主日礼拝録画映像 2021年4月18日(日) 10時30分~
スマホおよびPADでも視聴できます!
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https://youtu.be/BKMnJmzm8SQ
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主 日 礼 拝 2021年4月18日 午前10:30から
奏楽 板 垣 玲 子
<神の招き>
招 詞 ヨハネによる福音書12章24節
*讃 詠 546
*罪の告白と赦し 交読詩編96編10節~13節
聖 書 ヨハネによる福音書20章24節~29節
(新約P.210)
日曜学校説教「イエスとトマス」 三 輪 地 塩
*讃美歌 454
<神の言葉>
聖 書 民数記15章27節~31節 (旧約P.239)
ルカによる福音書12章35節~48節
(新約P.132)
祈 り 三 浦 勇 二
*讃美歌 288〔1-2〕
説 教 「忠実で賢い管理人」三 輪 地 塩
<神への応答>
*讃美歌 Ⅱ184〔1-2〕
公 告
*主の祈り
*頌 栄 543
*派遣と祝福
*後 奏
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今こそ私たちの祈りを結集させ、主により頼みつつこの難局を乗り切りましょう。主の守りと支えとが、これまで同様、今も、永遠に、世々限りなくありますように。
<2019年12月22日の説教から>
ルカによる福音書2章1節~21節
『神には栄光、地に平和』
牧師 三輪地塩
アウグストゥスは勅令を出して人口調査をしたため、ベツレヘム周辺はとても込み合っていた。泊まる宿屋がどこも一杯だったという。「彼らの泊まる場所がなかった」というのは、場所の問題でなく、「宿泊拒否」「泊めてもらえなかった」ということなのかもしれない。だとすれば、「失望の言葉」であり「絶望の言葉」となる。聖書は、ヨセフとマリアの状況を我々に提示することで、キリストが我々の「絶望」や「困窮」と共にいることを伝える。
マリアは馬小屋で出産をしたと考えられている。暖かさではなく寒さがあり、人々からの受け入れではなく拒否があり、温かな布団ではなく一枚の布があり、清潔な産湯ではなく飼い葉桶があったのだ。この全ての状況によって、聖書は我々に、キリスト誕生の意味をつぶさに示す。
この嬰児は、この世に生まれてくるどの子どもとも同じように、弱く、小さく、頼りなく生まれた。母親はこの嬰児が凍えないように、おくるみに包んだ。しかしそれは暖かな布団でも毛布でもない「布切れ」だった。飼い葉桶の中に寝かせられていたことは、この嬰児が帰る場所(故郷)を失っていたことを伝える。この弱く、小さく、頼りない幼子。帰る場所がなく、世(間に見放され、一枚の布で包まれたこの乳飲み子は、小さく頼りなく、帰る場所にも、世間にも見放され、一畳一間の部屋にうずくまる小さな者たちに対しても福音を語るのだ。すなわち、現代に生きる、居場所を失った全ての人々、暗く寒い場所で凍えている人々、心を塞いでいる人々、喪失感・絶望感の中を生きている全ての人々と共に、キリストは生まれたと聖書は語っている。我々が考え得る限りの、貧しさの極みの中に入り込み、如何なる者もこれ以上に低く、弱く、助けなき者となったことがないところにまで来て下さった。イエス・キリストは、我々の困窮の中に来て下さった。
救いはすぐ近くにある、と聖書は言う。救いとは、遠く離れた場所にある、人間の貧しさと苦しさとは無縁の美しさにあるのではなく、我々の苦しみの真っ只中に存在している。神はまさにそこに居られる。日々心を悩ませ、労苦する者たちと共に、主は居られるのだ。それが「インマヌエル」の主である。
<2019年12月15日の説教から>
ルカによる福音書1章57節~80節
『ザカリアの預言』
牧師 三輪地塩
「ヨハネ」という名にしたのは、天使ガブリエルに命じられていたことであった。エリサベトが無事出産し、近隣の肉親友人たちが、ザカリアとエリサベト夫婦のところに集まり、子どもの誕生を喜び合っていた。当時の律法では、出産後、「7日間は汚れている」と考えられいたため、8日目になって男児の場合は「割礼」を施す習わしだった。割礼は、「正式な神の民になること」を意味していた。割礼によって子どもは、生涯にわたる神の祝福の約束を受けると信じられていたためである。
59節「そこに来た人々は、父の名をとってザカリアと名付けようとした」とある。恐らく「ザカリアという名前になるのが順当だろうな」と話し合っていた、ということだろう。
ルカ福音書1章5節では、ザカリアが「アロン家の血筋」の「アビヤ組」という祭司家系にあり、妻のエリサベトもアロン家の血筋の由緒正しき家柄であったと記されている。祭司家系、アビヤ組は、大祭司の務めを24組に分けて制度化させた組の一つのため、大変に名誉ある血筋であった。エリサベトも「アロンの血筋」なので祭司職家庭としては申し分ない家柄だった。この血筋を守っていくザカリアは、もちろん息子にも、代々受け継がれてきた由緒正しい名前を付けるだろうと人々は考えていたのだ。
しかしエリサベトは「ヨハネ」という名を主張した。ザカリア家には「ヨハネ」という名の先祖がいなかったため、皆、驚き、ザカリアに訪ねた。ガブリエルに口を閉ざされていたザカリアは、文字板に「この子の名はヨハネ」と書き、妻と同じ思いであることを明らかにしたのだ。この時、ザカリアの口が開かれ、舌のもつれがほどけた。単に肉体的な問題ではなく、「イスラエルの救済史」に関わる転換を迎えたことを示している。つまり、「これまでの古い祭司制度の終焉と、新しい神の時代の始まり」である。旧約律法こそが「神の言葉」「神の御心の現われ」と理解してきた民であるが、ヨハネ以降から、新しい時、新しい契約時代、すなわち「神の言」としてのイエス・キリスト時代を迎えたことが示されている。この箇所は単なる「命名」逸話ではなく、新たな救いの転換を示すのである。
<2019年12月8日の説教から>
ルカによる福音書1章39節~56節
『マリアの讃歌』
牧師 三輪地塩
イエス誕生時のユダヤは、ローマ帝国の傀儡政権として統治されていた。当時のローマ皇帝はアウグストゥス。当時の権力者のトップが彼であった。彼は皇帝礼拝の基礎を作った人物であり、この皇帝礼拝は300年に亘って続けられた。彼の統治した時代は「パクス・ロマーナ」「ローマの平和」と呼ばれ、一代にして最も栄えた時代を築き上げた(歴史学的には)有能な皇帝である。彼の本当の名は、「オクタヴィアヌス」。ユリウス・シーザーの後継者だった。
この時代の詩人たちは、アウグストゥスを賞賛した。プロペルティウスという詩人は「アクティウムの戦い」に勝利したことを記念し、「世の救い主なる、アウグストゥスよ。海の上で勝利を得よ。大地は既に汝のものなり。わが弓は汝を支えん」と詠った。又、トルコ沿岸の町のある碑文には「万物の永遠性が、最善にして驚くべき善意であるカエサル・アウグストゥスを、この幸いなる時に人類に与え給うた。彼の国なる神聖ローマの父、いにしえのゼウス、~~大地と海に平和がもたらされ、町々は秩序と調和と富によって潤った」と、当時の人々はアウグストゥスに最大級の賛辞を送っていたのだった。当時の皇帝アウグストゥスは、「世の救い主」であり、「最善にして驚くべき善意である」、と言われていた。「この人こそ世界に平和をもたらす主にして神である。救い主にしてメシアである」。このような言い方がなされていた。
ルカ福音書が、この「救い主」という語を多用している。福音書でもルカにしか使われていないのが「救い主」「ソーテール」という称号である。「私の霊は救い主である神を喜びたたえます」(1:47)。「今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった」(2:11)。というように、ルカは「救い主」と「イエス・キリスト」を明確に結びつける。そこには、権力の象徴・世界の統治者である「ソーテール」が皇帝ではなく「キリスト」であると言い、国家権力批判をしているとも言える。51節以下にこうある。「主はその腕を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」。この強い表現の中にこそ、強烈な体制批判と、イエスのメシア性が表わされている。
<2019年12月1日の説教から>
ルカによる福音書1章26節~38節
『神にできないことは何一つない』
牧師 三輪地塩
聖書はマリアのルックスや人物像には関心を向けず淡々と「受胎告知」を記す。つまり聖書は、マリアを、クリスマスの中心人物にしようとしていない。ここにはルカの使信が「人間」ではなく「神」中心であることが暗示されている。「主があなたと共におられる」「インマヌエル」が、聖書の中心テーマであると。
聖書にとってマリアという女性は、高潔で、性格の良い、正しい女性である必要がない。世の中にたくさんいる女性の一人であり、戸惑いと不安を持つ、田舎町ナザレに住む一般的な女性。それが聖書の伝えるマリアである。
ナザレという町は、ヨハネ福音書1:46に「ナザレから何か良い物が出るだろうか」と当時の格言で言われるように、取るに足らぬ町であり、神の救いから外れた町と考えられていた。
だが神は、この片田舎に住む、取るに足りない一人の女性に、救いの計画を告知した。神の目線から言えば、土地の繁栄、良い家柄、人間としての容姿・性格などの評価は関係ない。そのような人間の評価と「神の救い」は別なのだ。
このマリアの前に天使ガブリエルが現れた。29節には「彼女はこの言葉に戸惑い」とある。新共同訳聖書では「戸惑う」と訳されているが、岩波訳聖書では「心を乱され」と訳されている。彼女は結婚前であった。当時の律法に従うならば、婚前の関係は処罰の対象だった。もちろん事情を知らない周囲の人々は彼女の妊娠についてあれやこれやと勝手な事を言う。彼女のことを周囲は大いに誤解したことだろうし、彼女の心の痛みは激しかっただろう。つまりマリアは、戸惑っただけでなく、心が乱れ、苦しんだのだ。誤解され、婚約も破棄され、処罰されるかもしれない。命の危険もあるかもしれない。そのような、死の恐怖が彼女を包んだ。予期せぬ事態になり、喜べない現実が突然襲う。我々の身の回りでも起こりうる。彼女を襲ったこの状況は、しかしここから神の救いが始まる端緒となった。
神は我々の準備を待たず、突然救う。神はいつもご自身の計画をご自分の行いたいように遂行される。恵みを与えるのも、祝福するのも神の側からである。神に一方的に与えられたものを、我々は受け取るのみである。それがマリアの懐胎であった。
<2019年11月24日の説教から>
ルカによる福音書1章1節~25節
『洗礼者ヨハネの誕生』
牧師 三輪地塩
ザカリアは天使に「あなたの願いは聞き入れられた」と言われ「それを見て不安になり、恐怖の念に襲われた」とある。アブラハム、モーセ、イザヤなども神の顕現を受けたとき、不安と恐怖の思いにかられた、と聖書は伝えている。老いた夫婦が「子が授かる」と天使に言われても、信じることが出来ないのは当然であろう。ザカリアは、天使ガブリエルの言葉を否定するように18節で言う。「私は老人ですし、妻も年をとっています」。このように天使の預言を拒否した。これに対して天使は言う。「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話す事が出来なくなる。時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである」。
ザカリアの「口が利けなくなった」理由を、我々は「ザカリアの不信仰」と理解するだろう。信じなかったからための罰だと。勿論そのような意味もあったとも思うが、正確にはそうではない。19節「私はガブリエル。神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである」。ここに「この喜ばしい知らせを伝えるために」と書あるが、直訳すると「これらを福音として知らせるために」となる。つまりガブリエルが伝えたいことは、「洗礼者ヨハネが誕生する」という誕生予告でなく、ヨハネの誕生自体の「福音性」にある。「キリスト誕生前に先立って歩む者、つまりキリストの準備をなす者」、これこそが我々に与えられる救いである」と言うのだ。これあザカリア一家に訪れた幸せにとどまらず、世に対する福音であると聖書は示す。
つまり、天使の言葉を信じなかったための「口閉じ」という単純なものではなく、「信じていない者の口から語られる福音は、語る事を許されない」という意味なのだ。神は信じる者の口から福音を伝えさせようとしている。もし信じないのなら、黙っていた方が良い。本当に福音なのかどうか疑う者は、語る必要はない。語ってはいけない。
天使が目の前に現われるなどという事は、現象的にはそうそう起こることではない。だが我々は「経験的に」起こり得ることを知っている。何も語れなくなるような時があり、熟慮が必要な時があり、「沈黙」が必要な場面がある。ザカリアはその時、沈黙を経て、語る者に変えられたのである。 |