アブラハムのとりなし

2009.8.23  創世記 18:16-33  牧師 中家 誠

 信仰の父祖アブラハムに、「約束の子が与えられる」との知らせが届いたのと入替えに、腐敗したソドム、ゴモラの滅亡の知らせが告げられる。

 これについて、アブラハムは黙っていることができない。ひとつは、甥のロトがその地に住んでいることによる。しかしそれだけではないと思う。もしそうなら、「甥のロトを助けてください」と言えばすむことである。

 彼がこんなにも熱心に神に問いかけることの中には、この世を導かれる神のみこころが何であるかを知りたいという願いがあると思う。「神が悪い人と共に、正しい人をも滅ぼしなさるのか」という問いである。これに対し神は、最終的に、「10人の正しい人がいるならば、わたしは滅ぼさない」と言われる。しかしソドムとゴモラは滅びてしまうのである。10人の正しい人もいなかったということである。「義人なし、ひとりだになし」である。

 このような世をも、神は一人の義人、御子イエス・キリストのゆえに赦したもうというのが、聖書の福音である。

 それにしても、アブラハムのこの執拗なまでの「とりなし」の姿勢は、どこから来るのであろうか。それは、「神から与えられた」という他ない。
信仰者たちは皆、神の深いご忍耐と憐れみの心を学び、かつ映し出す者たちなのである。「とりなしの祈り」こそ、神の子とされた者たちの聖なるつとめであることを覚えたい。

世界平和の基(もとい)キリスト

2009.8.16  エフェソ 2:14-18  牧師 中家 誠

 敗戦記念の日に当り、旧約のイザヤ書から3つ、新約から1つの御言葉を聞きたい。

 ①「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向って剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(イザヤ2:4)。ここに究極の神のみこころが示されている。 

 ②預言者イザヤはまた言う、「神に立ち帰り、静かにしているならば救われる」(イザヤ30:15)。これは、神への信頼を述べたものである。 

 ③更にまた言う、「イスラエルを苦しめる二つの大国アッシリアとエジプトが、イスラエルの神、主のもとに、共に手を結ぶ時が来る」と(19:23)。永遠の和解の日が来る。その仲立ちとしてイスラエルは働く者となる。天地の創造主なる神のもとに、最終的に一つとなる時が来るのである。

 わたしたち人間の心は、その時その時の状況によって容易に動かされるものである。動かされないためには、動くことのない「神の言葉」が必要である。その「神の言葉」が人となって来られた方こそ、主イエス・キリストである。

 このキリストが「十字架を通して敵意を滅ぼし、二つのものを一つにされた」(エフェソ2:16)のである。この生き方に基づいてこそ、わたしたちは動かされない者となり、神の御旨に基づいて行動することができる。

 64年目の敗戦記念日に当り、この事を深く心にとめたいと思う。

平和の王 イエス・キリスト

2009.8.9  マタイ 21:1-11  牧師 中家 誠

 64年前の8月、日本では2つの原爆投下があり(6日広島、9日長崎)、20数万人が死んだ。それは地獄さながらの有様であったのである。そして15日に敗戦日を迎える(わたしたちは、これを単に「終戦」と言わず、「敗戦」という。それは自分たちが始めた戦争の結末を強く意識にとどめるためである)。この戦争を通して、日本では350万人、外国では2,000万人が死んだと言われる。

 このような悲惨をもたらす戦争がなぜ起きるのだろうか? それは自分を守ろうとする心が、人間の欲や力(武器)と結びつき、相手を倒すことよってそれを成り立たせようとすることにあると思われる。

 今ここに、それとは全く別の法則によって生きる人がおられる。それは神から来られたイエス・キリストである。キリストは神の御子であられたにもかかわらず、自分を空しくして人となり、人間の悲しみや苦しみを深く連帯され、最後には、人の罪を負って十字架に死に、神の御前に謝罪してくださったのである。

 それは、「自らの身を守るため、他者を犠牲にする」道とは反対の、「他者を守るため自分を犠牲にする」道である。わたしたちはこの方を頭とする群れである。平和をつくり出すことは至難のわざであるが、神の平和と愛の心を頂き、他者を大切にすることによって、一歩でもこの道を歩んで行く者になりたいと願うものである。

2月28日の礼拝

10:30~ 主日礼拝 <レントⅡ>

説教「一つになるための最後の祈り」

ヨハネ福音書 17:20-26  河野 美文    


9:00~ 日曜学校

説教「受難の予告」

マルコ福音書 8:31-38  薄田 東正


祈りつつ、友人・知人・身内の方々をお誘いください。
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イサク誕生の予告

2009.7.26  創世記 18:1-15  牧師 中家 誠

 信仰の父祖アブラハムの生涯は、神との出会いの生涯であった。そしてそれは、神の訪れによるものである。「福音」とは「よきおとずれ=音信」のことであるが、また「神の訪れ」でもある。

 この時も、アブラハムの予期しない時に、神は3人の旅人として訪れてくださった。その旅人に対し、アブラハムは知らずして(ヘブライ書13:1-2)最高のもてなしをしたのである。

 しかし考えて見るに、真のもてなしをしてくださったのは、むしろ神のほうではなかったか。神は彼に、「来年の今ごろ、わたしは再び来る」と言い、「その時、あなたに子が生まれているでしょう」と告げられた。それは「喜ばしいおとずれ」であるはずだった。しかしアブラハムの妻サラは、心ならずも、心の中で笑ってしまったのである。「自分は年をとり、主人も年老いているのに、何の楽しみがあろうか」と。

 このようにわたしたちは、主のご真実に対し、心の中で不信仰を抱く者たちである。その信仰の弱いわたしたちに、主は礼拝において現われ、祈祷会において現われ、「わたしである。しっかりせよ」と励ましてくださるのである。そして不信の笑いに代えて、信仰の喜ばしい笑い(イサク=彼は笑うの意)を与えてくださるのである。

聖なる神

2009.7.19  イザヤ書 6:1-8  牧師 中家 誠

 預言者イザヤ(今から2750年前の人)が、神から召命(神に用いられるために呼ばれること)を受けた時、彼は神殿の中で、聖なる神の栄光が満ちるのを覚えた。それは高く天にそびえ立ち、また全地に満ちる神の栄光であった。

 そのとき、彼が聞いた天来の響きは、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」という讃美の声であった。「聖なる」とは、この世と「異なる」「はるかに超えた」との意であり、神が天地の創造者として持ちたもう尊厳と栄光である。

 彼は、その圧倒される力に打たれて、「災いだ、わたしは滅びるばかりだ。汚れた民の中に住む者であるのに、王なる万軍の主を仰ぎ見たのだから」と、心の内に叫んだとある。

 わたしたち日本人は、「神の聖」の観念がうすいと言われる。創造者と被造物が地続きとなっているのである。しかし両者には、絶対的な相違がある。一方は造り主であり、他方は造られたもの。一方は無限であり、他方は有限である。この高き無限の神が低き者となり、愛のゆえに人となって来られたのがイエス・キリストである。ここにキリスト教の基があるのである。