2023.3.12 の週報掲載の説教

2023.3.12 の週報掲載の説教
 
<2023年2月5日の説教から>
 
『律法に対して死に、神に対して生きる』
 
ローマの信徒への手紙7章1節~6節    牧 師 鈴木美津子
 
私たちは、キリストの十字架によって律法の要求から自由にされ、赦されている。しかし、それでも、律法を守れない自分を恥じ、嘆いている自分がいる。そのことが信仰の戦いをすればするほど、それが鮮明に見えてくるのだ。殺すな、と言いつつ人を憎み、姦淫するなと諳んじては情欲を抑えられない。この私は一体何者なのか、と苦しむ心は叫びをあげる。パウロの時代もそして今も、愚直な信仰者ほど、苦しむのではないのか。それは、信仰の戦いがあって初めてわかることである。ところが、その戦いの最中にこそ、その闇の中にこそ、「しかし今は、」なのだ。律法は、私を縛っていた、私は一つさえまともに律法を守れなかった、私はあがくのがやっとだった、その状態の私が、律法から解放されている、という福音の光に今照らされたのだ。実に、私たちが、信仰者として失格だ、と落胆する時にこそ、この律法から解放されている、という御言葉が響くのではないだろうか。キリスト者として元気に前進している時ではなく、転倒し暗闇に隠れて嘆いている時にこそである。そして、大切なのは、さらに続けて「その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。(6b)」、と新しい生き方が示されるところである。

律法の文字は、私たちを罪に定め、死の判決を下す。これが「文字に従う古い生き方」である。しかし、私たちは、「“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっている」のだ。この生き方をパウロはコリント書で、「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」(コリ二3:6)」、と適切に表現している。私たちは、新しい契約であるキリストの十字架の福音を宣教するために用いられているからだ。

主と同じ姿に造りかえられていくという聖化の歩みは、私たちの力ではなく、主の霊の働きによるのである。そうである以上、私たちはもはや自分の弱さに嘆いたり、罪深さに恥じる必要はない。それでも尚、主と同じ姿に造りかえられていくのだから。私たちがどのように、自分自身を卑下していても “霊”に従う新しい生き方は、聖霊の働きによって今その弱い者の中で実現しているのである(フィリピ1:6)。