2019.11.17 週報掲載の説教

<2019年3月17日説教から>

あなたのことを知らないとは申しません』 
マルコによる福音書14章27節~31節

牧師 三輪地塩

イエスはさまざまな奇跡の業を行いながら宣教活動を行ってきた。弟子たちは、その奇跡を間近で見ることによって、自らの経験としたのであった。だが、その経験が、かえって弟子たちの落とし穴になった。彼らは、イエスの救いの業を、自らの力で成し遂げたかのような錯覚に陥っていた。

例えば、アクション映画を見た後に、自分がヒーローになったかのように気持ちが高揚するし、苦難を乗り越える小説を読み終えた後には達成感を抱いてしまう。このときの弟子たちは、「イエスの宣教の主人公」になってしまっていた。

その「勘違い」が明らかとなったのが、イエスの言葉に対する彼らの応答に示される。イエスは自らの逮捕を予告し、あなたたち(弟子たち)は私(イエス)から逃げていくだろう、と伝えた。これに対し、勘違いを起こしている弟子たちは、次のように答える。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。このように、イエスの予告を否定し、自らの「意思の強さ」を強調したのだった。それは答えたペトロのみならず、他の弟子たち全員の思いの代弁であった。

ここに示されるのは、「人間の過信」である。どんなにイエスと共に歩んでいても、イエスの奇跡を間近で見たとしても、我々人間が、神になることなど出来ないのだ。このペトロの言葉は、あたかも「人間には、何でもできる」と語っているかのようだ。我々人間は高を括ってはならない。我々はそれほど強くはないのだ。

だが、ここには人間の絶望が書かれているのではない。確かに人間の罪のみを見ると「絶望」しかないのかもしれない。だが、ここに希望に照らされた言葉がある。28節「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。この言葉である。復活の時に語られた天の使いたちの言葉が先取りされている。罪ある我々に、イエスは復活して再会してくださるという祝福の約束である。この後、イエスの逮捕と同時に一目散に逃げてしまう弟子たちに、イエスは「あなた方より先に」、つまり、キリストの恵みが我々に「先行して」待っている――救いは用意されている、と語るのである。

2019.11.3 週報掲載の説教

<2019年2月3日説教から>

今後も決してないほどの苦難が来る』 
マルコによる福音書13章14節~23節

牧師 三輪地塩

この30年間の総決算をするとき、最も衝撃を与えた出来事に「地下鉄サリン事件」がある。これは我々日本人の宗教観を一変された。しかも悪い意味で。

あの教祖がしきりに使っていた「ハルマゲドン」は、ヨハネ黙示録の中で天使と悪魔がこのこの世で戦う「最終決戦」と言われるところから来ている。聖書の意味はキリストの再臨に対する希望であって、「サリン事件」などではない。まことに勝手な解釈も甚だしい。

ジャーナリスト江川紹子は「人は恐怖感、無力感、そして切迫感を同時に抱いてしまうと、立ち止まったり、振り返ったりして内省する余裕を失い、唯一救われる可能性のある行動を語る方向に誘導されやすい」と語る。

だが我々の日常にも、切迫観に煽られる思考停止は頻繁に起こる。例えば、スーパーマーケットに行き、食品売り場で鳴り響く、急かされる音楽と連呼される「お買い得!」の言葉。タイムセールになると「半額」シールが貼られ、我々は思考を停止し、パーセンテージの高い商品を、必要であるか否かを考えずにカゴに入れてしまう。レジを通すとき、ハタと我に返り、自らの愚行を悔やんでも時既に遅し。切迫は脅迫となり、無思慮な思考停止を生んでしまう。

恐らく、かのカルト信者たちも、切迫した終末観を植え付けられ、世の終わりを迫られ、恐怖に駆られ、教祖の言葉に全てを委ねてしまっただあろう。あの教祖は自らの「予言」を現実させたかに見せるため、「予言の成就」を、血で塗られた出来事としてデッチ上げた。「まやかしの終末」である。

マルコ福音書は我々に終末を語る。「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら― 読者は悟れ ―、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」。我々は「憎むべき破壊者」を見極め「悟れるかどうか」にかかっているという。見誤ってはならず、いつも悟ることが出来るよう、くまなく世を見続けねばならないとマルコは語る。

我々信仰者は知っている。終末の出来事は「恐怖」ではなく「最終的な審判の時」である。言わば、この世の混乱した結び目がほどかれる時、それが終末である。決して恐怖ではなく「祝福」だ。我々は自信を持って終末の備えをしたい。

2019.10.27 週報掲載の説教

<2019年3月10日説教から>

『最後の晩餐』 
マルコによる福音書14章22節~26節

牧師 三輪地塩

イエスが十字架にかかる前夜の「最後の晩餐」での出来事。イエスは「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と発言し、弟子たちはショックを受けた。彼らは代わる代わる「まさか、わたしのことでは」と言い始めた。この弟子たちの姿勢は悪くない。なぜなら、「それは私ではありません」ではなく「それは私かもしれません」と言っているからである。人は罪を犯す。それが前提である。どんな立派な人間であっても、どんなに社会的地位が高くても、「聖人」と呼ばれるような者であっても、みんな罪人である。それ故に、「まさか私のことでは」と尋ねる姿勢は正しい。

この衝撃発言の後でも、イエスは晩餐を続け、これが十字架前の最後の晩餐となったのである。我々の礼拝においても、次の言葉は聖餐式でお馴染みである。「これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である」。この言葉は重要だ。キリストの十字架の血が、個人の罪ではなく「多く人の罪のために流されたものである」と書かれているからである。ユダは明らかな「裏切り者」のレッテルを貼られる人物になったが、この罪をユダのみに着せることはできない。我々の内に「ユダ性」が秘められており、「ユダ的に」罪を犯す可能性から目を背けてはならない。ユダは我々人間界の彼岸に存在するのではなく、まったく我々と同じ此岸の存在である。それは、他の弟子たちが、それぞれの仕方でイエスを裏切った事にも示される。例えばマルコ福音書14章50節には「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」とあり、続く51節には「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった」。とある。また同14章71節には「するとペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『あなた方の言っているそんな人は知らない』と誓い始めた」とある。ユダ以外の弟子たちもイエスを裏切っている。それは我々人間全ての姿だ。そこに言い訳も弁明も釈明もできない。我々に残されている行為は、この罪を赦し得るのは、「多くの人の罪のために流された」「キリストの十字架以外にない」と告白することのみである。

2019.10.13 週報掲載の説教

<2019年3月3日の説教から>

『ユダの裏切り』
マルコによる福音書14章10節~21節

牧師 三輪地塩

「最後の晩餐」は、聖書のエピソードの中で最も有名な場面の一つである。ここには「敵」の只中で孤立するイエスの姿を見ることができる。祭司長、律法学者たちの包囲網を掻い潜って、見つからないように過ごしているイエス一行であったが、このイエスらを慕う者たちもおり、その無名の篤志家によって、彼の自宅の二階が提供され、最後の晩餐が開かれた。敵の中にある「味方の存在」がこの場面を作った

「ユダの裏切り」という行為は、ドラマチックな場面であるが、他方では、神の救いの計画の一部分を為しているということもできる。神は、ご自身の壮大な計画の中にユダの存在を含め、受難、十字架、死、復活という出来事によって救いの計画を成就させようとしている。すなわち「神の必然は何だったのか」ということである。イエスは御自分の苦難の道を知っていた。しかし、ゲツセマネの祈りにあるように、神の計画したことを、「死ぬばかりに悲しみながら」、それを受け入れている。この大きな神の計画の中にあって、ユダの裏切りはまさに「必然」となって現われたのだった。

その意味において、ユダがイエスの敵であるとか、他の弟子たちが味方である、という分け方は正しいとは言えず、全ての存在が神の計画に携わっている事実のみである。我々の人生の歩みを振り返ってみても同じことが言える。自分にとって敵と思われた人が、実はそのおかげで注意深く行動を取れるようになったとか、敵とされる人の指摘や反論があったおかげで、立ち向かい方が養われ、自分自身が強さを増していくきっかけを与えられた、などである。キリストを銀貨30枚で売ったイエスの「敵」は、聖書において特別な罪を犯すが、だが我々がユダの罪を持っていないかと言えばそうではない。我々も時にユダと同じ心の弱さを露呈し、つみを犯してしまうこともあり得るのである。キリストと共に生きるとは、我々が自分の利のためにキリストを売ってしまうかもしれない、という弱さを抱えながら、その弱さと共にキリストが歩んで下さる事を信じることにほかならない。このようなキリストに敵対してしまいがちな、「この私」をも、主は、主の救いの計画のうちに用いて下さるのである。

2019.10.06 週報掲載の説教

<2019年2月24日の説教から>

『ナルドの香油』
マルコによる福音書14章1節~9節

牧師 三輪地塩

ある女性がイエスのもとにナルドの香油を持って来た。香油は純度が高く大変高価な物だっだが、惜しげも無くその壺を割りイエスの頭に注いだ。この香油は、殺菌効果の高い植物で作られた防腐剤であり、葬りの準備をするものであった。この女性がなぜ高価な香油を持っていたのかは分からない。元々良い家柄の女性なのか、頑張って貯めたなけなしのお金で買ったものなのか。

この香油注ぎを見た弟子たちは憤慨した。「大変な無駄遣いをした!なんてバカなことをしたのだ!」と。もっとも、弟子たちのこのような批判もあながち間違いとは言えない。ベタニアという町は「貧しい者たちの町」であったため、共に同じ痛みを背負っている者たちに対して施しをした方が、有効活用できたと思われるからだ。弟子たちの批判は正論であるし、相互扶助や助け合いの観点から言っても、ごもっともな意見であることは間違いない。

だがここで彼女が行なっているのは、単にイエスのため、イエスの葬りの準備のため、ということだけでなく、その根本にある、イエスへの愛、神への愛の表現である。何よりも、彼女のこの奉仕の行為が、極めて十字架的なものであるということが重要である。人間の目には全くの無駄な行為であるように映ってしまうことの中に、神の愛の本質、救いの本質がある、という意味において、彼女の行為は「十字架的」である。

彼女の献げ物は、人間の評価、経済原理、貧困や富、など、この世の人間的価値観を越えるものであった。彼女は様々なしがらみを越え、解放され、自由になり、一心に十字架に向かって歩む命へと切り替えたのだ。その意味において、「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」という最後の言葉は真実となる。

2019.9.29 週報掲載の説教

<2019年9月22日の説教から>

『なぜ、イサクを』
創世記22章1節~14節

長老 森﨑千恵

創世記22章は「信仰の父」と呼ばれるアブラハム物語のクライマックスです。それまでアブラム(後にアブラハム)は、主を信じ、主のご命令に従って77歳の時生まれ故郷カルデアのウルを妻サライ、甥ロトを伴って離れ、主の示されるカナンの地に移りました。こどものいないアブラムに主は「あなたの子孫は天の星の数のようになる」と言われ、彼が99歳の時に主は「あなたは多くの国民の父となる」との約束をなさり、名前を「多くの国民の父」を意味するアブラハムとされました。そして100歳の時ついにこどもが与えられ、その子をイサクと名付けました。

ところが、22章で主はその独り子を燃え尽くす献げものにしなさいと命じられます。「恵みの神様」と思っている読者はここで度肝を抜かれます。なぜ、どうして?と驚き、怒りさえ覚えます。聖書には、「神はアブラハムを試された。」とあります。神様は、なぜそのような試練をお与えになるのでしょう?

新約聖書ヘブライ人への手紙12章5節に「我が子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。・・・主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆鞭打たれるからである。あなた方は、これを鍛錬として忍耐しなさい。」とあります。神から与えられる試練の意味を考えると、このようにして主を信じる人を強く鍛えることとあります。また主はアブラハムがどこまで主に従順であるかをテストされたとの考えがあります。もうひとつ、試練を通して、気づきを与えることがあります。

この物語は、「主の言葉に従って」行動するアブラハムに、最後にはイサクに代わって献げ物になる雄羊を「主は備えてくださる」ことを示すと同時に、そのような人間には無理と思える要求をなさるのは「主の主権」を表されたのだと理解します。ヨブ記にありますように「主が与え、主が取られたのだ、主の御名はほむべきかな」なのです。恐らく多くの場合私達は「主の主権」を忘れて、つまり自分の命の初めから終わりまで主の御業だということを忘れて過ごしていることを思わされます。被造物である私たちは、主の主権に信頼し、試練には主の備えを信じて忍耐する信仰をと願います。