2021.4.11 の週報掲載の説教

<2019年12月22日の説教から>

ルカによる福音書2章1節~21節

 『神には栄光、地に平和』
牧師 三輪地塩

アウグストゥスは勅令を出して人口調査をしたため、ベツレヘム周辺はとても込み合っていた。泊まる宿屋がどこも一杯だったという。「彼らの泊まる場所がなかった」というのは、場所の問題でなく、「宿泊拒否」「泊めてもらえなかった」ということなのかもしれない。だとすれば、「失望の言葉」であり「絶望の言葉」となる。聖書は、ヨセフとマリアの状況を我々に提示することで、キリストが我々の「絶望」や「困窮」と共にいることを伝える。

マリアは馬小屋で出産をしたと考えられている。暖かさではなく寒さがあり、人々からの受け入れではなく拒否があり、温かな布団ではなく一枚の布があり、清潔な産湯ではなく飼い葉桶があったのだ。この全ての状況によって、聖書は我々に、キリスト誕生の意味をつぶさに示す。

この嬰児は、この世に生まれてくるどの子どもとも同じように、弱く、小さく、頼りなく生まれた。母親はこの嬰児が凍えないように、おくるみに包んだ。しかしそれは暖かな布団でも毛布でもない「布切れ」だった。飼い葉桶の中に寝かせられていたことは、この嬰児が帰る場所(故郷)を失っていたことを伝える。この弱く、小さく、頼りない幼子。帰る場所がなく、世(間に見放され、一枚の布で包まれたこの乳飲み子は、小さく頼りなく、帰る場所にも、世間にも見放され、一畳一間の部屋にうずくまる小さな者たちに対しても福音を語るのだ。すなわち、現代に生きる、居場所を失った全ての人々、暗く寒い場所で凍えている人々、心を塞いでいる人々、喪失感・絶望感の中を生きている全ての人々と共に、キリストは生まれたと聖書は語っている。我々が考え得る限りの、貧しさの極みの中に入り込み、如何なる者もこれ以上に低く、弱く、助けなき者となったことがないところにまで来て下さった。イエス・キリストは、我々の困窮の中に来て下さった。

救いはすぐ近くにある、と聖書は言う。救いとは、遠く離れた場所にある、人間の貧しさと苦しさとは無縁の美しさにあるのではなく、我々の苦しみの真っ只中に存在している。神はまさにそこに居られる。日々心を悩ませ、労苦する者たちと共に、主は居られるのだ。それが「インマヌエル」の主である。