2023.3.5 の週報掲載の説教

2023.3.5 の週報掲載の説教
<2023年1月29日の説教から>
『義の奴隷』
ローマの信徒への手紙6章15節~23節
                 牧 師 鈴木美津子
 
罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです(23)」。

23節は、これまで6章で示されてきた罪の奴隷か、神の奴隷かの議論の結論である。罪という主人に仕えたその報いが死、とはなんと愚かな結末だろう。

他方、「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命」であると約束されている。ここで大切なのは、神の報酬が永遠の命である、とは言わないで「神の賜物」、と言葉を変えているところである。「賜物」とは、神の贈り物という意味である。ですから、「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命である」、と聖書が言う時、それは、報酬ではなくて、神から一方的にいただけるプレゼントなのだ。

死は、罪に対する報酬として必ず与えられる。しかし、永遠の命は、私たちが労したものに見合う報酬として与えられるようなちっぽけなものではない。神の御子、わたしたちの主イエス・キリストの十字架の血が流されたほどの高価なもの、貴いもの、それが永遠の命である。

「恵みが増すようにと、罪の中にとどまる」などというような、福音とキリスト者の自由を曲解する立場は、大きな勘違いである。そもそも、恵みは人間の意志や行為で増大できるような物ではない。恵みとは、ただ神の御心によって値なしに私たち罪人に注がれるものであって、私たちが自ら増大できるような恵みは、ただの一つもないのである。「恵みが増すようにと、罪の中にとどまる」とき、そこで増加するのは、恵みではなくて罪や汚れであり、その最終地点には「罪が支払う報酬は死」というゴールが待つのみである。私たちも以前は、そのゴールに真っすぐ向かっていた。しかし、「罪の奴隷」から解放され、今や「義の奴隷」となった私たちが、やがてたどり着く先にあるのは、「わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命」、この神の賜物(プレゼント)なのである。