2018.11.25の説教から

<2018年1125日の説教から>
       
      『「ぶどう園」と「農夫」のたとえ
       マルコによる福音書121節~12
                     牧師 三輪地塩
 
 主イエスの譬え話。「主人はこのぶどう園を農夫たちに貸して、しばらく旅に出」て「収穫の時期になったので収穫物を受け取るために、しもべを農夫たちのところへ送った」とあるが、これは当時度々見られた光景ではある。収穫物を受け取るためにしもべを何度も送ったが、農夫たちは何度も追い返してしまうのであった。主人は、「愛する息子」を最後に送ったが、殺されたしまったという。
 
 この譬え話しは、祭司・律法学者たちの頑なな心を暴き出そうとしている。何度も送られた「しもべ」は、この世に送られた「預言者たち」を意味している。これまで何度も旧約の預言者が神の言葉を伝えてきたが、人々はそれらをことごとく拒否し続けてきた。
 
 しかし主人は意外な行動に出る。「この息子なら敬ってくれるだろう」と言って、愛する息子を送ったのだ。主人が求めているのは、ぶどう園を奪還することではなく、「主人への敬い」「主人の権威の回復」である。主人に愛され、主人から信頼されたからこそ、この農夫たちは、ぶどう園を任された。だからそれを今一度思い起こして欲しい。息子の姿、息子の言葉を聞いて、あの従順だった農夫の頃を思い起こして欲しい、という願いこそが、愛する息子を送り出した理由なのであった。
 
 ここで思い起こされるのは、神とイスラエルとの関係の修復である。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」という思い起こし、である。この世において、主体は神にあること。そして我々が欲すべきは、人間の権利、人間の権威から離れ、神の下に立ち返ることである。
 
 ここで主イエスは、語調を強めてぶどう園の農夫の話をしている。その根源には、神の愛と、神がなさるであろう赦しが語られている。だからこそ立ち返りなさい、と。神殿祭儀を我が物としているユダヤの宗教者たちに対し、その権威と権力は、あなたのものではない事に気づきなさい。そして立ち返りなさい、と、主イエスは語る。神は、人間の罪からも、神の祝福へと導かれる。捨てた方を親石としてそこに礎を築かれる、と言って締めくくる。ここに示された神の愛。我々に対する「それでも罪人を捨て置かれない」というなさり方に目を向け、心を開き、神への立ち返りを、いよいよ強めていきたい。

2018.11.18の説教から

<2018年1118日の説教から>
 『神の権威か人間の権威か
 
      マルコによる福音書1127節~33
                 
                            牧師 三輪地塩
   イエスの権威を否定しようとする祭司・律法学者たち 
は、イエスに「何の権威があるのか」と問う。
イエスは「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それと
も人からのものだったか答えなさい」と、律法学者たちに
逆質問をした。
これは律法学者たちを悩ませた。洗礼者ヨハネは、民衆か 
ら好かれていたし、信仰復興・宗教改革者としても十分な 
働きと実力を備えた人である。この彼の洗礼運動が「神が 
与えたものだ」とすれば、律法学者たちは何故それに従わ 
ないのか、と責められるし、逆に「ヨハネが勝手にやり始 
めたことだ」と答えれば、民衆を敵に回してしまう。
 この絶妙な質問によって、律法学者は何も答えられなく 
なるのであった。重要なのは、「彼らは群衆が怖かった。 
皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである」 
という一節である。つまり律法学者たちの権威が、人への 
恐れから来ている事が示される。「神の」の御心を問うべ 
き彼らが、「人間の」顔色をうかがっていたのである。 
 イエスの質問はこのことを暴露するものとなった。祭司 
長・律法学者たちは、神のみを畏れるという一番大切な任 
務を放棄し、つまり「彼らの権威の出発点を放棄した」の 
だ。
 イエスはゲツセマネの祈りの中で、「この苦しみの杯を 
取りのけて下さい」と祈りつつ、「しかし、全ては御心の 
ままに」と続けた。人を恐れ、肉の痛みを恐れそうになる 
弱い我々と同じ苦しみを受けられたイエスは、最後の最後 
で従うべき方、畏れるべき方が「父なる神」であることを 
明らかにしたのであった。
 また、イエスは、あるとき弟子たちに「からだを殺して 
も、魂を殺すことの出来ない者、つまり人間なんか恐れる 
な。むしろ、体も魂も地獄で滅ぼす力を持つお方、つまり 
神を畏れなさい」と言われた。それはその後の弟子たちの 
歩みが、決して前途洋々でなく、迫害や苦しみに遭うかも 
しれないことを知った上で「人間を恐れる必要はない」と 
言われたのだ。本当に恐れなければならない神を畏れるこ 
とは、他の何者をも恐れる必要がなくなる、ということで 
もある。この世に生きる以上、我々には多くの不安が付き 
まとう。先の見えない恐ろしさや恐怖が私たちの心を苦し 
めることも起こる。だが主イエスは、我々がもはや畏れる 
方は真の権威者ただ一人であることを示されたのである。

2018.11.04の説教から

 
              <114日の説教から>
                『山も動く
            マルコによる福音書1120節~26
                         牧師 三輪地塩
 
  赦すというのは大変難しいものであり、誰でも彼でも、
 何でもかんでも赦すことなどできない。或いは、キリスト
 者だから、信仰者だから「赦さねばならない」と自分の能
 力や素質以上の義務を自分に課してしまうことがあった
 とするならば、信仰が信仰者を破壊することにもなりかね
 ない。「赦せない私は信仰者としては劣ってる」と、もし
 考える事があったならば、それは、赦すことを義務化し、
 赦せない自分自身の足りなさばかりを見つめることにな
 ってしまう。

  しかし、そうであっても、もし主の「愛に押し出された
 赦し」が成り立つのならば、大変に素晴らしいものとなる
 だろう。我々の教会という共同体は、神を礼拝する者たち
 が集まった信仰者同士の交わりである。そこには一つの神
 に対して、一つの信仰が、一つの礼拝によって守られてい
 る場所である。心の中で、隣り人を裁いたまま、仲たがい
 したまま、或いは憎しみをもったまま祈ることは、神への
 不敬、つまり、神への敬いを失った行為となるのである。
 他者への赦しを失ったまま、神様から自分自身の罪の赦し
 を願うことはできない。25節にあるように、「立って祈る
"margin:0mm 0mm 0pt;line-height:115%;"> とき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦し
 てあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父もあなた
 がたの過ちを赦してくださる。」と主は言われる。人を赦
 さないままで祈るとき、自分自身が神から赦されたことに
 まで疑いが生じてくる。私がこんなに赦せていないのに、
 私の罪は赦される筈がない。そのように感じてしまうと
 き、神様の赦し自体を疑ってしまうのである。しかし、神
 はキリストの十字架の赦しは、疑いの余地のないほどに、
 完全な赦しとして完成される。我々の赦しの根源はまさに
 ここにあるのだ

2018.10.28 説教

                <1028日の説教から>
                『腰掛をひっくり返す
             マルコによる福音書1112節~19
                                 牧師 三輪地塩
 イエスは神殿を「強盗の巣」と批判し、堕落した宗教祭儀を嘆いている。「両替商」とは、神殿にお金を納めるための「両替」である。当時ユダヤ地方の通貨は、ローマの貨幣が使われていたが、神殿に納めるためには「ユダヤの通貨」に両替してから献げねばならなかった。問題は、その両替レートがあまりにも法外なものだったことにある。
 
 もう一つは「鳩を売る者の腰掛けをひっくり返した」のである。当時鳩は、犠牲獣として売られていた。聖書には「焼き尽くす捧げ物」と呼ばれる屠るための犠牲獣が出てくる。牛や羊よりも手頃な鳩は重宝された。だが、この鳩が法外な値段で取引されていただ。今でも有名観光地では客の足下を見るように土産品や特産物は高いものである。この神殿では神への捧げ物にこの市場原理を用いていたということである。
 更に、これは推測でしかないが、「犠牲獣」と言いながら、実は「焼き尽くさず」こっそり裏道から生きて戻されて、また売られた、という事も十分に考えられる。
 つまり、神殿そのものが、宗教ビジネスの巨大な装置として金のなる木としてのシステムが出来上がっていたと言える。まさに、宗教界の「白い巨塔」さながらの宗教ビジネスに、司祭やレビ人のような神殿祭儀を勤めとする宗教者たちも関与し、その利権の恩恵にあずかっていた、と考えられるのだ。
 主イエスは、その歩みの中で、多くの苦しむ者、排除された者、病に塞ぎ込む者、生きる力を無くした者、神の祝福に預かれない罪人たちの隣人になってきた。外国人、身体障害を持つ者、子どもたちといった礼拝に預かれないと思われて来た人々を積極的に神の下に引き入れたのであった。しかし、その救いのシンボルであるはずの神殿が、彼らを排除し、むさぼり、詐欺まがいの行為を行っているとすれば、そこは既に神の家ではなく、強盗の巣そのものである、とイエスは言うのである。「怒るイエス」の姿は、我々のイエスのイメージにはあまり馴染まないかもしれないが、その怒りの裏には、イエスの深い愛があるのだ。

2018.10.24 説教

  
              <1014日の説教から>
         『ホサナ。主の名によって来られる方に』
          マルコによる福音書111節~11
                           牧師 三輪地塩
 イエスはエルサレムに入城するための準備の場面。「二人が子ロバを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉のついた枝を切って来て道に敷いた」。おそらく王の戴冠式をモチーフにしているのであろう。当時の各国の王はこのようにして国に凱旋していた。
 「馬に乗らずロバに乗る」という行為は、イエスのへりくだりを示している。そしてロバにはもう一つの意味がある。当時ロバは決して蔑まれていた動物ではなく、柔和で力のある動物として好まれていたようであった。そのためロバは「平和の象徴である」と言われていたのである。つまりイエスは、「へりくだり」と「平和」を携えてエルサレムに入ってきたのだ。暴動を起こそうとしていたわけでも、革命を起こそうとしていたわけでもない。本来の「神の国の福音」を伝えるため、信仰の中心地であるエルサレムに来たのである。
 イエスを大歓迎で迎えた人々は歓喜の声を上げ「ホサナ。主の名によってこられる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」という。「ホサナ」は「救ってください」という意味である。歓喜の声を上げた人々は、イエスが自分たちを救うメシアである事を直感していた。
 皮肉にも、大歓迎の民衆を含むであろう「全ての人」が、イエスの十字架を阻止できなかった。「その時」が来たら、12弟子は逃げ出し、民衆もバラバを釈放し、イエスを十字架につけることを求めた。
神の独り子イエス・キリストは、その死において、へりくだりの主であり、平和の主であることを、誰の目にも明らかに分かるように示された。
我々はイエスに従う者たちであると同時に、裏切る罪をも孕む二律背反的な者たちであるこの二心を持つ我々は、高ぶらず、へりくだりる、平和の主に対して、何をすべきなのであろうか。信仰者一人ひとりにかかっている。

2018.10.07 説教から

      <107日の説教から>
             『救いを叫ぶ』
           マルコによる福音書1046節~52
                         牧師 三輪地塩
 エリコに住んでいたバルティマイは、盲人であり、町の片隅で物乞いをしていたとある。当時「盲人」の「物乞い」であることは、「罪の結果」あるいは「先祖の罪が現れた」と考えられており、大変に肩身の狭い生き方を余儀なくされていたようである。
このバルティマイの前をイエスが通ったのである。彼は「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」と、力の限りに主の憐れみを求めて、叫んだのであった。だが、その求めの声は、回りの者たちに妨害され、遮られてしまったのである。48節「多くの人々が叱りつけて黙らせようとした」とあるが、彼が妨害された理由は「主の憐れみを受けるのに不適格な人物だ」と思われたからであると思われる。「お前には救いは必要ない」「うるさいからあっちに行け」とばかりに、バルティマイは追い払われそうになったのであった。
ここにいる民衆は、イエスへの信仰を持つ者たちである。だが、彼らはバルティマイの信仰を「遮った」のである。彼ら民衆は「イエスへの信仰を持つに「相応しい者」」を見極め、イエスに近寄れる者かどうかを判断したのであろう。だがここが間違っている。イエスの救いを受ける者の相応しさは、人間の側の判断によらず、神の招きによるのである。主の救いを求める者の声を遮るのが「熱心で立派な信仰者である」というこの出来事から、我々は大いに学ぶべきであろう。
49節「イエスは立ち止まって『あの男を呼んで来なさい』と言われた。人々は盲人を呼んで言った。『安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。』」とある。一度はバルティマイの願いを妨害した民衆が、今度は彼を主のもとに連れてくる者となった。ここに神のくすしき計らいが示される。
確かに我々人間は、神の思いとは真逆のことをしてしまうというミスリードを行う罪と欠けを持つ。だが神は、その罪や欠けをも用いて、バルティマイの心を、「憐れみを叫び続けさせる者へと」変えたのである。ここに、神の深い計画を見ることが出来る。