2018.09.09の説教から

          <9月9日の説教から>
     『らくだが針の穴を通る方がまだ易しい』
      マルコによる福音書10章23節~31節
                        牧師  三輪地塩
 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者
が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の
国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。
 
 弟子たちは驚き、「このとおり、わたしたちは何もかも
捨ててあなたに従って参りました。」と言い、もうこれ以上
捨てるものがないほどに、全てをなげうって、イエスに従
ってきた事を訴えた。それでもまだ捨てるものが足りないと
でもおしゃるのか。そんな不安が感じ取られる。

  なぜ人間はお金に執着してしまうのか。その理由の一つ
は「何にでも変えられるから」であろう。等価交換を行う
経済のその「道具」は、「信頼」によって命を得る。信頼
がなければ使い物にならない。1万円札を1枚印刷する
のに20円しか掛からない。つまり原価20円の紙切れを、
原価2円の1円玉よりも1万倍の価値があると「見做して」
使用するのが「信頼」によって成り立つ「お金」「貨幣」
である。時に「信頼」を超えて「信仰」にすらなってしま
う「お金」は、「崇められ礼拝される神」と化すことさえ
ある。

 お金は時に「万能」のようでさえあり、地位も名誉も能
力でさえも手に入れるような錯覚に陥らせる。

 ここに来て「真の神を信ずる」我々の内には、「二人の
神に仕えることはできない」というイエスの言葉が心に響
く。我々人間は、一方で神を信じておきながら、もう一方
で貨幣が実現する(と考えられている)万能性を信じてい
るのである。つまり、その一方を捨てイエスは言っている
のだ。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいこと
か」と、実存的にイエスは語る。

 金持ちは天国に入るのは難しいが、それと同時に「貧乏
人が「貧乏」というだけで天国に入るわけではない」こと
も聖書は語るのである。貧乏人はあくまでも「状態」であ
って、神に向かう心構えが「貧乏」なわけではない。聖書
が我々に伝えようとする最も重要なことは、「何を最も大
事にして信じて生きるか」である。

2018.09.02 説教

             <92日の説教から>
             『お金持ちの男性』
          マルコによる福音書1017節~22
                             牧師 三輪地塩
一人の男がイエスのもとにやって来て言った。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。イエスは「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という、十戒の後半6つの戒めを挙げ、これを守るようにと答えた。
 しかしこの男は、「そのようなことは子供の時から守ってきました」と答えている。彼の態度は非常に信仰的であると言える。だが「子供の時から」という言葉に少々引っ掛かる。彼の信仰が「子供の延長線上」に見えるからだ。
 我々も同じである。子供の頃から教会に親しんだ人が、大人になっても日曜学校レベルの話しか理解出来ないのでは、少々残念に思えてしまうように。
 信仰は、我々が人生を歩むに従って、自ずとその段階を踏ませる。幼児の頃の神は、純粋無垢な祈りに、真正面から答えてくれるように思えた。だが大人になると、人生の紆余曲折を経て、必ずしも神が「自分の為だけの神ではない」ことに否応なしに気づかされる。
この男の信仰の稚拙さは、「貰う信仰」「与えられることだけを信じる幼児期の信仰」だったと言えよう。求め、手に入れるだけ。ベクトルが自分にしか向いていないのだ。
 イエスは彼に言った。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と。
 彼には欠けがあった。与えない信仰であることだった。神の前にも人の前にも、自分を明け渡すことのない人生を彼は歩んでいた。自分を「捨てること」が出来なかったのだ。「自分自身は保持したいが、永遠の命も欲しい」「しかし一切を捨てたくない」。それが彼だった。しかしイエスの要求は、「得るための欠乏」を求めるものである。「得るためには捨てるのだ」と言う。ヨハネ福音書12章にあるように「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。イエスは可憐、「自分を救うのでは無く、他者を生かすこと」を要求された。それは現代の我々への問い掛けでもある

2018.08.26 説教

        <826日説教から>
      『子供を祝福する』
       マルコによる福音書1013節~16
                           牧師 三輪地塩
 心理学者の河合隼雄の話。
「ある母親が相談に来て、「息子は幼稚園児なのに喋ることが極端に遅れている」と悩んでいた。勿論知能的な障害などはなかった。よくよく話を聞いてみると、母親は、子供を「自立」させるため、出来るだけ親と距離をおいて育てていたと言う。夜寝る時もできるだけ添寝しないようにし、一人で寝かせるようにした。子供は幼い頃から一人でベッドに行くようになって、それを見た親戚の人たちから感心されるほどだった、と言う。それを母親は「子の成長」と喜んでいた。だが、(河合隼雄の分析では)その子の自立は見せかけである。つまり、母親の強さに押されて、辛抱して一人で行動していただけで、本来的な自立をしていたわけでなかった。そのため、言葉の遅れが生じて来たのである。それを母親によく説明し、子供をもっと甘えさせなさいとアドバイスしたところ、その数ヶ月後には、言葉も急激に進歩し、平均的な子供の言語能力に追いついていったのである」。
 この河合隼雄の話は、「自立」と「依存」が正反対のことではないことを示している。自立とは「充分な依存の裏打ちがあってこそ生まれてくる」のである。自立は「依存しないこと」ではなく、「然るべき寄って立つところに依存すること」である。人間は、そもそも社会化された生き物であり、孤立して、単体で生きていくことは出来ない。人間は依存を排除して生きることは出来ず、必要な依存を受け入れ、自分がどれほど出来ないか、を良く認知した上で、感謝して依存すれば良い。その自覚こそが、本当の自立である。このような河合隼雄の分析は、あたかも、我々の信仰の歩みを表わしているかのようでもある。
主イエスは「子供たちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と言われた。なぜ神の国は「子供たちのような者のため」のものだと主は言われるのか。それは、子供こそが、親という「然るべき寄って立つ依存先を知っているから」である。それと同じように、我々もまた「神のもとに寄って立つ「子供のような」存在」でありたいものである

2018.08.19の説教から

       <819日説教から>
     『天地創造のはじめから
       マルコによる福音書101節~12
                          牧師 三輪地塩
 1世紀当時のユダヤ教には「シャンマイ派」と「ヒルレル派」という有名な派閥があった。シャンマイ派は、保守的で旧約の律法に厳格であり、離縁は絶対に禁止、という立場を取っていた。これに対しヒルレル派は、柔軟で穏健な立場をとっており、婚姻に関しては自由主義的・ラジカルな考え方をしていた。離縁については、場合によっては積極的に勧める事もあったようである。ここにある「モーセは離縁する事を許しました」という立場はシャンマイ的な立場と言える。
当時のユダヤ地方は、この二大派閥が結婚・離婚問題について激しく論争していたと言われる。つまり今日の箇所でファリサイ派が狙っていることは、「イエスを罠にはめ、どちらか一方の立場を取らせ、それによって他の派閥を遠ざけようとしていた」ということである。マルコ福音書に出てきた洗礼者ヨハネは、ヘロデ王の結婚問題を非難したため、首をはねられてしまった。ファリサイ派とヘロデ王は蜜月関係にあったので、下手に答えれば、イエスに身の危険が迫ってしまうのであった。
 この質問に対するイエスの答えは、彼らが予想したものではなかった。イエスは、どちらの立場も否定しなかったからである。裏を返せば、どちらの意見も尊重した、のであった。離縁して良い、というモーセの律法は、積極的に用いられるべきルールではなく、我々人間の罪の故に、やむなく制定されたものであると言うのがイエスの答えであった。つまり、モーセの律法は正しい。しかしモーセは積極的に離婚を推奨しているのではなく、あなたがたに罪があるから、モーセはやむなく離縁してもよい、と言っているのだ。
 どちらの立場も尊重する、というイエスの姿勢は、「イエスの名によって悪霊を追い出した者」に対し、「やめさせてはならない」「私たちに逆らわない者は、味方である」というイエスの言葉を彷彿とさせる。今日の箇所でも、天地創造の秩序をもとに、お互いの意見や立場を受け入れなさい、と語るイエスの穏健な語りを感じる。

2018.07.29の説教から

729日の説教から>
一杯の水を飲ませてくれる者は
        マルコによる福音書938節~41
                         牧師 三輪地塩
 イエスの名前を使って悪霊を追い出している人を見たヨハネは「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」と憤慨して言った。ヨハネは「主イエスに」ではなく「わたしたちに従わないので」と言っている。ヨハネは「イエスの名を使うなら、専売特許を持つ「我々12弟子に」許可を取る必要があるのだ」と言っているようでさえある。この自負心は「キリスト教会」にも起こりうる。これまでやって来た苦労、経緯、誇り、努力などが重なるほど、我々には自負心が生まれる。「我々はクリスマスに年に一度しか現れない、にわか信者とは違うのだ」とか、「教会のイベントやコンサートなどの時にしか来ない人たちとは違うのだ」という「誇り」や「自負心」が我々を取り囲みやすい。このようなヨハネ、ひいては我々に対して、イエスは「やめさせてはならない」「にわかファンでもいいじゃないか」と語るのである。
 我々は、何かの集団を作るとき、内側と外側という領域を作り、イエスの名だけを語る偽物と、正統な我々、という構図を明確にしたがる。だがイエスは「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と言う。この思いが極端になるとき、「自分たちに従わないので、私たちの基準に達しないので「排除」しましょう」という思考になる。まさにイエスの十字架はそのような思考構造の中で起きたことであった。
 今から2年半前に、フランス「シャルリー・エブド社」が、ムハンマドの強烈な風刺画を掲載したことで社員数名が射殺されるというテロ事件が起こった。単純に語る事は出来ないが、しかし一つだけ言えることは、この事件には深すぎる「自己(中心的)愛」があるということだ。「自己偏愛」と言ってもよい。自己や、自己の集団・信仰を愛するがあまり、その枠を超える言説を認めることができなくなる。それがこの事件に繋がったのではないかと思う。
 イエスの「逆らわない者は味方である」という言葉は、人間が、自己中心的偏愛から解き放たれ、自己と他者の垣根を越える世の構築を予期させるのである

2018.07.22 の説教から

722日の説教から>
この子供の一人を受け入れる者
        マルコによる福音書930節~37
                       牧師 三輪地塩
 イエスが弟子たちに「途中で何を議論していたのか」と尋ねのは、彼らが「誰が一番偉いか」について議論し合っていたからであった。彼らはイエスの思いとはかけ離れた価値観にあった。恐らく彼らも、誰が一番偉いかという事が本質的なものではないことは何となく分かっていたはずである。だから「黙っていた」のであろう。
この弟子の姿を見たイエスは、12人を呼び寄せた。「一番先になりたい者は、全ての人のあとになり、全ての人に仕える者になりなさい」。この言葉には信仰の本質が示される。イエスは、偉さの概念を、大きさや、立派さの中にではなく、身の低さ、謙虚さ、自己否定の中に示された。
 興味深いことに、イエスは「一番の弟子になって良い」と言う。イエスが言う「一番」は、人を出し抜いて奪い取る一番ではなく、仕える事による一番であり、人のために行なうことの一番である。イエスは謙虚さを求める。しかし、ただ控えめな謙虚さや引っ込み思案ではなく、「積極的な謙虚さ」である。弟子たちが「誰が一番偉いのか」について語っていたのは「ただの積極性」であった。イエスの求めは、「積極的謙虚さ」であった。イエスは「子ども」を引き合いに出し「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。と語る
 当時の子どもは「弱さ、無力さ」の象徴であった。政治的・経済的・軍事的に、人数として数えられるのは「成人男性」であり、女性・子供は、公の場に出ることが無かった。そのような小ささ、弱さ、無力さの象徴、である者たちを受け入れる者こそ、一番偉いのだ、とイエスは言う。
 現代も同じ響きを持って語られる、「現代社会の中で小ささ、弱さ、無力さを持った人」、さらに「蔑まれている人、軽蔑されている人、迫害されている人、虐め、虐待を受けている人」に対し、「私の名のために、その『小さく、弱く、蔑まれた人』の一人を受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。この言葉は真実である。