2021.1.3 の週報掲載の説教

<2019年9月29日の説教から>

身を慎んで目を覚ましていなさい
ペトロの手紙一5章8節~14節

牧師 三輪地塩

人は困難・艱難に見舞われるとき、とかくその苦しみが自分にだけに降りかかった不幸であると考えがちだ。「誰も分かってくれない」「この苦しみをみんなに聞いてもらいたい」と一人で塞ぎ込むことはしばしば起こるだろう。

当該箇所で著者ペトロは、「苦しみの共有」「苦しむ者たちの繋がり」について語っている。「あなた方だけが苦しみ、痛んでいるのではない。今、共に闘っている同労者がいる」と述べ、「ローマ帝国で苦しむ信徒」の声を伝えている。我々は現在、Instagram、Facebook、LINEなど多くのSNSによって世界と繋がる社会に生きている。SNSの素晴らしさは言うまでもない。だが同時に、発信される情報は、個人の裁量に任されている。つまり「人間活動の良い面」が発信されることが多いと言える。自分の不利益、罪の告白、人を傷つけた過去の出来事、迫害され虐げられた生活を赤裸々に発信するよりも、「リア充」(※実生活が充実していることを表す現代用語)を発信する傾向は強いだろう。SNSから発信される有益な諸情報が数多くあったとしても、「人間の心の奥底の痛み」「誰にも相談できない苦しみ」は、「今のところ」デジタル・ネット社会に解決できてはいない。

だが、SNSには苦しんでいる人々の連帯を強める#me tooのような社会運動がある。この視点から考えると、当該箇所はいわば#me too運動さながらである。巨大国家に虐げられ、地域住民から害を受けた、小アジアの片隅で苦しむキリスト者たちの心の叫びを共有し連帯を促している。一人一人では解決できない信仰者たちの痛みの連帯、被迫害者たちのネットワークを、著者ペトロはいわば「ホストサーバー」となって励ましの言葉を与えるのだ。「共に選ばれてバビロンにいる人々」(5章13節)と言われる苦しむ者たちの繋がりの根本が「キリスト」であることを著者は伝え、この手紙を「キリストによる平和」で締めくくる。最後の「平和があるように」の言葉は、ヘブル語では「シャーローム」。シャーロームは「主にある平安」であり、「安全・無事・平々凡々」を意味しない。闘いや苦悩の中にもシャーロームがあり、痛みや迫害の中にもシャーロムは存在する。キリストを信じる仲間たちと共に耐え忍ぶことが出来れば、そこに「シャーローム」が存在する。