 の週報掲載の説教
<2020年7月5日の説教から>
ルカによる福音書7章11節~17節
『神はその民を心にかけてくださった』
牧師 三輪地塩
早くして夫を亡くし、一人息子と肩を寄せ合いながらの母子家庭のこの女性。彼女にとって息子は生きる意味であり拠り所であったに違いない。この息子が母を残して先だってしまった。「死」は全ての人に平等に与えられるが、物事には順序がある。息子に先立たれるという不条理さと絶望感は、耐えがたい苦しみとなる。
この女性のために、多くの人が付き添った。温かい心遣いであろう。だが、他者の優しさや同情心は、決定的な「救い」にはなりえない。悲しみの全てを根本的に取り去ることが出来ないからである。そこに人間の限界がある。
「主は、この母親を見て、憐れに思い『もう泣かなくともよい』と言われた」(13節)とある。悲しむ人に「泣かないで」と優しく言葉を掛けることは誰にでも出来る。だが、誰も自分の慰めの言葉に責任は持てない。これに対してイエスの「もう泣かなくともよい」には、我々の無責任な言葉とは決定的な違いがある。「泣く理由を取り去ることが出来る」からだ。
「憐れに思い」という13節の言葉は、ギリシャ語では「スプランクニゾマイ」、「はらわたが揺り動かされる」という強い意味を持つ、ルカ福音書中3箇所しか使われていない特殊な語である。「善きサマリア人の譬え」で「瀕死のユダヤ人を見て『憐れに思い』助けた」という箇所、「放蕩息子の譬え」の中で、「改心して帰ってきた息子を見つけ、父親は『憐れに思い』近寄って抱擁した」という箇所と当該箇所だけである。つまりここでイエスが憐れまれたのは、善きサマリア人の「無償の憐れみ」と、放蕩息子を快く迎え入れた父親の「わだかまりのない憐れみ」をもって、どん底に落ちている母親の心を捕え、悲しみに触れて接していることが分かる。聖書が示すのは息子の生き返りよりもむしろ、如何にしてイエスは我々の心に触れられるかに焦点が当てられる。つまり、死んだのは息子であったが、「本当に魂が死んでいたのは」むしろ母親の方だったということにある。イエスは最も悲しむ者の魂に触れ、全身全霊を注がれてこの母親を慰めるのである。
<2020年7月5日の説教から>
ルカによる福音書7章11節~17節
『神はその民を心にかけてくださった』
牧師 三輪地塩
早くして夫を亡くし、一人息子と肩を寄せ合いながらの母子家庭のこの女性。彼女にとって息子は生きる意味であり拠り所であったに違いない。この息子が母を残して先だってしまった。「死」は全ての人に平等に与えられるが、物事には順序がある。息子に先立たれるという不条理さと絶望感は、耐えがたい苦しみとなる。
この女性のために、多くの人が付き添った。温かい心遣いであろう。だが、他者の優しさや同情心は、決定的な「救い」にはなりえない。悲しみの全てを根本的に取り去ることが出来ないからである。そこに人間の限界がある。
「主は、この母親を見て、憐れに思い『もう泣かなくともよい』と言われた」(13節)とある。悲しむ人に「泣かないで」と優しく言葉を掛けることは誰にでも出来る。だが、誰も自分の慰めの言葉に責任は持てない。これに対してイエスの「もう泣かなくともよい」には、我々の無責任な言葉とは決定的な違いがある。「泣く理由を取り去ることが出来る」からだ。
「憐れに思い」という13節の言葉は、ギリシャ語では「スプランクニゾマイ」、「はらわたが揺り動かされる」という強い意味を持つ、ルカ福音書中3箇所しか使われていない特殊な語である。「善きサマリア人の譬え」で「瀕死のユダヤ人を見て『憐れに思い』助けた」という箇所、「放蕩息子の譬え」の中で、「改心して帰ってきた息子を見つけ、父親は『憐れに思い』近寄って抱擁した」という箇所と当該箇所だけである。つまりここでイエスが憐れまれたのは、善きサマリア人の「無償の憐れみ」と、放蕩息子を快く迎え入れた父親の「わだかまりのない憐れみ」をもって、どん底に落ちている母親の心を捕え、悲しみに触れて接していることが分かる。聖書が示すのは息子の生き返りよりもむしろ、如何にしてイエスは我々の心に触れられるかに焦点が当てられる。つまり、死んだのは息子であったが、「本当に魂が死んでいたのは」むしろ母親の方だったということにある。イエスは最も悲しむ者の魂に触れ、全身全霊を注がれてこの母親を慰めるのである。
2021.12.5 の週報掲載の説教
2021.12.5 の週報掲載の説教
<2021年6月28日の説教から>
ルカによる福音書7章1節~10節
『主よ御足労には及びません』
牧師 三輪地塩
この百人隊長は、「私はあなたを、自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」(6節)と述べる。換言すれば「自分にはあなた(イエス)に見合った価値がない」という意味である。旧約聖書を熟知していたであろう彼は、自分がイスラエルの選びの民ではないことをこのように表現しているのだろう。彼は部下に対する愛情を示しながら、わきまえと謙虚さを持ち、神を敬い、畏れ、信仰的な視点で考えることが出来る「異邦人士官」であった。
隣人への愛と神への愛を同時に持つことは難しい。マタイ福音書22章34節以下には、「律法の中で最も重要な掟」について「神を愛すること」と「隣人を愛すること」と述べられており、この二つの不可分性を示したのであった。この百人隊長は、ユダヤ人の血筋ではない異邦人でありながら、イスラエルの神が伝える真意を汲み取っていた。さらに、軍隊の命令系統を信仰における神と民と類比させることによって、正しく神の命令について理解していたのである。彼は自身の職業から類推して信仰を解釈する。兵士は上官の命令が絶対であることを身をもって知っていた。イエスが最も感心したのは、彼が「言葉に信頼」していることであった。この百人隊長は「イエスの語る言葉が実現する」という信頼をもっていた。
しかし良く読んでみると、この百人隊長、ただの一度もイエスに直接は会っておらず、「ユダヤ人の長老」(3節)や「友達」(6節)を使いに出しているだけである。不思議な感じもするが、信仰者が「イエスの言葉」「聖書の言葉」を信じるとはまさにこうである。つまり、いにしえの信仰者が聖書に書き記して伝えたことを我々は信じているからだ。我々はイエスの言葉を、イエスの「声帯から」聞いたわけではないが、「直接のイエスの言葉として」聖書に耳を傾けている。この聖書の証言を、神の言葉として、確信と信頼をもって「そのとおり」「アーメン」であるものとして信じ、信仰を告白するのだ。
信仰はかくも「代理的」である。直接的な信仰を求める者は言うかもしれない、「直接、釘の跡を見、指をわき腹に入れてみなければ信じない」と。しかしその時、復活のキリストの言葉がこだまする。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる者は幸いである」と。 (ヨハネ福音書21章29節)。
<2021年6月28日の説教から>
ルカによる福音書7章1節~10節
『主よ御足労には及びません』
牧師 三輪地塩
この百人隊長は、「私はあなたを、自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」(6節)と述べる。換言すれば「自分にはあなた(イエス)に見合った価値がない」という意味である。旧約聖書を熟知していたであろう彼は、自分がイスラエルの選びの民ではないことをこのように表現しているのだろう。彼は部下に対する愛情を示しながら、わきまえと謙虚さを持ち、神を敬い、畏れ、信仰的な視点で考えることが出来る「異邦人士官」であった。
隣人への愛と神への愛を同時に持つことは難しい。マタイ福音書22章34節以下には、「律法の中で最も重要な掟」について「神を愛すること」と「隣人を愛すること」と述べられており、この二つの不可分性を示したのであった。この百人隊長は、ユダヤ人の血筋ではない異邦人でありながら、イスラエルの神が伝える真意を汲み取っていた。さらに、軍隊の命令系統を信仰における神と民と類比させることによって、正しく神の命令について理解していたのである。彼は自身の職業から類推して信仰を解釈する。兵士は上官の命令が絶対であることを身をもって知っていた。イエスが最も感心したのは、彼が「言葉に信頼」していることであった。この百人隊長は「イエスの語る言葉が実現する」という信頼をもっていた。
しかし良く読んでみると、この百人隊長、ただの一度もイエスに直接は会っておらず、「ユダヤ人の長老」(3節)や「友達」(6節)を使いに出しているだけである。不思議な感じもするが、信仰者が「イエスの言葉」「聖書の言葉」を信じるとはまさにこうである。つまり、いにしえの信仰者が聖書に書き記して伝えたことを我々は信じているからだ。我々はイエスの言葉を、イエスの「声帯から」聞いたわけではないが、「直接のイエスの言葉として」聖書に耳を傾けている。この聖書の証言を、神の言葉として、確信と信頼をもって「そのとおり」「アーメン」であるものとして信じ、信仰を告白するのだ。
信仰はかくも「代理的」である。直接的な信仰を求める者は言うかもしれない、「直接、釘の跡を見、指をわき腹に入れてみなければ信じない」と。しかしその時、復活のキリストの言葉がこだまする。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる者は幸いである」と。 (ヨハネ福音書21章29節)。
2021.11.28 の週報掲載の説教
2021.11.28 の週報掲載の説教
<2021年6月21日の説教から>
ルカによる福音書6章46節~49節
『岩の上に土台を置いて』
牧師 三輪地塩
我々の生涯には、さながら洪水のような厳しい状況が襲い掛かる。それを「家」に譬えてイエスは語る。ユダヤの気候は日本とは異なり、長い夏と短い冬、つまり雨期と乾期の2つしかない。イスラエルは地中海岸沿いにあるが、砂漠地方の気候に属している。1日の温度差は激しく、時には真昼と真夜中で40℃の差があることも珍しくない。その分、雨の降り方も尋常ではない。年間降雨量はたった500mmであり、日本の約30分の1程度しかない。だがその雨が3月と10月に集中して降るため、すさまじい豪雨となり、数分で川をあふれさせる。最近の日本の豪雨災害を思い起こせばその凄まじさを幾らかでも想起できよう。もし土台がしっかりしてなければ、その氾濫した地域の家は、激流に一気に流されてしまう。このような背景を元にしてイエスは語る。「土台がしっかりした家は、揺り動かす事が出来なかった」「決して崩れない」。この豪雨を知っている聴衆は、イエスの確信ある言葉を力強く受け取ったことだろう。
我々の人生に起こる「洪水」もまた然り。氾濫して押し寄せる困難から免れ得ない。自らの足で立つ事が不可能と感じさせられる苦しみが幾度となく押し寄せる。だがその際にも、キリストを土台にするならば、岩の上に基礎を据えた者は、全てに耐えうる力を得られるとイエスは言う。揺るがない「キリスト」が土台である限り、我々も揺るがないのだ。
主を告白する我々は、日々御言葉に接し、御言葉と共に歩んでいることを、この箇所から再確認させられる。我々の教会では「日本キリスト教会信仰の告白」を制定し、これを告白している。この信仰告白は「暗唱」することが目的ではなく、内容や意味が理解され、信仰者の実生活に生かされるための告白である。信仰告白は「理解に」留まらず、生活の中で生かされる事が大切だ。同時に我々は、その告白内容をいつも吟味することが重要となる。イエス・キリストという基礎の上に固く据えられた岩の上の家ならば、例え洪水が押し寄せても、決して揺り動かされることはない。我々は、我々が基礎とするキリストと真剣に向き合っているか。土台であり基礎であるキリストの言葉に、我々自身が真摯に取り組んでいるか。その自己吟味が問われている。
<2021年6月21日の説教から>
ルカによる福音書6章46節~49節
『岩の上に土台を置いて』
牧師 三輪地塩
我々の生涯には、さながら洪水のような厳しい状況が襲い掛かる。それを「家」に譬えてイエスは語る。ユダヤの気候は日本とは異なり、長い夏と短い冬、つまり雨期と乾期の2つしかない。イスラエルは地中海岸沿いにあるが、砂漠地方の気候に属している。1日の温度差は激しく、時には真昼と真夜中で40℃の差があることも珍しくない。その分、雨の降り方も尋常ではない。年間降雨量はたった500mmであり、日本の約30分の1程度しかない。だがその雨が3月と10月に集中して降るため、すさまじい豪雨となり、数分で川をあふれさせる。最近の日本の豪雨災害を思い起こせばその凄まじさを幾らかでも想起できよう。もし土台がしっかりしてなければ、その氾濫した地域の家は、激流に一気に流されてしまう。このような背景を元にしてイエスは語る。「土台がしっかりした家は、揺り動かす事が出来なかった」「決して崩れない」。この豪雨を知っている聴衆は、イエスの確信ある言葉を力強く受け取ったことだろう。
我々の人生に起こる「洪水」もまた然り。氾濫して押し寄せる困難から免れ得ない。自らの足で立つ事が不可能と感じさせられる苦しみが幾度となく押し寄せる。だがその際にも、キリストを土台にするならば、岩の上に基礎を据えた者は、全てに耐えうる力を得られるとイエスは言う。揺るがない「キリスト」が土台である限り、我々も揺るがないのだ。
主を告白する我々は、日々御言葉に接し、御言葉と共に歩んでいることを、この箇所から再確認させられる。我々の教会では「日本キリスト教会信仰の告白」を制定し、これを告白している。この信仰告白は「暗唱」することが目的ではなく、内容や意味が理解され、信仰者の実生活に生かされるための告白である。信仰告白は「理解に」留まらず、生活の中で生かされる事が大切だ。同時に我々は、その告白内容をいつも吟味することが重要となる。イエス・キリストという基礎の上に固く据えられた岩の上の家ならば、例え洪水が押し寄せても、決して揺り動かされることはない。我々は、我々が基礎とするキリストと真剣に向き合っているか。土台であり基礎であるキリストの言葉に、我々自身が真摯に取り組んでいるか。その自己吟味が問われている。
2021.11.14 の週報掲載の説教
2021.11.14 の週報掲載の説教
<2020年6月14日の説教から>
ルカによる福音書6章43節~45節
『人の口は、心から出ることを語る』
牧師 三輪地塩
「イチジク」も「ブドウ」も当時は重要な食材だった。そのままでも、乾燥させて長期保存にも適している。さらに、この二つは「神の祝福の果物」と認識されていた。申命記8章8節で神は、「約束の地」とは「……山にも川が流れ、泉が湧き、[…]小麦、大麦、ブドウ、イチジク[…]が実る土地[…]である」。と語る。つまり当時の人々にとってイチジクもブドウも、主の祝福を受けた食料であり、栄養的にも信仰的にも「善い物」であった。これらは「茨」からも「野ばら」からも生ぜしめることは出来ない。この文脈でイエスは「人の口は、心から溢れ出ることを語る」と語る。
ヤコブの手紙3章9節以下では「舌を制御する」ことについて「私達は舌で、父である主を讃美し、また、舌で神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から讃美と呪いが出てくるのです」と述べられる。同じ口から讃美と呪いの言葉が出てくる、だからこのような事があってはならない、とヤコブは戒める。そして同時に「これが人間の現実である」と言っているようでもある。およそ両立しない二つの言葉が、我々の口から出る。ある時は人を非難し攻撃し、またある時はその口で神を讃美し、自分を罪人であると告白する。ヤコブは同じ口から(同じ舌から)二つの異なる言葉が、躊躇することなく出てきてしまう現実を述べている。
ヨハネ福音書15章には「私はブドウの木、あなた方はその枝である。人が私に繋がっており、私もその人に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」という言葉があるが、これが良い示唆を与える。良い木に繋がっていると良い実を結ぶ。しかし同時に、我々の努力だけで行えるものではなく、「人が私に繋がっており」と同時に「私もその人に繋がっていれば」との条件節が続く。つまり主の方から我々に繋がって下さることを信じること、これが大事だと述べている。我々が一生懸命に繋がっていようとしても、「繋がり切れない我々」がいる。自らの力で救いを引き寄せようとしても、我々が救いを作ることは出来ない。むしろ、良いものは「神から」与えられるのであり、良い実も、良い言葉も、神から与えられることを信じること。そこにしか我々信仰者が本来的に生きる道はないのである。
<2020年6月14日の説教から>
ルカによる福音書6章43節~45節
『人の口は、心から出ることを語る』
牧師 三輪地塩
「イチジク」も「ブドウ」も当時は重要な食材だった。そのままでも、乾燥させて長期保存にも適している。さらに、この二つは「神の祝福の果物」と認識されていた。申命記8章8節で神は、「約束の地」とは「……山にも川が流れ、泉が湧き、[…]小麦、大麦、ブドウ、イチジク[…]が実る土地[…]である」。と語る。つまり当時の人々にとってイチジクもブドウも、主の祝福を受けた食料であり、栄養的にも信仰的にも「善い物」であった。これらは「茨」からも「野ばら」からも生ぜしめることは出来ない。この文脈でイエスは「人の口は、心から溢れ出ることを語る」と語る。
ヤコブの手紙3章9節以下では「舌を制御する」ことについて「私達は舌で、父である主を讃美し、また、舌で神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から讃美と呪いが出てくるのです」と述べられる。同じ口から讃美と呪いの言葉が出てくる、だからこのような事があってはならない、とヤコブは戒める。そして同時に「これが人間の現実である」と言っているようでもある。およそ両立しない二つの言葉が、我々の口から出る。ある時は人を非難し攻撃し、またある時はその口で神を讃美し、自分を罪人であると告白する。ヤコブは同じ口から(同じ舌から)二つの異なる言葉が、躊躇することなく出てきてしまう現実を述べている。
ヨハネ福音書15章には「私はブドウの木、あなた方はその枝である。人が私に繋がっており、私もその人に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」という言葉があるが、これが良い示唆を与える。良い木に繋がっていると良い実を結ぶ。しかし同時に、我々の努力だけで行えるものではなく、「人が私に繋がっており」と同時に「私もその人に繋がっていれば」との条件節が続く。つまり主の方から我々に繋がって下さることを信じること、これが大事だと述べている。我々が一生懸命に繋がっていようとしても、「繋がり切れない我々」がいる。自らの力で救いを引き寄せようとしても、我々が救いを作ることは出来ない。むしろ、良いものは「神から」与えられるのであり、良い実も、良い言葉も、神から与えられることを信じること。そこにしか我々信仰者が本来的に生きる道はないのである。
2021.11.7 の週報掲載の説教
2021.11.7 の週報掲載の説教
<2020年6月7日の説教から>
ルカによる福音書6章37節~42節
『まず自分の目から丸太を取り除け』
牧師 三輪地塩
この箇所は、実にアイロニックである。37節の「人を裁くな」「人を罪人だと決めるな」の言葉は、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」という主の祈りの一節が共鳴する。我々は人を裁きがちである。人の罪や間違いはよく見えるし指摘しやすい。だが自分の罪を直視させられるのは嫌いだし、人から間違いを指摘されるとムキになって怒り出す。実にしょうもない存在だ。こんな人間の性質・弱さ・悪さ・汚さについて、今日の箇所は包み隠さず語っている。
38節の「自分の量る秤で量り返される」と「押し入れ、揺すり入れ、溢れるほどに量りを良くして」という言葉は難しい。だが、当時の文化的背景から読むと多少分かり易くなる。つまり「収穫物を測量するイメージ」で語られているのである。「秤」と言われているのは「麦を入れる秤」「升」のこと。「量りを良くする」は、升から溢れるほど山盛りに麦を入れ、山盛りの升の上部を板か何かで、すぅ~っと払い落とした、ちょうど一杯分の升の量、それを「良い量り」と呼ぶ。つまり満タンだ。それに対し「悪い量り」とは、升が満タンになっていない状態。升一杯分より少ない状態のことを「悪い量り」と呼んでいる。
イエスは今日の箇所で「押し入れ、揺すり入れ、溢れるほどに量りを良くして、ふところに入れてもらえる」と語られる。それは、良い量りの上に、更に「押し込んでくれる」ということである。ただでさえ、たくさん入っているのに、それ以上にギュウギュウに押し込んで入れてくれる。少しでも隙間があれば、升を揺すって麦をねじ込んでくれるというのだ。そして遂には升が溢れてしまうほどたくさんの麦を升に入れてくれる。その様子を表わしている。つまり、それだけたくさんの恵みを我々に与えて下さるという比喩である。
我々は、浅はかで、人を愛せず、赦せない。使徒パウロの言葉を借りると「土の器」である。だが、この小さな器の小さな信仰者の「小さな升」の中に、神は恵みと祝福を「ギュウギュウに」たくさん入れてくれる方なのだ。何とかして、揺すり、空間を作り、押し込み、溢れてしまうほどに祝福をねじ込んで下さる方。それが神なのだ。我々にとって神の恵みとはそういうものなのだ、とイエスは比喩をもって語っている。
<2020年6月7日の説教から>
ルカによる福音書6章37節~42節
『まず自分の目から丸太を取り除け』
牧師 三輪地塩
この箇所は、実にアイロニックである。37節の「人を裁くな」「人を罪人だと決めるな」の言葉は、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」という主の祈りの一節が共鳴する。我々は人を裁きがちである。人の罪や間違いはよく見えるし指摘しやすい。だが自分の罪を直視させられるのは嫌いだし、人から間違いを指摘されるとムキになって怒り出す。実にしょうもない存在だ。こんな人間の性質・弱さ・悪さ・汚さについて、今日の箇所は包み隠さず語っている。
38節の「自分の量る秤で量り返される」と「押し入れ、揺すり入れ、溢れるほどに量りを良くして」という言葉は難しい。だが、当時の文化的背景から読むと多少分かり易くなる。つまり「収穫物を測量するイメージ」で語られているのである。「秤」と言われているのは「麦を入れる秤」「升」のこと。「量りを良くする」は、升から溢れるほど山盛りに麦を入れ、山盛りの升の上部を板か何かで、すぅ~っと払い落とした、ちょうど一杯分の升の量、それを「良い量り」と呼ぶ。つまり満タンだ。それに対し「悪い量り」とは、升が満タンになっていない状態。升一杯分より少ない状態のことを「悪い量り」と呼んでいる。
イエスは今日の箇所で「押し入れ、揺すり入れ、溢れるほどに量りを良くして、ふところに入れてもらえる」と語られる。それは、良い量りの上に、更に「押し込んでくれる」ということである。ただでさえ、たくさん入っているのに、それ以上にギュウギュウに押し込んで入れてくれる。少しでも隙間があれば、升を揺すって麦をねじ込んでくれるというのだ。そして遂には升が溢れてしまうほどたくさんの麦を升に入れてくれる。その様子を表わしている。つまり、それだけたくさんの恵みを我々に与えて下さるという比喩である。
我々は、浅はかで、人を愛せず、赦せない。使徒パウロの言葉を借りると「土の器」である。だが、この小さな器の小さな信仰者の「小さな升」の中に、神は恵みと祝福を「ギュウギュウに」たくさん入れてくれる方なのだ。何とかして、揺すり、空間を作り、押し込み、溢れてしまうほどに祝福をねじ込んで下さる方。それが神なのだ。我々にとって神の恵みとはそういうものなのだ、とイエスは比喩をもって語っている。
